第3話 煩悩の連鎖

 坂巻が避難所に戻って数日経ったある夜、避難所に不審な男が寝ているという通報を受けた。

 鑑識官の権田原が目を覚ますと数人の男たちの視線に囲まれていた。周囲を見回すと見慣れた自分の部屋ではなかった。出先の店で酔い潰れでもしたのかと思ったが、有り合せの段ボールで作った粗末なパーテーションの四方から首が覗いていた。ギョッとして起き上がったが、どうやら仕切りられた居住スペースの中のようだ。酔っ払ってどこぞのホームレスの居住場所にでも紛れ込んでしまったのかと思ったが、どうやら避難所らしい。

「またか !?」

 権田原は恐らくの夢ワープとは思いつつ、とっさに時世のその後が気になった。権田原のことを通報したのは多野信治という隣区画の避難者だ。パーテーションの一角から覗く彼の強い視線が痛かったが、そこに坂巻が駆け付けて来た。幸運にも坂巻は権田原のことを覚えていてくれた。

「権田原さんじゃないですか! 急に居なくなったんでどうしたのかと思いましたよ!」

 権田原はホッとした。

「人を捜しに行ってたもんで…帰って来たら私の場所が無くなっていたので、取り敢えず空いているところにと思って…」

 取り繕うしかなかった。

「時世さんたちはまだ見つからないのかね?」

 権田原は一瞬不思議に思った。坂巻には誰を捜しているか言っていないはずである…いや、話したんだろうか…坂巻は時世を知っている口ぶりだ。そのことが引っ掛かって次の言葉が出て来なかった。

「つまらんことを聞いてしまったか…」

「あの、ここはどなたかの場所でしたか?」

「いや、ここで良ければどうぞ。このところ、避難所の出入りが急に増えたもんで、かえってすみません。ここは権田原さんの場所にしますから、これからは安心してご利用ください」

 権田原が地元の人間ではないことや、なぜこの避難所に辿り着いたかなどあれこれ聞きたかったに違いないが、坂巻はそれ以上追及することなくその場を治めてくれた。多野は正体不明の権田原に猜疑を残したまま渋々隣接する自分の居住スペースに戻って行った。思い返せば、元々多野の入っている居住スペースは、パーテーションで仕切られる前は権田原が居た場所である。しかし、今の避難所の様子は “元の世界” に居る間に随分と様変わりしていた。

 権田原はトイレに行こうと立ったが、どっちの方向だったのか場所が分からなくなるほどに物資やパーテーションで仕切りが雑多に混み合って来ていた。もしこの中に時世たちが居るなら今すぐにでも捜したいが、いちいち仕切りを区画ごとに訪ね歩くのは気が引けた。それに、もし時世がここに居るなら、坂巻が教えてくれたはずである。まだ見つからないかと聞いて来たということは、ここには居ないという事だ。坂巻が嘘を突いているとは思えない。もしここに居ないとすれば鬼隠ヶ浜市の他の避難所かも知れない。

 津波に追われて石段を駆け上がり、時世の父親に腕を掴まれて助かったのは確かだ。時世たちは一旦はここに来ている。夢ではあるが、兎に角、この避難所に居る間に時世たちを捜さなければと思った。その時、避難所の奥から女児の悲鳴が響いて来た。仕切りの外の人々は一斉に悲鳴の方を注視した。しかし、すぐに無関心になった。いや、敢えて無関心を装ったようにも見える。何だろうこの違和感は。避難所はまるで雀たちの一瞬の静寂ように、何もなかったように元の控えめなざわめきに戻った。

 権田原はどうしても悲鳴の向こうで何があったのか気掛かりで、もう一度立ち上がった。すると、隣接スペースの多野が呟いた。

「拘らないほうがいい。よくあることだ。拘って事を荒立てれば、あんた自身がここに居辛くなるだけだ」

 多野だけではなく、避難所事態にそうした空気が流れている。

「何故居辛くなるんですか?」

「・・・」

「向こうには何があるんですか?」

「トイレだよ。知らなかったのかい?」

 多野はそう言ったきり、床に潜り込んで黙ってしまった。少しすると悲鳴があったほうから若い男が出て来た。

「…あの男 !?」

 権田原はトイレから出て来た男に見覚えがあった。管轄内で起こった殺人事件の被害者のひとり・角田彰彦と酷似していた。角田が去るのを確認すると、母親らしき女性らが何人かトイレの方に走って行った。無関心ではなかったようだ。無関心を装ってはいたが動き出すタイミングを待っていたのだろう。

 暫くするとひとりの女性がしゃくり上げて泣く女児を抱き、悲痛な表情で小走りに出て来た。避難所の雀たちはまた一斉に無関心を装った。少し離れて他の女性たちも出て来た。彼女たちは女児を抱いた母親を気の毒そうに見送りながらも、急いで我が子を捜しにそれぞれの方向に散って行った。

 その後も、夜になると権田原は何度か同じような光景を目にした。自分が警察関係者として接しようにも、その証明になるものは何も持っていなかったため、傍観するしかなかった。


 中々寝付けない夜が明け、そろそろ時世たちを捜しに出ようとしていると、仕切りの一角で騒ぎが起きた。朝食の配給でひと段落すると、避難所はひと気がまばらになり、大半の大人たちは瓦礫や自宅の片付けに出払う。避難所に残るのは殆どが老人と子どもたちだ。避難所の担当者たちは、次から次と届くようになった物資の運搬や仕分けなどで忙しく、避難所内の事には目が届かなくなる。そうした隙を吐いて、避難所の中で異常な行動を取る大人がいる。幼児を狙って性器を露出したり、触らせる行為や、眠っている女児へのいたずらが頻発していた。避難所の外でも、遊んでいる幼児に避難民以外の見知らぬ男が卑猥な行為を強要する事件が続発していた。権田原は猥褻犯罪が常態化している避難所の現状に、愈々時世のことが心配になった。


 ここは確かに石段の上にある山の中腹の神社境内に隣接した中学校だ。夢で見たとおりなら、時世家族はここに避難している可能性が高い。夢だから見つからないのかもしれないが、夢でも時世が猥褻行為の犠牲にされることからは守らなければならない。特に猥褻行為の主犯格があの男らしいという事までは分かった。何故あの男を放置して置くのか、避難所の防犯の杜撰さにはこれ以上黙るべきではないと思った。自分一人でも主犯格のあの男を実力で阻止しなければならない。それに、坂巻が何か隠し立てをしているのではないかということも探ってみたかった。

 権田原は責任者の坂巻に避難所の今の実態をどう思っているのか思い切って聞いてみた。坂巻は真摯に答えてくれた。

「私も権田原さんと同じ考えですよ。でもねえ、あの男には手を出せんのだよ」

「何故ですか !? これ以上子どもたちの犠牲を出していいんですか?」

「高い声じゃ言えないが、彼は角田さんの息子でね。角田さんの撒き餌に群がる面倒な権利団体も付いてる。それに、お偉い弁護士さんもね。訴えたところで、結局こっちが村八分にされて窮地に立たされる。にも拘わらず息子は39条に護られて無罪放免。どうにもならんのですよ」

「あの息子は精神に問題があるという事ですか?」

「あるという事にされてしまうんだよ」

 現行の刑法39条では、『心神喪失者の行為は、罰しない。心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する』と定められている。猥褻行為ならず、殺人等の重罪を犯しても心神喪失・心神耗弱で不起訴或いは無罪が確定し、『精神保健及び精神障害者福祉に関する法律』で措置入院に逃げられてしまう。それならば、十年後に管轄内で殺されるのは、あの息子にほぼ間違いないだろうと権田原は思った。あの息子なら誰に報復されても不思議はない人生をこれからも送るはずだ。

「そういうことか…で、角田って何者です?」

「この雉追平の村長の角田三次さんだよ。あんた知らなかったのかい?」

「・・・」

「この避難所に、とんだ疫病神が来てくれたもんだよ。家が流されたわけでもないのにここに居ついて欲求の捌け口にしている」

坂巻は吐き捨てるように呟いた。権田原の指摘もあってか、その夜から天井のライトを朝まで点灯することになった。早速、多野が言い掛かりを付けて来た。

「坂巻さんよ、明るくて眠れねえだろ! 消してくれよ!」

「あんたの協力があれば消してもいいよ」

「何だよ」

「決まってるだろ。一晩中、寝ないで見張り役に立ってくれるか?」

「そんなの、あんたら役場の人間がやれよ」

「あんたも知ってのとおり、人手が足りないんだよ、多野さん」

「オレの知ったことか!」

「避難所の方々が交代で見張りに立つという方法もあるんだがね。このところ、避難所の人が増えた分、盗難や悪戯も増えてね」

「兎に角、電気を消してくれ! 眠れない!」

「避難所の安全を守るには、今はこの方法しかないんだよ。まあ、明るくなって困るのは犯行を企んでいる人ぐらいだと思ったんだがね。そうじゃないかい、多野さん?」

「・・・」

「見張りをやってくれとまでは言わないから、多少夜の電気が明るくても協力してくれよ。それに、ここでは自分の事は出来るだけ自分でやってもらわないとね。サービス満点のホテルじゃないんだから」

「いつまで明るいんだよ!」

「悪さをする者が居なくなるまでだな」

「それじゃいつまで経ってもこのままかよ!」

「避難者みんなのためだ。ちょっとした不注意は全部自分に帰って行くから、あんたも気を付けてくれ。協力してもらえないなら、あんたの納得のいく避難所に移ってもらうしかないんだよ。まあ、そういう避難所があればの話だがね。今はどこも大変らしくてね」

 多野は黙った。避難者たちは二人のやり取りに聞き耳を立てていた。以来、女児に限らず幼い子どもを持つ母親たちは、子どもから目を離さないよう気を付けるようになり、女児の被害は大分少なくなった。

 しかし、大人の女性被害が増えていた。犯罪行為は村長のバカ息子だけではなかったのだ。非常時の中では人間の理性が破壊される。秩序が歪み、事件が勃発しても殆ど泣き寝入りが慣例になって、被害者のほうが恥だと認識してしまう。本来なら恥ずべきは加害者であるはずだが、避難所では力のある加害者側が我がもの顔になっていく。そして、被害者側は恥だけではなく、被害に遭ったこと自体が罪であるかのような偏見の目にさらされ、周囲からのその蔑みが二次被害となる。従って、警察沙汰になるまでに進展しないまま、闇から闇の金縛り状態になっていくのだ。


 最近になってやっと避難所に数台のテレビが届いた。画面からは、盛んに “絆” が叫ばれていた。多野は舌打ちした。

「何が絆だ。売名野郎の偽善者どもが…」

 そう吐き捨ててテレビの前を通り過ぎた。そうした多野を見ていた避難民の殆ども、その映像には、現状の悲惨さを解りもしない押し付けの偽善と捉え、冷ややかな面持ちで目を逸らすようになっていった。

「坂巻さん、あのテレビの歌が耳障りなんだがね」

「そうかい?」

「そうかいじゃねえだろ! 絆だ何だって、被害にも遭ってない者がお祭り騒ぎだ。不愉快なんだよ!」

 坂巻も同じ気持ちだった。

「そうだね…音を小さくするか」

 それが坂巻に出来る精一杯のことだった。多野は大きなため息を吐いて仕方なく納得した。


 権田原は今日も朝から時世の所在を捜そうと避難所を出た。相変わらず被災者が列を成して避難所前の受付に並んでいた。誰もがそれぞれに悲しみを背負い、やっと辿り着いた救いの場所であるはずの避難所で、日を追うごとに疲れ果てていった。普段であれば、家族の存在を疎ましくさえ思っていた者が、あの恐ろしい津波の犠牲になったかもしれないと思うと、急にその存在が無二の存在であったことに気付き、後悔に襲われる。遺体となって見つかれば見つかったで、行方不明のままならままで、何れにしろ取り返しの付かない事態になったことを背負って、半ば現実感を失い、彼らは今ここに避難民として並んでいるのだ。

 次から次と辿り着く避難者は、受付で配られる毛布とお茶とおにぎりを見て、改めて受け入れ難い現実に苛まれる姿が痛々しかった。その列の中にも時世たちを捜してしまう権田原だが、その度に居ないことに気落ちするだけだった。

 突然、瓦礫の一角で大爆発が起こった。権田原の目に入ったのは遠くで起こった大爆発だけではなかった。その少し手前で若者らしき10人ほどの連中が、数人をめった打ちにしているのが見えた。時世やその家族だったらと胸が騒いで権田原は現場に走った。遠巻きに数人の地元民が止めようともせず囲んで見ていた。

「君たち! やめなさい!」

 若者らは権田原の制止など無視してリンチをやめなかった。強引に止めに入ろうとすると、周りで見ていた地元民の風間謙作が権田原の前に立ち塞がった。風間謙作はこの土地の顔役である。

「あんた、この土地の者じゃねえな」

「ええ、でも彼らを止めないと」

「事情の分からない余所者には黙っててもらおうか」

 風間の部下の菅井登喜雄も権田原に立ち塞がった。

「あいつらはな、火事場泥棒なんだよ。このところ何軒も被害を蒙ってるんだ。女子どもまで襲いやがった。日本人じゃねえところを見ると、震災荒らしのプロかもしれんのだ」

 よく見ると時世たちではなく、男ら5人だった。

「しかし、そういうことは警察に任せないと…」

「あんた…ここが今どんな事態になっているか分かってんだろ。警察を待ってたら逃げられてしまうんだよ!」

 自分ながら現実的でない言葉を発してしまったと権田原は後悔した。

「それでなくてもこの震災のどさくさで消防も病院も何の役にも立たなくなった」

 菅井は権田原が地元の人間ではないことを察知して疑いの目を向けて来た。

「あんた、まさかこいつらの仲間じゃねえだろうな」

「違います! 私の捜している知り合いかと思って来たんです」

「知り合い? 誰なんだよ」

「・・・」

「狭い村だ。名前を言えばわかるぞ」

 確かにそうだった。狭い地域なのである。地元の人なら殆ど誰もが互いに顔見知りの筈だった。どうしてその事に気付かなかったのだろう。一人黙々と捜すより、彼らに聞けばよかったのだ。

「阿部勝五郎さんのご家族ですが、ご存じでしょうか?」

 権田原は期待をかけて聞いてみた。

「阿部勝五郎さん?」

 菅井は一瞬間があった。そして徐に風間の顔を見た。風間は菅井を無視して話を戻した。

「この火事場泥棒どもには住民らが随分と迷惑してるもんでな。どこのどなたか知らんが、口出しせんでくれ」

 若者たちはぐったりして動かなくなった男らを引き摺って瓦礫の一角に縛り上げた。めった打ちにされてぐったりした5人を見て権田原は驚いた。管轄内で炎上した車の中の5人のバラバラ死体と重なった。

「まさか!」

「知ってんのか !?」

 権田原は誤魔化すしかなかった。

「いや…手配写真と…似てるなと」

「どこで見たんだ、その手配写真を?」

 違う世界から来たと言えるわけもなかった。

「…覚えてないです」

 菅井は暫く権田原を睨み付けていた。

「おまえ、仕事は何してんだ?」

 正直に鑑識官と答えられる雰囲気ではなかった。

「公務員を…」

「こんなとこに何しに来たんだ?」

「休みを取って…彼女の故郷に…」

「…なるほど」

 菅井は渋々だが納得したようだった。

「おい、浩太。こいつら指名手配犯らしいぞ」

「そうか。なら、ちゃんと紹介してやらねえとな」

 若者のリーダー格の猪上浩太が、瓦礫の中から板切れを漁って、石の角で “こいつらは火事場泥棒&強姦魔の指名手配犯” と書き殴った。“クソ野郎ども!” と唾を吐いてから5人組のひとりの頭を思い切り蹴とばしたが、もう動かなかった。風間は猪上に金を渡した。

「また頼むぞ」

「任しといてください」

 浩太をリーダーとする地元ワルたちは風間には一目を置いているふうだった。彼らは風間から金を受け取ると揚々と去って行った。

「あいつらは地元ではどうしようもないワルガキ連中だが、震災が起きてからは地元民のためによく働いてくれる。震災の弱みに付け込んでろくでもない余所者が次から次に入って来るのを見付けて駆除してくれてるんだ。あんたの正義感も立派なものだが、被害のどん底にある我々には、正義など何の役にも立たんのだよ。結局、力なんだよ、力」

 風間のいう事は尤もだと思った。避難所も凡そ正義とは掛離れた空気になっている。非常事態での密室では、違法行為に対しては保身のために目を瞑る習性になって行く。

「分かったふうな偽善者ぶって “絆” とか綺麗事を言われてもな。被害に遭って地獄を這っている我々には、人の事を考えてる余裕なんかないんだよ。今必要なのは害になるものを封じ込める力なんだよ」

 避難所ですら無法地帯と様変わりして行く。権田原は何も言い返せなかった。しかし、時世でなかったことには取り敢えず安堵した。

「今は非常時だ。平和ボケしてる場合じゃねえんだ。あんたも気を付けな。捜してる人が見つかるといいけど…覚悟だけはしといたほうがいいな」

「菅井…そのぐらいにしとけ」

 そう言って風間たちはそれぞれの場所に散って瓦礫の撤去作業を再開した。彼らを見ながら、権田原の脳裏に風間の言葉が反響していた。“菅井…そのぐらいにしとけ” とは、その先に菅井の言わんとしたことがあったに違いない。それは時世の事に関連があるような気がして仕方がなかった。一人疑問の螺旋に迷い込みながら、ふと権田原は自問した。自分は何故ここに居るんだろう…この非常時に自分は何も出来ないでいる。時世を捜すという目的だけで存在して居る。震災に遭った人たちは何が正しい行動なのかより、今自分たちの明日がどうなるのかも分からない中で必死に動いている。

 権田原はぐったり気を失っているボランティアを装った外国人5人組を冷視した。“こいつらは皆、2021年に殺されるのか…”そしてはたと気付いた。自分はこの震災後10年先からやって来ている。これから起こる様々な情報を持っている。時世を捜すことも大事だが、せめて避難所の責任者である坂巻に伝えることがいくつかあるはずだ。もしかしたら、そのために自分はここに来たのかも知れない…いや、ここに来た理由を考えたところでどうなるわけでもない。ここに居る以上、時世を捜し、坂巻には知る限りのことは伝えなければと、権田原は山に振り返った。


 権田原は寝返りを打ってベンチから落ちた。辺りを見回すと、公園のような整然とした場所を、子ども連れなどが疎らに歩いていた。

「戻った? どこに?」

 権田原はベンチに掛け直した。そうか…たまの休みを利用して動物園に来ていたんだった。それにしてもリアルな夢だった。前に見た夢の続きのような…そんなこともあるのだろう。部下の袴田から聞いたことがある。“何度も同じ場所の夢を見る” と。しかし、それが夢の続きだとは言ってなかった。

 風向きが変わったのか、獣の臭いが強くなった。辺りを見回すと猿山の近くのベンチに居た。動物たちの仕草を見ていると無条件で癒された。コロナ過でウィークディの動物園は閑散としていた。空いているベンチに腰を下ろしている間に、暖かい日差しも手伝って転寝に見舞われたようだ。あの瓦礫の世界では許されない気の緩みだ。

 携帯電話が鳴っていた。なぜか携帯が鳴る前に自力で起きれなかった敗北感のようなものが過った。呼び出された現場は偶然にも今居る動物園から左程離れていなかった。“今何時だろう” と携帯電話で確認すると午後2時を回っていた。権田原には朝食も昼食も採った記憶がなかった。習慣からして恐らく採っていないだろうと、動物園内の売店で菓子パンと牛乳パックを買った。まるで昔のドラマに出て来る張り込み刑事のパターンメニューのようだと苦笑いしながら、タクシーの中で食い漁った。

 いつものことながら袴田は権田原の鑑識服その他一式を持参してくれていた。

「報告してくれ」

「自分も今来たばかりです」

「そうか」

 権田原は着替えながらアレッ?と思った。今回は夢に被害者らしき人物を見なかった…というか、あまりに大勢の人間と会話していた。その中に、現実世界で被害者になった連中まで出て来た。

「今度の被害者は何人だ?」

「一名です」

 …ということは、被害者はあの大勢の中の誰かなのか…


 被害者の老人は出稼ぎ労働者の寮で、アルミの洗面器の水に突っ伏して死んでいた。“あの世界” では面識のない男だった。年金手帳から男の身元は宮城県鬼隠ヶ浜市出身の片桐寿三郎という建設現場で働く70歳の出稼ぎ労働者であることが分かった。人相から身元を割り出せないほど寿三郎の顔はめった刺しにされていた。

「死因はどうも溺死ではなく出血性ショックのようですね」

 袴田は呟いた。

「犯人は相当恨まれていたんすかね」

「…そんなこと、オレには分からん」

「ですよね」

 権田原とのルーティン会話が完了して、袴田は満足げだった。


 帰宅した権田原は時世が息子を連れて家を出る前に言っていたことを思い出していた。

「やりたいことが出来たの」

「ここを出ないと出来ないことなのか?」

「…ええ」

 時世は頑なだった。出勤前の権田原は、生活費を送るからと住所を聞いても、別居後は就職するからと言っていたその日、権田原が仕事を終えて話の続きをしようと急いで帰ると、テーブルに“私の事情です”というあの置手紙があったのだ。

 暫くして警察仲間が時世の連絡先を捜し出し、時世の伝言を伝えに来た。“別居の理由は聞かないでほしい。全ては自分の責任だ” との事だった。置手紙と同じ内容だった。権田原は電話を掛けようか迷っていた。そして指が勝手にキーを押していた…途端、辺りは真っ暗になった。


 暗闇の遠くで電話が鳴っている…いや、波の音だ。薄らと自分の白い息が蠢いている。急に臭いが変わった。焼跡のような臭気と泥臭い湿気の中に放り込まれた感覚だ。手探りで周囲を確認して、権田原は確信した。また “あの世界” に飛ばされた。あの世界の同じ場所という確信はないが、この臭いは前に飛ばされた時と同じもので、どうやら瓦礫に閉じ込められているようだ。今、何人がこうして瓦礫の中に閉じ込められているのだろう…自分は怪我をしていないが、瀕死の被災者はどれだけ不安な時を刻んでいるのだろう。兎に角、全ての人が助けを求めている震災下だと想定すれば、救助を期待するより自力で脱出するしかない。権田原は外部の音に集中した。しかし、不気味に静まり返って微かな波の音がするだけだった。夜なのだろうか…弱い揺れが起こった。孤独と恐怖が全身に広がって、心の平静を保つことがかなり困難になった。その時、風を感じた。海風の臭い…この臭いは、あの津波を想起させる恐怖でしかなかったが、隙間があるという事だ。今の揺れで隙間が出来たのだろうか。風の臭いを頼りに歩を進めて躓いた弾みで何かにぶつかった。ガラスの割れる音がして、空気が変わった。どうやら、半ば外に出たらしい。街の灯りひとつない真っ暗な闇である。空には星ひとつ出ていない。用心深く這いずって進むうち、遠くに見覚えのある光が見えた。権田原は確信した。あの光は、坂巻が避難所に隣接する鬼隠神社の幟に結わい付けた目印の裸電球に違いなかった。権田原はその光に向かって闇の瓦礫を慎重に進み続けた。


 震災が起こると復旧活動を装い、災害現場で犯行を強行する外国人集団が後を絶たない。震災後48時間は集中して自衛隊を初め、消防や警察は人命救助にあたるが、そうした異常時では他の取り締まりが手薄になってしまう。そこに乗じて、避難で無人になった地域での空き巣や事務所荒らしなどが横行する。

 彼らはそういう類の5人組だった。犯行が目撃されて猪上らにリンチを受けた彼らの報復心は狂気に変わり、猪上たちの追跡をかわして更に犯行が悪質になって行った。

 そんな中、猪上ら以外に彼らをマークしている一匹狼的ボランティア女性がいた。佐山恭子(36歳)。彼女は過去に被災した折、家族で家の片付けをしていて外国人ボランティアと名乗る彼らの被害に遭った。

 彼らは最初、礼儀正しく“家の周囲に流れ着いた土砂や瓦礫の処理”を申し出て来た。どこから手を付けていいのか途方に暮れていた一家は感激して受け入れた。池田実と名乗るメンバーの一人が家の中に入り、“泥を運び出す” と申し出た。断る理由はない。しかし、それが彼らの手だった。池田はターゲットにしたこの家に金目のものがあるかどうかを探りに入ったのだ。佐山家は解体業を営んでいた。父の精一郎は骨董の趣味があり、かなりの数の骨董品が散乱していた。居間の奥には大きな金庫もあった。池田は外で片付けを装っているメンバーらに合図を送った。彼らは家に入り、豹変した。

 家族は全員殺され、バラバラ死体で発見されたが、10歳の彼女を中学生だった姉の悠子が2階の屋根裏から逃がしてくれて助かった。必死に避難所に逃げ延びた妹の恭子は大人たちに助けを求めたが、忙しさで誰にも相手にしてもらえなかった。やっと自衛隊員が話を聞いてくれ、警察が現場に急行したが、両親と舌を噛んで果てた姉の無残な遺体が転がっていた。

 恭子は、自分一人逃げたことの後悔が重く圧し掛かり、子どもながらに被害を受けた相手への復讐を決意した。成人し、従業員らの薦めで会社を継いだ。一方で、全国で震災が起こる度にボランティア活動をして来たのは、5人を捜すためだった。

 その憎き5人がやっと目の前に現れたのだ。震えが止まらなかった。逸る心を抑え、彼らがアジト代わりにしているキャラバンを突き止め、彼らが出掛けるのを待っていた。

 彼女は父の経営する解体会社を継いだ後、発破技士免許を取っていた。そのため密かに携帯していた爆薬をその車に仕掛け、彼らの帰りを待っていた。すると五人はそれぞれ段ボール箱を抱えて戻って来た。パソコンなど金目になる機器類などを詰めて来たんだろう。自分の家族がそうだったように、殺人も犯して来たのかもしれない。一同が車の中に入ったのを見計らって間髪入れずに爆破スイッチを押した。しかし、何も起きなかった。車が発進し、彼らはその日を最後に現場から消えた。絶好のチャンスを逃してしまった彼女は、自分の不甲斐なさに激しい落胆を覚えた。


 瓦礫の中で悪戦苦闘していた権田原は、走る車のライトに気付いた。

「あそこが道路か…」

 権田原は瓦礫から脱する目標を得て、車が通った方向に急いだ。権田原がやっとの態で道路に出る頃には夜が白々と明けて来た。日の出に追われながらフラフラ歩いていると、一台の黒塗りの車が追い越して行った。権田原が避難所に着くと、村長の角田三次が政府のお偉方・神田直時を得意げに扇動して避難所に入るところだった。疲労困憊の権田原は、避難所に着くや彼らを擦り抜けて中に入り、空いているスペースに倒れ込んだまま、すぐさま寝息を立てていた。

 神田直時は、被災者の注目を浴びて避難所を一周するや、寝込んでいる権田原の横を意気揚々と通り過ぎて行った。出口に差し掛かろうとした時、被災者のひとりが神田に叫んだ。

「あんたら、ここに何しに来たんだ!」

 思わぬ言葉に神田は狼狽えた。村長がその場を取り繕うとした。

「皆さんお疲れのようだから、今日はお声掛けを遠慮なさって…」

「ただのパフォーマンスじゃないんですか!」

「そんなことはないです。こうしてわざわざ視察にお越しになってくれたんですから…」

「村長! あんたの票取りに我々を利用するな! 被災者の声も聞かない人間の腰巾着じゃないか! 何が視察だ!」

 余裕の作り笑顔で神田の弁解が始まった。

「お怒りはごもっともです。お声を掛けるとご迷惑かと思い、遠慮していたのですが、では、改めてお聞きします。現在困っていることや不足しているものは何ですか?」

「治安が悪くて困ってるんだ。腕っ節の強い警察を二、三人常駐させてもらいたい。このところ…」

 村長が割って入り、言葉を遮った。

「検討させてもらいます」

 別の避難民が叫んだ。

「隣とのしきりをしっかりしてプライバシーを守れるようにしてもらいたい!」

「なるほど。それも検討の余地がありますね」

「トイレを男女別々にしてもらいたいです。洗濯干し場も…」

「お風呂やシャワーの回数を増やしてもらいたいです」

「医者を常駐させてもらえませんか?」

 村長が事態を早く治めようとうんざり顔の神田の前に出た。

「皆さんがご不自由なさっていることが良く分かりました。アンケートで希望を募って後日検討させていただきます。大臣は他の避難所を回る予定がおありですので…」

「検討、検討ってね。後日っていつなんですか!」

「なるべく早急に…」

「ふざけるな! ガキの使いじゃあるまいに! 通り一遍のテレビ向けのおしるしのために来ただけで、我々には何の役にも立たねえじゃねえか!」

「失礼なことを言うもんじゃない!」

「村長、てめえ逆切れかよ。震災後顔一つ出さねえ間に、てめえの息子はいい気なもんだ。この避難所で毎日とっかえひっかえ女を襲ってやがるぞ。おめえはそれを先に何とかしろ!」

「大地震で町が大揺れの時、てめえが誰と大揺れしてたかみんな知ってんだ、この色キチガイ!」

 村長は狼狽えて神田を避難所の外に誘った。出口で控える坂巻に、村長は息巻いた。

「坂巻さん、避難所の人たちをもう少し何とかしなさいよ!」

 坂巻は、“あんたは息子を何とかしろよ” と喉まで出掛かったが、やっと飲み込んだ。坂巻の無言の声が届き、村長はさっさとその場を離れて避難所を後にした。

 入口に掲げられた村長直筆の筆文字 “がんばろう” “絆” が空しく垂れ下がっていた。


 佐山恭子はボランティア活動が一段落し、帰途の送迎バスに乗っていた。何気なく瓦礫の海に目をやると見覚えのあるキャラバンが止まっているのが見えた。まさかと思ったが間違いなくあの車である。恭子がマークしていた五人組がまたのこのこ戻って来ていたのだ。恭子はほんの試しに以前失敗したリモート点火スイッチを付け直して押してみた。

 その幸運のリベンジ爆破は、前述で権田原が避難所での多野との一悶着の後、外に出たタイミングだった。一番驚いたのは恭子自身だった。現場に居た5人組は、自分たちのアジトにしているキャラバンが大爆発を起こして黒煙を上げたため蜂の巣を突いたように狼狽えているところに猪上たちが駆け付けた。猪上たちは地元顔役の風間謙作に邸を見張れと依頼されて潜んでいたが、爆発音で駆け付けたところに火事場荒らしの五人組が居たのである。そして猪上の集団リンチを喰らったのは前述のとおりである。

 避難所からその光景を目にした権田原は “前回のワープ” のデジャビュ現象だと目を見張った。あの時の自分は、一目散に現場に駆け付けてちんけな正義感を宣い、この土地の顔役らしき風間という男に、己の愚を指摘された結果になってしまった。行ったところで無意味とは思ったが、渦中に時世が居ないことだけはどうしても再確認したかった。結局、現場に足が向き、デジャビュが起こり、またワープして動物園のベンチから寝返り落ちて、現実世界の日常に戻って行ったのである。


 権田原が現実世界に戻ったところで避難所の時間が止まるわけもなく、非日常下の人間の煩悩は日を追って理性を失い暴走して行った。

 重森百合は避難所で乳児と添い寝をしてうつらうつらしていた。背中越しに違和感を覚え、振り向くと牛嶋幹也と目が合った。

「おとなしくしてなきゃ赤ん坊が起きるぞ」

 百合はとっさに撥ね退けて避難区画から飛び出した。丁度自宅の片付けから帰ってきた夫・重森徹が何事かと駆け寄ると、牛嶋は仁王立ちになった。

「何してんだ、おまえ!」

「うるせえ!」

 ふたりは揉み合いになった。牛嶋は持っていた登山ナイフで切り付けると、重森の顔を掠った。

 牛嶋の家は重森と隣同志だった。村長の息子の角田と並ぶ地元のワルで、重森夫妻が隣に引っ越して来て以来、百合を好奇の目で見るようになっていた。

「牛嶋さん、あんたがなぜ !?」

 牛嶋はそのまま逃げて行った。

「帰ってきて良かった…一休みしたら一緒に行こう」

「顔のけがは大丈夫なの?」

「大丈夫だ。こんな所にもうおまえ一人置いては行けない。これからは一緒に行動しよう」

 重森夫妻は乳児を連れて半壊の家に片付けに向った。家に辿り着いたふたりは玄関の鍵が壊れているのを不審に思いながら、何となく胸騒ぎを覚えた。

「さっきは壊れて無かったのに…物騒だな。落ち着いたらここを引っ越そう」

「避難所もすぐに移りたい」

「戻ったら坂巻さんに相談してみよう」

 その話を重森宅に潜んでいた牛嶋が聞いていた。重森が中に入るといきなり頭を強打されて倒れた。重森が気が付くと口枷をされ、丸裸で後ろ手に縛られていた。牛嶋は丸太を振り下してめった打ちが始まり、妻の前でなぶり殺しにされた。そして牛嶋は乳児を抱き締めている百合に振り向いた。

「あんたの旦那…死んじゃった」


 権田原は息苦しさで目を覚ました。真っ暗だった。起き上がろうとすると頭に何か当たった。狭い。またワープして同じデジャビュの瓦礫の中にでもいるのかとうんざりしたが、同じ状況で2回もワープするなんてことがあるのか…と考えたところでどうにもならない。兎に角、この状態を何とかしなければならない。権田原はまた暗がりを手探りで確かめ始めた。どうやら今度は前回とはどことなく違う。板に挟まれているようだが若干の空間がある。崩れて来るのを警戒しながら両足で上部に圧力をかけてみた。板が動いた。息苦しさが猶予ならず、勢い足で蹴り上げると板が吹き飛んだ。瞬時に息が楽になった。

「バカな…」

 権田原は棺桶の中に居た。棺桶の底でひんやりとした白い気体が漂っている所を見ると、ドライアイスによる二酸化炭素のせいで息が苦しくなっていたらしい。起き上がって初めて自分の置かれている場所が腹立たしかった。見慣れた情景に、ここは間違いなく雉追平の遺体収容所だと分かった。生きている人間を確かめもせずに棺桶に入れるなんて…だが、と思った。異常時に大きな悩みと不安を抱えたまま疲労困憊していれば、動かないものは皆死体と識別するほど思考停止状態になるのかもしれない。ここは、死んでいなければ自身が生命体であることを主張し続けなければならない世界だ。震災後の人々は、皆受け入れ難い展開で己自身の思考が不安定になっている。何が起ころうと冷静で居なければならないと自分を鼓舞した。

 辺りを見回すと、ブルーシートに凄惨な遺体が整然と並んでいた。棺桶はまだ数えるほどしかなかったが、遺体収納袋がそれぞれに歪な形で置かれていた。そうした遺体を直方体の棺桶に納めるには、それなりに心を鬼にした処置を必要とする。

 男が入って来た。権田原には気付かず、並んでいる遺体の末端に真っ直ぐ進み、持って来た分の遺体収納袋を等間隔に置くと、また出て行った。彼の心はここに非ずといった風で目が虚ろだった。入れ違いに毛布に覆われた遺体が何体か担架で運ばれて来て、さっきの男が並べて行った遺体収納袋に入れられ、毛布を回収して去って行った。無表情のまま亡霊のように、敢えて機械的に作業をしている。彼らは懊悩の中、瓦礫と収容所を何度往復したのだろう。震災から何日も経っていないはずだ。それにも拘らず、遺体の数が急に多くなっている。運ばれて来た遺体の多くがかなり傷んでいたことで、権田原は津波に対するイメージが変わった。遺体はまるで土石流に磨り潰されたような痛み様だった。

 異様な被害者だらけの遺体収容所から、時世が居るかもしれない避難所に早く戻らなければと、体育館を出ると、また別の作業の人たちが毛布で覆われた担架を運んで来るのと擦れ違った。まだ毛布に包まれたままの遺体を見て権田原はふたつのつらい想像をした。遺体のサイズから見て、ひとつは子どもの可能性、もうひとつは部分遺体…権田原は時世のことを思うと胸が詰まりそうになり、一縷の望みを抱いて避難所に急いだ。同時に、この頃になると権田原は無意識に時世以外の人も捜すようになっていた。元の世界で殺害された犠牲者である。彼らの出身は共通してこの鬼隠ヶ浜市である。彼らはここで起こったことが原因で殺害された可能性が大きい。この世界に居る間にその原因を突き止めたい。避難所に戻る権田原の視線は自ずと周囲に鋭くなっていた。


 百合はいつどうやって帰ったか、我に返ると避難所に居た。夫の徹が殺され、乳児を抱えて悲嘆に暮れていると、物資の搬入や仕分けを受け持つようになった避難者のひとり、内田怜治が話し掛けて来た。

「大変だったね。タオルや食べ物が余分に入用だろうから、夜にでも物資の倉庫に受け取りに来なよ」

 その言葉に百合の顔は強張った。

「あ、誤解しないでくれ。他の避難者に依怙贔屓だと思われたくないから目立たないようにと思って…」

 百合は一瞬でも内田の好意を疑ったことを後悔した。

「…はい」

 夜になって倉庫に行くと、内田はやはり性的関係を迫って来た。百合は思考停止するほどショックを受けた。疑いを持った相手を気を取り直して信用し、再び裏切られたのだ。孤独に追い込まれていた百合は拒絶する意欲すら失せ、絶望に押し潰され乳児を抱えままの状態で内田を受け入れていた。内田が獣になっている間、朦朧とこれまでの自分の事を思い出していた。夫を殺されて避難所に戻り、泣き続けているのを見兼ねた区画隣の老婆・笹村タネが浮かんで来た。

「つらいことがあったのかい? 話せば少しは楽になるから…」

「・・・」

「こんな年寄りでも良かったら話を聞くよ。誰にも言わないから…」

 百合はタネの優しさに縋るしかなかった。しかし、それは間違いだった。タネは百合の話を聞き終えると豹変した。

「あたりまえだ。それは仕方のねえことだ。今は普通の時じゃない。あんたは若いんだから割り切って生き抜かなきゃ」

 内田が頂点に達し、やっと地獄から解放された百合の表情からは完全に未来が消えていた。

 その夜のうちに百合の噂は一気に避難所中に広まっていた。区画に戻った百合はタネと内田に対する殺意に支配されていた。弱りきって思考停止した心に取り入って来た内田に金縛りに遭ったように身を許してしまった自分の弱さを呪った。事が済んで内田に恵んでもらった “ご褒美” を力いっぱい床に叩きつけた。


 深夜、百合の幼馴染の川島茜が牛嶋幹也にレイプされたと泣き付いて来た。百合は茜の口を止め、区画隣りのタネを避け、避難所の外に出て今日あった悲惨な出来事を話した。牛嶋と内田を殺して子どもと心中するつもりだと話した。茜も呼応し、自分も牛嶋を殺してから死ぬと決意した。ふたりはそうした目的を持つことで、やっと今の自分を保っていられる心境だった。澄んだ月夜が痛かった。


 百合は一晩で変わった。翌日から内田のように言い寄る男には唾を吐くほど狂暴な女になった。内田もタネも殺気を露わにした百合と目を合わせられないほどビクつくようになった。百合は二人を強請って必需品を手に入れ、茜にも分けてやった。数日も経たないうちに、タネは心臓発作で人知れず冷たくなって発見された。内田が意を決したように話し掛けて来た。

「隣なのに、苦しんでいるのとか気付かなかったのかい?」

「誰かの悪口を言いふらしているのなら気付いていたよ。例えば備蓄品を餌に女を口説いて犯しまくっている男がいるとかね」

 内田は黙ってその場を離れた。少しすると牛嶋が百合に話し掛けて来た。

「ほんとは心細いんじゃねえのか?」

「あんたも、あのババアみたいになりたいか?」

 百合は担架で運ばれるタネを顎で差した。以来、牛嶋は寄りつかなくなった。避難所に来て悪さを始めた内田も、身の危険を感じて次第に避難所からの足が遠退いて行った。

「逃げたって必ず借りは返すからな、クソ野郎」

 百合の復讐心は消えなかった。


 権田原がいつものように時世を捜しに避難所を出ると、津波を免れた地元の女子生徒や学生たちの団体がボランティアで避難所にやって来るのと擦れ違った。何やら物々しく騒いでいた。団体のまとめ役の辻村美穂が居なくなったためだ。

 その頃、辻村美穂はボランティアの作業中に、瓦礫処理に夢中になって居る所をリュックを掴まれ、車の中に引き摺り込まれて地元ワルの角田彰彦にレイプされていた。角田は避難所のある雉追平村長のひとり息子で、地元ワルのリーダー格に祀り上げられていた。角田のレイプ後、車の外で見張っていたワル仲間の国枝忠臣と春田利尚が更に美穂をレイプした。彼らが気付いた時には、美穂は舌を噛み切り息絶えていた。焦った角田たちは美穂を津波で泥沼化した海に捨てようと、ワゴン車で海岸に乗り付けた。しかし、そこでは自衛隊や警察が遺体の収容作業をしていた。急発進で現場から離れようとしたため、不審車両に思われた角田たちのワゴン車が、パトカーに追跡制止された。角田たちは美穂の死体は瓦礫の中で見付けたと主張したが、警察で事情聴取されることになった。角田だけは一瞬の隙を突いて一人車に乗り込んで逃走したが、瓦礫に激突して車は大破し、敢え無く逮捕された。


 同じ頃、お風呂に入りたいとぼやいていたボランティアの女子大生たち三人・上原久代、遠山美穂、香山マリらが、中学時代の先輩・岸田拡の誘いに乗り、解体現場に連れ込まれた。風呂などどこにもなかった。解体現場では複数の男たちが待っていた。

「風呂でなくても汗流せんだろ」

 リーダーの金城卓が口火を切ると、連中は一斉に上原たちを襲い、無抵抗になってもレイプは続けられ、輪姦の地獄絵図が繰り返された。


 彼女たちは解体現場でマグロのように転がって放られていた。

「私たち…死ぬしかないのかな」

 美穂が乾いた声で呟いた。

「死ぬなら津波で死ねばよかった」

 美穂たちはそれぞれに津波で家族を失っていた。前を向いて歩こうと、やっと立ち上がったところだった。先立たれた家族らへの孤立感に襲われ、今再び死を厭わなくなっていた。

「死ぬしかないよね…でも、死ぬ前にしたいことない?」

 久代がふたりに問うたが、ふたりは答えなかった。

「私はしたいことがある」

 美穂とマリが久代に振り向いた。

「死ぬ前に…岸田先輩を殺す」

 美穂は自分と同じ考えで良かったと思った。

「それなら、あの男たち全員を殺そうよ」

 無言だったマリは、言葉に精気を取り戻した。彼女たちに一点の生きる灯りが見えた瞬間だった。


 権田原が避難所の帰途に付いていると、前を気怠く歩く女子大生たち三人連れに追い付いた。黙って追い越すのもどうかと思い、“こんにちは!” と声を掛けると彼女たちは激しく怯えて身を構えた。

「あ…すいません。驚かしちゃった?」

 権田原は彼女たちの思わぬ反応に謝ったが、彼女たちは恐怖に怯えて固まっていた。権田原はお辞儀をして通り過ぎるしかなかったが、何かあったことを察して、時世のことが更に心配になった。


 このところの避難所は、理不尽に耐えることがまるで美徳であるかのような空気に縛られ、無法地帯化していた。性被害女性は入学前の幼児から高齢者に至る狂気沙汰だ。

 一般に性被害者は様々な事情を抱えており、それがため口を閉ざし、我慢を強いられている。もしかしたら、時世は大きな悩みを抱え、自分の前に現れることを躊躇っているのではないかと、権田原は胸騒ぎで眠れぬ夜を過ごすようになっていた。“明日こそ見つかる” そう思い直して横になり、目を閉じるしかなかったが、忌まわしい想像ばかりが繰り返されて、ウトウトするのはいつも朝方だった。


 権田原がやっと眠りに入ろうとした頃、避難所の外でヘリの音がして現実に引き戻された。辺りがざわめき出し、次第に騒がしくなった。誰がどこから得た情報なのか、どうやら芸能人ボランティアが炊き出しに来たという話題で持ちきりになった。ヘリが去る音がして、ひとりの避難民が動き出すと、皆がそれに続いて、忽ち入口には野次馬の群れが溜まった。颯爽と現れた芸能人は今や日本を代表する往年のアイドル事務所の新進気鋭の人気グループ・アンバランスZの面々だった。アンバランスZメンバーは黄色い声に包まれて、避難所はまるでヒーローでも現れたような騒ぎになった。

 ひととおりの “口パク” ショーを終えると、調理が始まった。そう言えば、夕べ遅くにいろいろな機材が運び込まれていた。見掛けない連中だとは思っていたが、アイドル事務所のスタッフが準備のために前乗りしていたようだ。権田原はご苦労なことだとは思ったが、同時に傍迷惑なことにならなければいいがとため息を吐いて、寝不足気味の頭をもう少し休めようと、再び横になった。


 騒々しさで目が覚めると昼近くだった。寝過ごしてしまった。時世を捜しに行く時間をかなりロスしてしまった。出掛ける仕度はしたが、実にいい臭いがする。どうやら外でアイドルの炊き出しが振る舞われ始めたようだ。

 避難所生活で食事内容も困窮していた中、品数の多いオリジナルな豚汁が振る舞われた。空腹には勝てず、一杯駆け込んで避難所を出た。


 今日は隣町の避難所まで足を運んだが、時世たちは見付からなかった。田舎は陽が落ちるとあっと言う間に暗闇がやって来る。坂巻に持って出るよう渡してもらった懐中電灯が有難かった。避難所の帰路に就いているが、この道なき道を懐中電灯無しには一歩も進めなかった。しかし、電池切れ間近のようで灯は心細い茶色の輪だけになってしまった。月のない静寂は、方角が分からなくなる。果たして避難所の方向に歩いているのか不安になる。その時、山の方から明かりが見えた。あの灯りである。鬼隠神社の外に点けっぱなしの裸電球には、これで二度救われた。避難所に辿り着いた権田原は、坂巻に礼を言うと “狐は出なかったか” と明るく茶化された。

「お陰様で迷子にならずに済みました。もうあまり電池がありません」

「今日、作業用のヘッドライトが大量に届いてね。権田原さんも一個持って行きな」

「捜索のお手伝いをしてもいないのに…」

「時ちゃんを捜してるじゃないか」

「助かります」

「電池が切れたら変えるから…いや、もう予備を渡しておこう。なくなったらまた取りに来てくれ」

 坂巻は恩着せがましさがない。この避難所に来てから、変わらず便宜を図ってくれる。権田原は深々とお辞儀をして区画に戻った。待ちかねた様に隣設区画の多野信治が顔を出した。

「見つかったかい?」

 権田原は意外だった。

「時ちゃんだよ」

 何と答えればいいか迷った。

「時ちゃんを捜してんだろ?」

「ええ…」

 そう言えば、坂巻もさっき “時ちゃん” と言っていたことを思い出した。それまでは “時世さん” と言っていた。なぜ “時ちゃん” になったんだろう。それに、見ず知らずの多野までが…

「時世さんをご存じなんですか?」

「…知らないよ」

 多野が答えるまで少し間があった。何か言いたげに暫く権田原を見ていたが、権田原が何か聞こうとすると目を逸らして力なく呟いた。

「…あんたは、いい人みたいだから」

 そう言って区画の中に入ってしまった。権田原は気になった。多野は時世の何を知っているというのだ。恐らく坂巻も時世の何かを知っているに違いない。権田原は時世の父・勝五郎の “あの時” の顔を思い出した。石段で津波の勢いに浚われようとした時、必死にこの手を引っ張りながら何かを言った気がした。勝五郎が何と言ったのかがどうしても思い出せなかった。


 翌朝は体の温まる豚肉入りシチューと卵焼きでご飯を巻いた海苔巻きといった避難所始まって以来の豪華なメニューだった。アイドルたちのボランティアの炊き出しは避難民を大満足させるものだった。しかし、そのアイドルたちが去る当日、避難所の調理班が大騒ぎになった。炊き出しの材料が激減していた。芸能人ボランティアのマネージャーに確認したところ、ストックしていた避難所の食材を勝手に使っていたことが判明した。避難所に取ってストックの無謀な使用は、今後の食糧配給計画が崩れて危機的な事態になることを意味した。

 更に前夜に大事件が起きていた。炊き出しの振る舞いで盛り上がっている最中、アンバランスZのメンバーのひとり・麻生慧がトイレに立った小学6年生の菅井未来を誘い出し、猥褻行為に至っていた。娘が猥褻行為の被害を受けたことが分かって、母親の菅井美知がその被害について、アイドルたちの身辺警護で避難所に来ていた警察官に相談したが、炊き出しのこともあり、有名な芸能人だから今は取り敢えず我慢してくれと、取り合ってもらえなかった。美知は仕方なく死体収容所に検視に来ていた別の警察官に相談したが、担当が違うからと対応が極めて消極的だった。

 帰りのヘリが来て、アンバランスZメンバーがひとりづつ吊り上げられた。麻生慧が吊りあげられた時、被害女児の父親・武治は叫んだ。

「おまえは二度と来るな、バカ野郎!」

 事情の知らない避難民たちは口々に武治を罵ったが、武治は叫び続けた。美知は悔しさで泣き崩れるしかなかった。しかし、その声はヘリのエンジンとタービンの騒音で消され、事件が伏せられたまま芸能人ボランティアは避難民の黄色い声援の中、去って行った。


 そして、アンバランスZが去った翌日、案の定、避難民に配給された食料は三食とも塩おにぎりと避難生活を送る老夫婦が差し入れてくれた糠漬けという質素さに、避難民は管理の坂巻らを罵る有様だった。さらに悲劇が起こった。被害に遭った未来は大ファンだった麻生慧に裏切られたショックに耐えられず、自殺を選んだ。トイレで赤いランドセルを背負って首を吊った未来が発見されて大騒ぎになった。悲劇の概要はあっと言う間に避難所中に広がったが、麻生慧の犯行は黙して語られることはなかった。そして、その後も質素な食糧配給が続いたが、誰も批判する者はいなくなった。

 この避難所は狂っていた。小さな安堵に飢えているあまり、秩序も人の痛みにも無神経になっている。娘の未来の犠牲が今の避難所に於いては、取るに足らんことであり、芸能人の売名行為が称賛されるこの空気が凄惨な煩悩津波を呼び込んだ邪悪さなのだ。菅井夫妻は、自分たちの手で麻生慧に報復することを決意していた。


 夜、時世捜しから帰った権田原は、ヘリが去って静かになった避難所でひとり体育館の天井を見ていた。権田原はアイドルが嫌いだった。年に一度の恒例時代劇ドラマを好んだ。それを学芸会レベルに貶めた張本人こそアイドルたちである。稽古で鍛えられた劇団中心の配役の頃は、深い演技力で見甲斐があった。いつの頃からかアイドルだけで芯や重要な役を占めるようになると、薄っぺらい説得力のない学芸会になってしまった。いや、子どもたちの学芸会の方がまだ感動を呼ぶ。権田原は疲れ過ぎているのか、体が鉛のように鈍いのに、神経だけが高ぶっていた。アイドルがこんな片田舎に来るということは、賞味期限切れ間近の品物の大バーゲンのようなものだ。賞味期限切れの方がまだ喰える。やつらは被災した地域ならどこでもいいんだろう。要はテレビや週刊誌の偽善記事になればいいのだ。芸能事務所は明日からのテレビや週刊誌に大々的に載せてアイドルを出汁に少しでも搾り取る算段だろう。震災の最中で、作られた人気のガキどもに黄色い声を上げている連中はめでたい限りだ。避難所の幼児が犠牲になったことも、食糧の備蓄に重大な危機が生じたことも、売名行為のアイドルの登場でチャラにできるというのか…まともじゃない。

 権田原の脳裏で悪態が渦巻く一夜が深々と更けて行った。


 ただならぬ女性の悲鳴で権田原は目が覚めた。耳には避難所の喧騒が入っているが、何故か体が起きなかった。

 このところ避難所は被災地を管理する地元公務員の下で、被災者自ら世話役のリーダーとなって円滑な避難生活を守るはずが、それを逆手に取ったパワハラが頻繁に暴走する事態が発生していた。しかも避難所の各担当リーダーは支援者リーダーを物資の横流しや小金で黙らせていた。


 部下の皆川雄二は坂巻慎介の下で避難民の受け入れ作業に明け暮れていたが追い付かず、皆川の仕事を買って出た避難民の関根浩二に半ば任せっぱなしになっていた。関根はいつしか避難民に対する態度が横柄になり、他の避難民から皆川に苦情が殺到するようになっていた。

「関根さんは自分から申し出て手伝ってくれてるんで、不満があれば彼と代わってもらえます?」

 …という常套句を返すと、そこで誰もが引き下がった。皆川の業務姿勢は時折、坂巻に指摘され、皆川は素直に頭を下げていたが、一向に改善されることはなかった。避難生活が長引いて来た避難民の不平不満の声が増え、皆川は次第に我慢の限界に達していた。時同じくして支援者の手配に追われていた木本慶介も、現場を理解していない支援物の整理に行き詰まり、作業が滞りがちになって嫌気がさしていた。坂巻はふたりの疲労困憊は把握していたが、避難民の対応に追われ、どうすることも出来ないままに日々を何とか熟している状態だった。

 そんな折に避難生活を揺るがす一大事件が起こったのである。

「この避難所を呪ってやる!」

 そう叫んで、女は灯油をかぶり、火を点けた。激しく燃え上がり、女の断末魔の悲鳴が避難所中に響き渡った。子どもの目を抑える者、茫然と動けなくなる者、恐怖に泣き喚く者、女の叫びは避難民の脳裏に深く刺さった。

 走って来た坂巻は消火器を噴射しながら、叫んだ。

「誰か消防署に!」

 しかし、誰も動こうとはしなかった。余りのショックで動けなかった…というより、消防署に連絡したところで、業務が機能しないことは誰もが分かっていた。坂巻は権田原の居住スペースに駆け込んで来た。

「権田原さん、消防署に連絡して!」

 坂巻の声に権田原は重い体をやっとの思いで起こした。

「私は電話持ってないです」

 すると坂巻が携帯電話を投げて事故現場に戻って行った。しかし、ロックが掛かっていて掛けられず、権田原は仕方なく隣接している遺体収容所に走った。間もなく遺体収容所から消防団たちが駆け付けて来た。女を毛布に包んで火を消したが、女は既に無残な焼死体となって息絶えていた。焼け焦げて毛布で包まれた遺体からは黒煙が燻り、異臭を放った。避難所のそこかしこで吐く者も出た。


 焼身自殺した女は武藤織江。津波で夫を失った。遺体安置所で夫を確認し、途方に暮れていた。Uターンで帰って来た夫の故郷にひとり取り残されてしまった。毎日が枯れ切った避難所生活は無神経に続いた。


 織江に好意を持った支援物資の手配係だった木本慶介が、何かと彼女に便宜を払うようになった。織江は木本をすっかり信用し、頼るようになっていた。或る夜、織江はひとり、夫を奪った瓦礫の海を眺めていた。

「おつらいですよね」

 木本が声を掛けて近付いて来た。

「もう、お仕事終わりですか? これからお帰りですね」

「ええ…でも、武藤さんのことがちょっと気になって…」

「私のことが? 私なら大丈夫です…東京の実家に帰ろうと思います」

「…そうですか」

「この土地に知ってる方は誰もいませんし、職もないので暮らしていけません。木本さんには本当にお世話になりっぱなしで…」

「兎に角、夜は冷えるので、避難所に戻りましょ」

 織江は素直に従った。避難所は寝静まっていた。仕切りのない体育館に雑魚寝を強いられる日々が続いていた。織江は木本に促されるまま床に就いた。そして木本はいつもの温厚な木本から豹変し、織江を襲っていた。その狂気と、夫を失った孤独の恐怖に勝てず、声すら出せなかった。周囲はその不自然な気配に、今起こっていることを察知していた。しかし、まるで避難所に於ける同調圧力が働いているかのように、ここで起こる黙認すべきタブーのひとつとして誰もが無関心を装った。

 織江は行為の間、夫を奪った黒い海を思い出し、自分が瓦礫に思えた。“この男だって瓦礫まみれの真っ黒い津波だ” そう思うと織江はもうどうでも良くなっていた。

 ことが済むと木本は無言で去って行った。織江が我に返ると暗がりで何人かの被災者たちのシルエットが汚い物でも見るように佇んでいた。肌けて茫然としていた織江は、慌てて床に包まって身を固めた。

 織江が避難所で声を殺して泣いていると、隣区画の老婆・米田登美がそっと話し掛けて来た。

「あんた、木本さんに特別扱いされてたんだから仕方ないよ。若いしね。こういう時はお互い様だから、あの人を恨んじゃ駄目だよ。言うこと聞いてこれからも世話になんな」

 声を掛けて来た老婆も、木本にレイプされる様をすぐ傍で窺っていたに違いない。木本が去った後、他の数人の連中と一緒に蔑みの目を向けていたひとりだろう。なぜ助けてくれなかったのか…私がどのグループにも属さない余所者だから見過ごしたのか。織江の心は張り裂けそうだった。

 織江は堪らず老婆の御託を振り切ってトイレに立った。トイレに入ったら突然男に殴られ、意識が遠退いた。暴行されている。相手は一人じゃない。再び襲って来た恐怖の中で複数の男たちに輪姦されていた。避難所に於ける食物連鎖の如き弱肉強食の地獄の夜だった。この男たちはさっきのレイプの様を窺って、避難生活で薄っぺらになった理性が瞬く間に崩壊した連中である。織江は過酷な試練に怒りが込み上げて来た。クソ田舎の色キチガイどもめ! 心の中で何度もそう叫びながら、ことが済むのを待った。

 トイレから戻って来た織江は避難所を見回して薄笑いを受けべた。区画に戻ると登美がまた話し掛けて来た。

「遅かったけど、大丈夫だったかい?」

「・・・」

「また何か…あったのかい?」

「・・・」

 登美は、織江から終始目を逸らすことなく薄笑いを浮かべて問い掛けた。

「相談したい事があったら、いつでも聞くよ」

「…失せろ」

「え !?」

「失せろ、クソばばあ」

 登美は急に蔑みの顔になり、すごすごと区画に戻って行った。うとうとすると耳元で誰かが囁いた。登美ははたと目を開けた。無表情の織江の顔が間近にあった。仰天して金縛りにあったように身動きできなかった。織江がまた囁いた。

「これから毎晩来るからね」

 ざわーっと固まる登美を尻目に、織江は立ち上がった。そして坂巻からストーブの燃料が切れたからと灯油のポリタンクを受け取り、区画に戻ると一気に浴びた。そして織江は避難所を呪って焼死に至ったのである。

「何か心当たりないべがね?」

 地元出身の新米警官・林省也の事情聴取には誰もが我感ぜずだった。織江は避難所生活に落胆しての自殺として処理された。


 早朝にまたあの新米警官が呼び出され、うんざり顔で立ち会っていた。暴行の手はボランティア女性の足立美紀子にも向けられたのだ。彼女は激しく抗議していた。支援物資の手配係の木本は気のない対応をしていた。

「そうおっしゃられましてもねえ…」

「私たちを何だと思ってるんですか!」

「みんな感謝してます。しかし、ここにいる被災者は皆さん家もお身内も失ってるんです。平常心が保てない状態で日々過ごしてるもんで…」

「それと、私たちに暴行するのは別の話じゃありませんか?」

「未遂に終わってるじゃないですか! 言わせてもらいますがね、あなたたちは被災者の苦しみを少しでも解きほぐすためにここに来ているんじゃないですか? それを被災者がちょっと魔が差したぐらいで、頭から批判するなんて飛んでもないことです!」

「私が悪いんですか?」

「そうは言っていませんよ。もう少し寛大な心で見守ってほしいんですよ」

「危うく強姦されそうになったんです! 寛大になんか成れません! おまわりさん、あの人たちを逮捕してください!」

「ええ、まあ、今はこういう時なので…本人たちも深く反省しているようですから、今回だけ何とか…」

「今回だけじゃないから、おまわりさんに来ていただいてるんです!」

「お気持ちは分かりますが…ボランティア活動であなたもお疲れでしょう。一旦お帰りになったらどうですか?」

 都合の悪いボランティア要員は出て行けとばかりの空気は、最近の避難所民の意見を代弁していた。美紀子は怯まなかった。言うべきことは言わなければならない。それがボランテァの使命でもあると思っていた。

「昨日何が起こったかご存知ですよね! 人がひとり、焼身自殺したんです! あなたは事情聴取に来てたじゃありませんか?」

「まあ、そうですが…ここであまり揉めますと避難所の他の皆さんが心配しますので…」

「あの人たちを放っておいた方が皆さんは心配なんじゃないですか? 昨日は焼身自殺事件が起きましたよね。ただの自殺じゃないですよ! 亡くなった女性は複数の避難民にレイプされたんです。ちゃんと調べたんですか? 亡くなった方が “この避難所を呪ってやる!” と叫んだのは私も聞いています。なぜ呪ってやると叫んだかお分かりでしょ! あの女性をレイプした人たちは懲りずにまた同じことをしようとしたんです!」

「そういう根拠のない発言は困ります。避難所の皆さんに悪い影響を与えますので、後は交番の方で伺いますから…」

「私は被害者です。加害者も同行させてください」

「その人たちの話は後で伺いますから…」

 ボランティア女性の足立美紀子は納得出来ぬまま、新米警官の林省也に続いた。やり取りの一部始終を見ていた老婆の米田登美は暇を持て余して来ていた女たちに呟いた。

「おっかねおなごだな」

「木本さんの方はどうなるべね」

「警察つっても、あの省ちゃんだもの、どうも何ねべ」

「んでがすな」

 一同は声を殺して陰湿に笑った。その夜から登美は、織江が夢枕に立つと言っておかしくなり、避難所の笑い者になった。しかし、織江や足立美紀子の口封じと思われる警察の対処を皮切りに、男たちの理性はどんどん崩れて行った。翌日から避難所は更に性被害の温床へと加速していったのである。深夜に避難所の内外問わず年齢限らず、手当たり次第ともいえるほどに女性被害が増えて行った。


 片桐晴美は “被災後の自宅” が危険であるということは新聞などで見知ってはいた。殆どの避難民が施錠をする習慣のないことを知っている空き巣や、女性を待ち受けるレイプ犯が潜んで居る可能性があるということは、避難所生活での注意事項にも提示されていた。

 震災で夫を亡くした晴美は、明るい時間帯に義父の寿三郎と一緒に一時帰宅して片付けなどの用を足すのが習慣になっていた。悲劇はそこで起こった。震災で未亡人になってしまった嫁に対し、日々の片付けの間に、寿三郎の同情は次第に欲望に変わっていた。


 晴美は結婚後、夫と実家の二階に住んでいたが、震災による津波の被害は運よく床下浸水程度の僅かだった。揺れで倒れた家具を起こしたり、飛び出して割れた瀬戸物や散乱した衣類などを片付けるために、毎日避難所から自宅に通っていた。晴美は迷っていた。このまま、嫁としてここでの生活を全うするのか、一旦実家に帰って人生を再設計するか…何とか瀬戸物を片付け終えて、乳呑児の美弥に母乳を与えながら、夫との幸せだった日々の事を思い出していた。

 窓から見える風景は一変した。見渡す限り瓦礫ばかり。この家は山の中腹にあって買い物も不便だと思っていたが、こうなってみると運が良かった。三月も過ぎようとしている温かな陽射しを受け、避難所生活の疲れが一気に襲ってうとうとしていた。下半身に違和感を感じて目を覚ますと、後ろで荒い息をしている夫の寿也がいた。

「あなた、生きてたの !?」

 そう思ったのも束の間、寿也の顔は舅の寿三郎に変わった。晴美は驚いて絶叫したが、獣化している寿三郎の力は強く、美弥に授乳をしたままでは暴れることも出来ずに下半身が不本意な事態になって行った。下腹部に信じられない衝撃が走り、長い地獄の揺れに弄ばれ、やっとことが済んだ。

 寿三郎は下半身も露わに仰向けになって息を切らしていた。晴美はその醜悪な様を横目に嘔吐した。暫くして寿三郎は気怠く起き上がった。晴美は身構えた。

「悪く思うな。震災がさせたことだ」

 そう言って階下に下りて行った。晴美は寿三郎のその一言に震えるほどの怒りを覚えた。夫ばかりか、これまでの良かったはずの思い出が全て卑しい瓦礫となった。必死になって這い上がろうとしている人間に “震災がさせたこと” として犯罪を反故に出来るなら、自分も今から鬼になって “震災がさせたこと” としてお返しをするしかない…と美弥に復讐を誓った。その瞬間から晴美は舅を殺して、舅夫婦が目に入れても痛くない孫の美弥を道連れに、穢れた己の命を絶つことしか考えなくなった。


 暫く茫然としていた。玄関が開く音がした。晴美は寿三郎が戻って来たのかと身を固くした。そっと覗くと聞き慣れない会話が飛び交っていた。下半身裸だった晴美は気付かれないように衣服を身に付けながら再び階下を窺った。何か物色している音がする。二階に上がって来られたら全て終わってしまうと思った晴美は、美弥が授乳を終えて眠ってる間におむつを替えた。

「美弥ちゃん、いい子ね。おとなしくしててね」

 とっさに布団や毛布を階段の降り口に運んで、石油ストーブの灯油を撒き、寿也の机の引き出しから、買い置きしてあった100円ライターを取り出して火を点けた。津波を免れた寝具は何とか燻り出し、炎を吹き出した。

 異常に気付いた階下の外国人ボランティアのひとりが叫んだ。

「是火灾!」

「逃掉!」

 窓からそっと覗くと、彼らは家の外へと飛び出した。この土地では見慣れない五人組だった。それより火を消さなければならない。しかし、既に火は勢いを増して階段を下りられる状況ではなかった。あっという間に部屋は煙が蔓延した。晴美は裏窓から脱出するしかなくなった。残りの寝具を窓から全部放り投げ、美弥を抱いて思い切って飛び降りた。美弥は驚いて起きてしまった。晴美が走り出すとキャッキャと笑い出した。

「美弥ちゃん、強いね!」

 5人組と反対方向の山の斜面を一目散に走り、やっと物陰に隠れることが出来た。山肌の土の地面が幸いして怪我はなかった。自宅を振り返ると火の手が上がっていた。晴美は最初、夫との思い出の家が燃えて行くことに罪の意識を感じたが、忌々しい出来事が起こってしまった家など跡形もなくなってしまえばいいと思い直した。

 知人の田所春代も家の片付けから帰るところだったようで、尋常ではない晴美を心配して後を追って来た。

「晴美ちゃん、どうしたの!」

「泥棒が!」

「泥棒 !? 折角震災を免れたのに…」

 春代は、晴美がいつも義父と家の片付けに通っていたのを知っていた。

「お義父さんは?」

「先に帰った」

「何で今ごろ火事に…」

 真実を話せるわけもなかった。

「気付いたら燃えてたから…」

 海からの風に煽られて火の勢いは増すばかりだった。日も暮れ始め、その赤々とした炎が自分の今のどうしようもない気持ちと同じだった。避難所に戻りながら、ふと、離れた隣家に目が行った。さっきの五人組が電化製品を持ち出しているシルエットが見えた。何もかもが悔しくて涙が止まらくなった。

 晴美は重い足で避難所に辿り着いたが、舅の所へは戻りたくなかった。

「坂巻さん…」

「おや、晴美ちゃん、お家の様子はどうだった?」

「晴美ちゃんちが燃えてるのよ」

 沈んでいる晴美を気遣って春代が代弁した。

「なんだって !? 消防に連絡したのか!」

「連絡したって来るわけないでしょ!」

「しかし…」

「さっき寿三郎さんが帰って来たばかりだから…寿三郎さんはこのことを?」

「知りません」

「じゃ、急いで教えてやらないと!」

「あの、坂巻さん…」

「晴美ちゃん、私は先に」

 晴美の様子を察して春代たちは先に区画に戻って行った。

「どうかしたのかい、晴美ちゃん?」

「お義父さんたちと別々にしてもらえないでしょうか?」

「別々に?」

「・・・」

「お家で何かあったのかい?」

 晴美は今日あったことを坂巻に話した。晴美は涙が込み上げて止まらなくなった。坂巻は大きな溜息を吐いて怒りを抑えていた。寿三郎とは村長と同じく小学校からの親友だった。

「分かった。何とかするから」

「近くは嫌です」

「分かってる。心配するな、晴美ちゃん。気持ちをしっかり持つんだよ」

 坂巻は旧姓の大志田で片桐夫妻から離れた場所に晴美の非難スペースを用意しようと思ったが、このまま彼女をひとりには出来ないと思い、凜子の部屋に寄ることにした。

「凜子ちゃん、今いい? 坂巻だけど」

 凜子は晴美の様子を見てすぐに察した。自分と同じものを背負った姿だった。

「今夜だけこの子と同室してもらえないかな?」

 凜子は頷いた。

「ありがとう。晴美ちゃん、悪いけど今夜はここで休んでくれ。ひとりだと心配だから。明日には別のスペースを用意しておくから。勿論、あのバカとはずっと離れた位置にね」

 晴美は頷いた。“ありがとうございます” と言いたかったが言葉にならなかった。坂巻が受付ブースに帰って暫くすると、寿三郎がやって来た。

「嫁が帰らないんだ」

「晴美ちゃんなら帰ってるよ。あんたらと別の部屋にしたから」

「何で嫁と別々にするんだ!」

 坂巻は寿三郎の顔をまじまじと見た。

「何でか分からないか、寿三郎さん?」

 寿三郎の顔色が変わった。

「文句があるなら、あとで奥さんと一緒に来てくれ。その上で洗いざらい説明するから」

「・・・」

「いいね」

「…ああ…で、嫁はどの辺に居るんだ?」

 坂巻の視線は鋭くなった。寿三郎は目を逸らしたが帰ろうとはしなかった。

「警察呼ぶか?」

 その言葉に寿三郎は驚いた。

「それと…あんたの家、今燃えてるそうだ。いや、もう燃え終ったかな」

「何だって! 消防署には !?」

「消防署はそれどころじゃなくて手が回らないそうだ」

「それどころじゃないって、オレの家が燃えてるんだぞ!」

「オレに言われてもな」

 寿三郎は駆け出して行った。その頃、晴美は夫の寿也が好きだった長い髪を、凜子に頼んでばっさりと切ってもらっていた。


〈第4話「報復同盟」につづく〉

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