第2話 大震災
国難を齎す大震災は過去に焼死被害が多かった関東大震災1923年(大正12年)9月1日11時58分。圧死被害が目立った阪神・淡路大震災が1995年(平成7年)1月17日5時46分。2011年(平成23年)3月11日14時46分には、多数の水死被害者を出した東日本大震災が発災している。
児童が下校の挨拶をしている2時46分頃、宮城県鬼隠ヶ浜市にある見晴らしのいい小高い丘に建つ鬼隠ヶ浜小学校を大地震が襲った。担任が叫んだ。
「机の下! 脚を持て!」
しかし、児童たちの体は激しい揺れに転げまわった。教室の窓ガラスが散乱し、全てが弄ばれた。今までにない長い揺れだった。
鬼隠ヶ浜小学校は、かつて神社のある山の中腹に老朽化した旧校舎としてあったが、数年前に交通の便のいい現在の場所に新築されたばかりである。海岸とは言え、比較的小高い丘に建てられた新校舎には、更なる震災対策として万が一の時のために避難用のスクールバスも備えられていた。
激しい揺れも治まり、生徒たちは担任らの誘導で全員校庭に集められた。その凡そ5分後、校庭の防災行政無線のスピーカーから警報が流れた。
「大津波警報が発令されました。早く高台へ避難してください!」
6年男子の工藤峻斗が担任の中川恒夫に訴えた。
「先生、すぐに山さ逃げたほうがいいんじゃね!」
地元住民は、神社のある杉林を “山” と呼んでいた。同級生の河合沙月も叫んだ。
「早く逃げねえと津波来る!」
他の生徒たちも騒ぎ出した。中川は教頭の北村文治に窺いを立てた。しかし、北村は中川を無視して児童らを座らせ、各学級担任らに点呼を取るよう指示した。その間に、北村は校長以下数人の古株教諭らを集めて何やら話を始めた。峻斗は尚も担任に訴えた。
「中川先生! 早くバスで山さ逃げっぺ!」
「先生が行かねえならオレたちだけで行く!」
「待ちなさい! こういう時は団体行動が決まりだ! 今、教頭先生たちが一番いい方法を話し合ってるから」
中川もすぐに山に避難するべきだとは思っていたが、教頭の手前どうにもならなかった。古株教諭の岡村忠志も山に避難する意見を主張したが、教頭は何故かその意見を拒んだ。
「この揺れでは、山さ逃げる途中で木が倒れる可能性があるんで駄目だ!」
岡村忠志は食い下がった。
「しかし、津波が襲えば安全な避難場所は山しかないんでは…」
「苔で滑る石段を登ってる途中で木が倒れて死人が出たら、あんだ責任持てる?」
北村は屁理屈の羅列だった。閉口した岡村は黙るしかなかった。
「市の防災マニュアルではこの小学校が避難所になってる。ここに避難できなかったら “高台に上る” となってる。ここよりも高台となれば、堤防路になるべ。もし、避難することになったら途中の道が危険な山より、堤防路が無難でねえのか?」
堤防路はより海に近い。馬鹿げた論理だった。しかし教頭の威圧的な言葉に、誰も異議を唱える教諭は居なかった。確かに避難の仕方は学校に委ねられていた。点呼も終わり、校庭で待たされる児童らが泣き始め、寒さと不安で嘔吐する子どもも出て来た。そんな中、近所の人たちがひとりふたりと避難して来た。小学校の校庭は教頭の言うとおり災害時の避難場所に指定されていたが、正確には “一時避難所” であり、本格避難前の集合場所的意味合いがあった。そのためにスクールバスが備えられていた。
その内、児童の親たちが迎えに来て我が子を連れ帰ろうとすると、教頭の北村が糺した。
「ここは団体行動が基本ですので方針が決まるまでちょっと待ってもらえませんか?」
「あんた、何を悠長なことを言ってるんだ! 大津波警報が出て、早く高台に逃げろという無線があったろ!」
「お父さん、落ち着いてください。ここは我々に任せてもらえませんか…緊急事態の事は日頃から考えております。こういう時には冷静さが大切です。お子さんは安全にお返ししますから」
しかし、北村の話とは裏腹に校庭で暖を取ろうと焚火の準備をしている教諭らに危機感の欠片も感じられなかった。そのうち、迎えに来た親の女児らが “早く帰りたい” と泣き叫び始めた。親たちは北村を諭した。
「あなたたちこそ頭は大丈夫ですか? 津波が来るというのに焚火ですか? この校庭程度の高台で、あれだけ激しく揺れた後の津波を避けられると、本当に思ってるんですか? 随分冷静で余裕があるようですね。ではお聞きしますが、あのスクールバスは何のためにあるんですか?」
現場にはスクールバスが待機していたが、運転手はスタンバイしていなかった。鬼隠ヶ浜小学校は避難のために一旦集合する一時避難所に指定されていたが、避難所と一時避難所には大差があった。北村は一瞬狼狽えた。保護者は更に教頭にたたみ掛けた。
「ここは避難先のゴールではないんです。この期に及んで悠長に焚火なんかとんでもない! あなたたちに子どもは任せられません。自分たちの命は自分たちで守らしてもらいます」
そう言って我が子を迎えに来た親たちは一足早く子どもを連れて山に向かった。北村は他の教諭らに体裁悪そうに苦虫を噛んでその親たちを見送るしかなかった。
「先生、バスでなくても山に逃げられるよ!」
峻斗は担任の中川に食い下がっていた。峻斗が言う神社の裏山は確かに周囲の堤防より高い急斜面の上で、石段は苔で滑り易く、足場が悪いとされていた。しかし、実は緩い斜面もあり、学校の真裏の斜面を辿れば低学年でも5分程で安全な高さに登れることを峻斗たちは日頃放課後の遊びで知っていた。
海岸線を市の広報車が “津波が松林を越えました。急いで出来るだけ高い場所に避難してください!” と連呼して通り過ぎた。この時点になっても、教頭の北村や教諭は地域住民と話しがまとまらなかった。
「やはり、山へ逃げた方がいい」
「いや、あれだけ大きな揺れがあったんだ。山は土砂崩れの危険があります」
意見は平行線で、結局、教頭は渋々200mほど先の堤防路に避難することを了承した。やっと非難することになった児童らは6年生を先頭に担任の教諭ごとに列を作って堤防路を目指して歩き出した。地震発生から50分も経っていた。
「どこに避難するのかな?」
「山でしょ」
「でも方角が違うよ?」
「堤防じゃないか?」
「堤防 !?」
歩きながら峻斗はまた担任の中川に質問した。
「先生、山に登れるのに、なんで海の方向に歩いてんの?」
担任は無言だった。堤防路に向かっている生徒たちは避難しながら更に不審に思った。住宅地を抜けて遠回りのルートが取られていたからだ。峻斗ら数人の生徒は、意を決してこっそり列を抜け出し、山に向かった。
その約10分後の午後3時37分頃、教頭ら一行の先に堤防路が見えて来ると後方から “ゴーッ” という聞いたことのない音がした。振り向くと、今去ったばかりの校舎の後ろを黒く塗ったような幕が覆っていた。そのどす黒い幕の後ろから、縦にぐるぐる回転しする波が現れ、電柱や街灯を喰い千切りながら “バリバリ” という音を立てて猛スピードで追い駆けて来た。あっと言う間に児童の列を高く越え、前方から堤防を乗り越えて高台ごと飲み込まれた。巨大な波は学校どころかその地区一帯を飲み込んでいた。それはあっと言う間もない出来事だった。
黒い波は裏山に迫って行った。峻斗は怒鳴った。
「振り向くな! 真っ直ぐ前見て走れ!」
教頭の指示に従わず裏山に向かった峻斗や沙月ら数人の生徒は、全力疾走で斜面を駆け上がった。彼らが竹藪を這ってやっと山に辿り着いた頃、雪は本降りになっていた。そこには教頭を押し切って山に辿り着いた保護者らや、命辛々逃げ延びた住民たちが亡霊のように佇み、眼下で起こっている津波の猛威に凍り付いていた。一同は山の中で寒さと恐怖に震えながら一夜を明かすことになった。峻斗は一点を凝視していた。その視線の先には、さっきまで小学生活を謳歌していた仲間を呑み込み、堤防路で渦を巻いている真っ黒い津波があった。あの渦の中にみんないる…峻斗は思わず嗚咽した。
「先生…」
恐怖の一夜が明けると集落は見る影もなく消え、瓦礫が散乱する廃虚と化していた。とても現実みのない受け入れ難い風景が一面に広がっていた。
「学校…あそこだよね」
沙月は力なく呟いた。生き延びた数人の同級生たちが歯をガタガタさせながら頷いた視線の先には、津波が引けた瓦礫の校舎で陽を受けて光るものがあった。校庭の掛け時計が3時37分を指し、空を仰いでいた。
避難所となった地元・宮城県
終戦後間もなくに鬼隠ヶ浜集落を大津波が襲い、集落は壊滅状態になり、大勢の子どもたちが犠牲となった。その経験から先祖たちは二度と子どもたちを犠牲にしないため、山中の鬼隠神社の境内を切り拓いて小学校を建てた。その後、暫くして中学校と高校が建ったが、老朽化した小学校は過去の津波を知る高齢住民の反対を押し切り、再び鬼隠ヶ浜の海岸から近い高台に移された。廃校になった小学校は暫くは神社を訪れる老人たちの憩いの場になっていたが、老朽化が進んだため利用が禁止され、今は閉鎖になっていた。
避難所に指定されている中学校の体育館に隣接する高校の体育館は遺体収容所になった。しかし、想定外に痛みの酷い遺体や部分遺体が多く、遺体をそのまま遺族の目に触れさせるには余りに過酷だったため、一般には伏せられたまま急遽廃校になっている小学校の体育館をあてることになった。
震災直後の惨状は、津波が押し寄せた鬼隠神社入口の鳥居辺りまで拡がり、打ち上げられた瓦礫に混じって、家屋や車からはみ出して息絶えた溺死体が集落へと続き、そこかしこにその一部を除かせていた。
救助活動せねばと高台に住む家から飛び出した消防団の石丸達治は、町外れの方角から上がっている煙に気が付いた。急いで軽トラを飛ばしたが、すぐに立ち塞がる瓦礫の壁にぶち当たった。消防の車庫に行けないばかりか、消火栓も防火用水もその瓦礫に埋もれて打つ手なしの八方塞の現実に肩を落とした。間髪を入れず遠くで爆発音がした。そして石丸はその恐ろしい現実に鳥肌が立った。自宅の高台から下りる際にあちこちに見えていた白い気体は、プロパンガスが洩れたものだった。そればかりか、津波の濁流となった瓦礫は、船や車のガソリンなど大量の燃える塊であることに気付かされた。石丸は、今点在している煙は何れ発火してお互いに導火線となって火災が拡大して行く恐ろしい光景を想像した。そしてその想像は、目の前で実際に起こり始めた。
「これが津波火災というやつか!」
石丸は引返して役場に急いだ。途中の斜面からやっと鬼隠ヶ浜市の全貌が見えた。目を覆うことすら出来ないほど思考停止する現実離れした景観だった。しかしその惨状が、何事もなかったかのような態を装う何十キロ先の海にまで今現在も続いているなどとは想像だにしなかった。
鬼隠ヶ浜市雉追平役場は山の中腹にあったため津波を免れた。しかし、職員たちは狼狽えていた。今年定年を控えている総務課長の坂巻慎介は怒鳴った。
「村長はどこだ!」
村長の角田三次が不在なのはいつもの事だった。副村長の重森耕三は村長の居場所を知っていても黙して語らなかった。語らないという事はいつもの場所だった。公務を放ったらかしに “出張” 名目で愛人の田川律子との逢瀬を繰り返していた。角田家は地元の名家であり、誰もが腫れ物にでも触るような存在だった。副村長の重森は角田の腰巾着で役場の業務には、所謂役立たずの存在だった。一方の坂巻は村長の角田と同期であり、角田には煙たがられていたが、勤務当初から角田の尻拭いをして来たため、角田は坂巻にだけは何も言えない状況だった。そのため職員の誰もが坂巻を信頼した。
「鬼隠ヶ浜中学校に急げ! 急いで避難所の準備だ!」
「あの…」
坂巻は副村長の発言の意を汲んで、すかさず言葉を被せた。
「地方公務員法第三十条、『すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない』という我々自治体職員の服務の根本基準を肝に銘じて行動しなければならない。しかし、今すぐ家に帰りたい者は止めはしない。但し、退職願を出してから帰るように!」
全員が副村長を見た。副村長は居場所を失って目を泳がせるしかなかった。帰る者が誰も居ないことを確認した坂巻は指示を出した。
「では、国枝は村長を探し出して連絡を取って指示を仰いでくれ」
「分かった」
「皆川、木本、及川はオレと一緒に来てくれ。役場の業務を終えて手の空いたものは後から避難所に非常用備蓄物資を運んでくれ」
そこに石丸が駆け付けて来た。
「坂巻さん! 中央に助けを要請するしかない! 救助活動が全く出来ない!」
「分かった! 国枝を手伝ってくれないか!」
坂巻は役場の業務を地元消防団長の石丸と一期後輩で住民福祉課長の国枝守に一任し、部下の皆川雄二、木本慶介と及川悟を伴い、それぞれに非常用備蓄物資を背負えるだけ背負って役場を出た。
「国枝さん、コンボはあるか?」
「裏の駐車場に有ります!」
「瓦礫で道が塞がれているんだ。避難所までのルートだけでも急いで付けないと!」
「分かりました!」
国枝は石丸に鍵を渡した。
「後で救援に誰か出します!」
「頼む!」
国枝は石丸が出て行くのを確かめ、電話を掛けようとすると副村長の重森が察し、焦って近付いて来た。
「国枝君…村長には私が連絡しておきますから…」
国枝は聞こえないふりをして電話を掛けた。村長の居場所が愛人宅だということは国枝にも分かっていた。
「村長、緊急です! すぐに役場に戻ってください!」
国枝は村長の返答を待たず、一方的に用件を伝えて電話を切ってから、徐に重森に顔を向けた。
「何ですか、副村長?」
重森は不意を突かれた感じで体裁悪そうに苦笑いを浮かべながら小さく頷いて黙った。無表情の国枝は、情報収集のため携帯電話を掛けてみたが、案の定掛からなくなっていた。
「…やはり、携帯は駄目か」
坂巻たちが避難所の鬼隠ヶ浜中学校に辿り着くと、寒空で一夜を明かして体力を奪われた避難者たちは、春休みで塞がった体育館に入れないでいた。
「皆さんよく頑張ってくれたね! 急いで支度するんで、兎に角、火を熾して体を温めてください!」
津波のショックで半ば思考停止に陥っていた避難民たちは、坂巻の指示で我に返った。やっと助かったという安堵からか、すすり泣く声があちこちから聞こえて来た。
「手分けして燃えそうな枝を集めてください!」
一面には、夜半から降り始めた雪が覆っていたが、住民たちはそれを振り払って境内に散らばっている枯れ枝などを集め始めた。
境内の中央に炎が焚かれると、誰からともなく拍手が沸いた。坂巻は住民たちをすぐにでも校舎の中に入れたかったが、俄か作りの受付を設営するまで外の焚火で暖を取ってもらうしかなかった。
受け付けが開始されると、皆川は申し訳なさそうに避難者たちに一列に並んでもらった。その間に、木本と及川には体育館に石油ストーブやら段ボールを敷いて受け入れ準備を急がせた。受付では、運んで来た毛布やペットボトルを配る準備を急いだ。避難者たちは震えながらも不満ひとつ言うこともなく、列で坂巻たちの準備を待っていた。焚火の周りで元気に喜ぶ子どもたちの姿が救いだった。避難者たちの顔は殆どが坂巻の知る顔だ。それだけに込み上げる感情を敢えて抑えて事務的に黙々と動くのが精一杯だった。
震災に於ける『災害救助法』では避難所開設期間は原則「7日間」となっている。そして応急仮設住宅の着工は1ヶ月以内と設定されている。坂巻はそれら規定内で順調に治まることを祈った。
避難者の担当には愛想の良い皆川雄二をあてた。列を成す避難者の身元を順に記録すると、皆川は手続きを終えた避難者に毛布と緑茶のペットボトルとおにぎりを渡し、木本らに避難エリアとなった体育館への誘導を任せた。石段を登って来た避難者たちが続々と現れた。自分の怪我に気付かない者がかなり居た。救護班は思ったより早く到着して受付の横にテントを張り簡易的な応急治療エリアを設営した。
列でラジオを聞いていた避難者が隣に並んでいる避難者に囁いた。
「おい、帰宅困難者で溢れて中に入れなくなった避難所もあるらしい」
「避難所が狭いからなんじゃないか?」
「地元以外の関係ない人が殺到したらしい」
「だって地元の人優先だろ」
「それがそうでもないらしいんだ。決まりでは災害が起きたらどこでもいいから近くの避難所に避難していいことになってるそうなんだ」
「そしたら地元の人はどうなるんだ?」
「他の遠い避難所に回されたらたまんねえな」
「震災での盥回しは勘弁してもらいたいな」
「役所のすることはいつもいい加減なんだよ」
「やつら揃いも揃って世間知らずの頭でっかちばかりだ。前例がどうたらと屁理屈捏ねやがって、しょうもない決まりばっかり押しつけやがる」
「坂巻さんたちは別だろ」
「だな」
被災者の列は次第に長くなっていたが、皆川が被災者の受付に慣れたのを確認すると、坂巻は及川を伴って遺体安置所の準備に向かおうとした。ところが傍で様子のおかしい女性がうろうろしていた。坂巻は不審に思った。
「及川君、先に行っててくれ」
「あの…何をすれば…」
「床全体にブルーシートを敷いといてくれ! あと、入口に案内板も!」
「分かりました!」
及川は隣接する高校の体育館に向かった。及川を先にやった坂巻は、彼女に近付いて行った。
「あなたも避難して来たんですね?」
「・・・」
「お名前は?」
そこに芳乃が現れた。坂巻の妻である。
「どうしたの、あなた?」
「芳乃! 無事だったのか!」
「実家に行ってて助かったけど役場に寄って来たから遅くなっちゃった…家は流されちゃったね」
「家なんかいい、おまえが無事だったんだ」
「…あなた」
「役場はどうだった?」
「国枝さんがしっかり切り盛りしてたわ。それと、石丸さんが避難所までの瓦礫の撤去作業をしてくれてたよ」
「そうか! 兎に角、おまえもこっちを手伝ってくれないか!」
募る話はあったが、今はそれどころではなかった。
「この子を頼めるかな?」
「分かったわ…あの…だれかお身内の方と来たの?」
彼女は涙を溜めながら終始無言だった。彼女の様子がおかしいことに気付いた芳乃は、取り敢えず彼女に毛布とおにぎりとペットボトルを貰い、避難所内のエリアの一角に連れて行くことにした。
「大丈夫ですよ。心配しないでここでゆっくり休んでね」
坂巻は避難所に入る二人を見送りながら娘の事を思い出していた。
体育館の一角に連れ来こられた彼女がガタガタ震えていたので、芳乃は急いで石油ストーブを取りに行った。どうやら記憶喪失になってさ迷ううち、氷のように冷たくなっていたようだ。
彼女が落ち着いた頃、避難所の入口受付のほうが何やら騒がしくなった。被害の少なかった地域から早くも救援物資の一部が届き、避難者の一部が担当者の皆川や木本の制止を無視して我先と物資を取り始め、順番を待って後ろに並んでいた避難者が堪らず怒鳴っていた。
「ちゃんと並べよ!」
「勝手なことをするな!」
「担当者はやめさせろよ!」
そのうち、実力行使で割り込んで物資を奪い取ろうとする避難者が出て来て騒ぎが大きくなった。
「マナーを守れなければ帰ってもらいます!」
坂巻が叫んだが誰も聞く耳を持たなかった。そうした光景に、坂巻も皆川も木本も職務への意欲が削がれていくのを耐えるしかなかった。避難者たちの多くの冷視線を浴びて良心が痛んだのか、物資の奪い合いは間もなく止んだ。これからこうした類の光景を毎日見せ続けられるのかと思うと、気が重くなった。坂巻は救援物資の担当を木本に委ね、避難所の中の壁伝いに物資を並べて置いてもらい、職員の見張りを付けることにした。騒ぎが一段落して受付が再開したのを確認すると、坂巻は及川の待つ遺体収容所となる高校の体育館に急いだ。
既に数体の遺体が地元消防団によって体育館に向かって運ばれ始めて来ていた。坂巻は何か違和感を覚えた。消防団らの表情が能面のようだった。敢えて感情を押し殺し、喜怒哀楽を封印しているかのようだった。彼らはきっと、毛布で包まれた担架の遺体に、自分たちの家族や知人を見ては打ち消しているに違いない。連絡の取れない家族が居ても、皆が探しに行くことを耐えているのだろう。そう思うと坂巻は彼らに手を合わせたい衝動に駆られた。しかし、今は誰もがそうなのだと、坂巻は敢えて考えないことにした。
及川が坂巻の姿を見つけて駆け込んで来た。
「坂巻さん、どうしましょう!」
「どうした?」
「遺体が…」
「遺体がどうした?」
「遺体がないんです!」
「遺体がない?」
「全部揃ってないんです!」
及川の行っている意味がやっと飲み込めた。部分遺体である。恐らく、これからは傷みのひどい遺体も運ばれてくるかもしれない。遺族に確認させるにしても、それらの遺体を誰もが目に付く場所に置いておくことは出来ない。坂巻は隣接する小学校の廃校に目をやった。
「すぐに戻る」
高校の体育館の準備は及川に任せ、坂巻は廃校になった小学校の体育館に向かった。老朽化はしていたが、思ったほどではなかった。何ケ所かガラスが破損していたが天井からの雨漏りもなく、電気等のライフラインを復活させれば使えそうだった。役場からの応援を待ち、『準備室』という看板を掲げて傷みのひどい遺体や変形した遺体、部分遺体などを収容する“一般の方、出入り禁止”の場所にすることにした。
坂巻の采配で避難所や遺体収容所の動きが何とか滑り出し、その後も時間に追われる日々が過ぎて行った。
遺体の担当になった及川悟は寡黙だが仕事をきっちりこなす人間だった。坂巻はそういう及川を買っていた。遺体収容所の担当に回すのは、つらい仕事になると分かっていたが、自分が出来る限りフォローしようと、及川を選んだ。
震災直後の遺体班の責任者に回された及川は、坂巻の期待どおり淡々と職務を熟して行った。ブルーシートの床に並べられる遺体が震災2日目から時間を追って急速に増えて行った。そこで交代のない及川はひとり様々な手配をしていた。やっと身元が判明した遺体の死亡届を出し、火葬の調整の際、あがってくる遺体に火葬が追い付かず他市町村に頼んだり、間に合わなくなり土葬の手配をしたり、時には消防団を手伝って遺体をブルーシートに包んだり、搬送の手伝いをすることにも携わっていた。
一面に敷かれたブルーシートに、ファスナー付きの遺体収納袋やビニールシート、毛布などに包まれた犠牲者が次々と担架で運ばれて来るようになった。遺体の中には死後硬直で手足がはみ出して運ばれて来るのも少なくない。子どものそれと分かる大きさには胸が刺された。及川は日々恐ろしい震災が現実に起こってしまったことをこれでもかという程に見せ付けられていた。遺族が身元確認に来る度に、白布を開けて遺体の顔を見せなければならない。そこに存在して居てほしくない遺体を確認に来る顔見知りの住民たちの気持ちを思うと、及川の精神は既に限界に達していた。しかし、途中から及川には不思議な考えも同居していた。ここにある遺体は、遺体とは言え “五体満足” の状態にある。廃校になった小学校の体育館にはそれより更に深刻な遺体が運び込まれている。複数からまって硬直した変形遺体や部分遺体を黙々と検分する監察医や医師の重い空気が淀んでいた。ここはまだマシなのである。
そうした中で、及川は変わって行った。たった数日で、別の世界を見ている乾ききった表情になっていた。“いつかはここに来るかもしれない” という強迫観念も及川の心を覆って行った。それは、親かもしれない。兄弟かも知れない。友人かも知れない。恩師かも知れない。隣人かも知れない。知人かも知れない。それをずっと恐れながら職務を熟していた。しかし、及川は疲れ果て、現実逃避することにした。遺体が誰であるかに関心を持つことを辞めた。自分は感情のない作業の歯車でしかない。全てにはもう結論が出ている。一喜一憂したところで無意味なのだ。今そこに強いられた不幸に、感情を委ねられる人はまだ幸せなのだ。自分は職務の間は私事に帰ることは出来ない。感情のある人間に戻れるのは一番最後なのだ。避難所が閉鎖になるまで自分はないと言い聞かせていた。
家族が遺体収容所に身元確認で呼ばれて来るケースが増えて来た。家族の悲しみの形は遺体の数だけあった。いくら無機質で居ようとしても、及川の心はその度に抉られた。どうしても慣れることは出来なかった。
「自分はもう限界です」
及川は坂巻に相談するしかなかった。というより、相談する冷静さがまだ残っていたと言ったほうがいいのかも知れない。
「及川くん、よく頑張ってくれたな。明日から少しゆっくり休め。その後は役場での事務処理に回ってもらうから」
坂巻は及川を称えただけで慰留はせず、自分が遺体班に代わった。遺体確認も進み、火葬までの手続きが回り出した。三日程すると、及川が現れた。あの青褪めていた顔に血の気が通っていた。
「ここの仕事に戻ります」
「…そうか」
坂巻は何も聞かず、頬笑んで優しく頷いた。そしてその場を及川に任せて、ある遺体の前に立ち止まり、手を合わせた。及川は近くにいる知り合いの消防団に訪ねた。
「誰ですか?」
「坂巻さんの弟さんだよ」
及川は絶句した。坂巻は取り乱すこともなく、そのまま遺体収容所を出て行った。及川は、坂巻の強さにハッとなった。受け入れることだ。全て受け入れる技量さえあれば、坂巻のように取り乱さずに兎に角一歩でも前に進むことが出来るかもしれないと思った。今は受け入れるのが自分に科された仕事なのだ…と及川の腹は決まった。
その後も遺体確認に見える家族の悲しみが館内に響き続けたが、及川は遺体確認に来る家族の悲しみの空気が変わっていることに気付いた。及川が去る前は遺体を確認した家族の殆どは、まず絶句し、そして暫く目を逸らした。遺体は想像だにしなかった津波の凄惨さを訴えていたからだ。そして発狂に近い家族の嘆きようを、及川は当然の悲しみようだと思っていた。しかし、それは違っていた。再び戻って来た時、家族の悲しみようは以前に見たことのあるそれに戻っていた。何が違ったのか…それは、坂巻が遺体の顔の復元ボランティアを受け入れていたからである。及川の去った翌日、坂巻の前に笠原元子という女性が現れた。“津波で亡くなった方が家族に見せる最後の顔を穏やかにしたい” と言ってきた。遺族の悲しみがショックから始まることは坂巻も何とかしなければと思っていた。予算もない。しかし、その女性はボランティアでやるという。遺族に出来るだけショックを与えずに悲しんでもらえるようにと死者の穏やかな顔の復元を坂巻に申し出て来たのだ。
笠原元子はかつて看護師をしていた。小児科に配属になったばかりの頃、交通事故で激しく損傷した女の子の担当に就いた。しかし、その子は意識が戻らぬまま一週間で帰らぬ人となった。看護師に取って、ベッドで亡くなった人への最後の看護は清拭を行うことである。しかし、損傷したその子の顔は両親に見せられないほど傷んでいたため、包帯姿のままだった。遺族に残る最後の記憶…最後の別れが包帯姿の我が子とはあまりにも悲しい別れだと元子は思った。それを機に復元納棺師の道に進むことにした。
納棺師への道は葬儀会社に入社することで開ける。看護師だったことが追い風になり、元子の技術は見る見る開花して行った。5年ほど経過した頃、東日本大震災が起こり、引き上げられる遺体が激しく損傷していることを知った。そして現地に復元のボランティアとして向かったが、元子の申し入れに首を縦に振る現場はなかった。そして東日本大震災が起こり、坂巻に出会ったのである。坂巻は最初、断るつもりだった。しかし、弟の遺体があまりに悲惨な状態で上がって来ていた。死後硬直だけならまだ仕方のないことと思ったが、目を見開いた恐怖の表情で、開いたままの口には砂がいっぱい詰まっている遺体に、思わず目を逸らしてしまった。悲しみより恐怖が勝った。
「どんな遺体でも復元できるのかね」
「はい!」
元子は100%の自信はなかったが、そう返事をした。坂巻は駄目元で弟の遺体の復元を任せてみた。元子は復元に三時間程掛かっていたが、坂巻を呼びに来た。
「終わりました」
坂巻は無言で弟の遺体に向かった。そして恐る恐る弟の顔を覗いた。昔の優しい弟の顔に戻っていた。
「庸介ーっ !!」
強い悲しみが込み上げ、坂巻は号泣していた。遺体確認に来た家族は、ちゃんと悲しむことすら出来ないでいたことを坂巻は初めて知った。遺体の復元は絶対に必要だという事を認識した坂巻は、元子に遺体の今後を委ねた。その後、遺体確認に訪れる家族たちが、純粋に悲しめる幸せを得たことで、及川の心はもう現実逃避することもなくなった。
震災が起こると、闇から闇に葬られる被害がある。性暴力である。
陽が落ち、被災者の案内も一段落したので、坂巻はひとり遅過ぎる昼飯を取ろうとしていると、避難所の一角から悲鳴が響いた。この日は偶然にも午後から部下たちが全員一時帰宅して、スタッフは坂巻一人だった。慣れの隙を突かれた格好になってしまったと己の油断を反省しつつ、急いで駆け付けると、そこは“凜子”の区画だった。すぐに妻の芳乃も駆け付けて来たが、他に悲鳴に関心を寄せる者は皆無だった。暗闇を照らすと “凜子” に男が覆い被さっていた。防犯用に携帯していたスタンガンを見舞い、動けなくなった男の顔を懐中電灯で照らすと、その顔には見覚えがあった。
坂巻はかつて、震災でボランティアに出向いた娘を失くしていた。同じボランティアで来ていた二人の男らに乱暴されたのを苦に自殺したのだ。懐中電灯にはその男らのうちのひとりが照らし出された。鷲見貞夫…ボランティアを騙って被災地荒しで渡り歩く札付きだった。坂巻らの目を掻い潜ってこの避難所に紛れ込んだらしい。震災を渡り歩いている鷲見は、震災後の避難所が数日で無関心な無法地帯になることを知っていた。鷲見にとって被災地の夜は天国である。自分らの身を守ることで頭がいっぱいの被災者を尻目に、窃盗から強姦まで彼らにとってはやりたい放題なのだ。
「おまえ!」
坂巻は驚いた。鷲見貞夫という名は忘れたくても忘れられない名前であり、この世に生かしておいてはならない存在だった。これは千載一遇の神の贈物と思えた。とっさに毛布で男の口と鼻を抑え付けていた。
「あなた !?」
「こいつは鷲見貞夫だ…見ろ、このクズの面を!」
一旦どかした毛布の下から息も絶え絶えに目を剥いた鷲見の顔が現れた。芳乃の表情は見る見る怒りに変わった。
「早く抑えて!」
芳乃は毛布で力一杯鷲見の顔を抑え付けた。スタンガンで麻痺したとはいえ、だらしなくバタつく足をいつの間にか “凜子” も抑え付けていた。毛布に力の入る坂巻夫婦の脳裏をつらい過去が駆け巡っていた。娘を自殺に追いやった男らのために、どれだけの年月を苦しんで来たか…判決はたった5年の懲役刑。被害者の家族の苦しみは5年で消えるはずもない。その恨みは例え犯人を死刑にしたところで消えるものではない。阪神大震災時、ボランティアに参加して、二人組の男にレイプされた娘が故郷に帰らぬまま命を絶ったことへの償いは、無神経な法の裁きに委ねる気など毛頭なかった。出掛ける時の娘の元気な顔を一所懸命思い出そうとしても、もう思い出せない。遺体確認の時の無念を残した白い顔だけが焼き付いている。
判決がどうあろうと裁判の前に己の手に掛けようと狙っていたが、何も出来ないまま刑が確定し、娘をレイプした犯人らには刑務所の中に逃げられることになってしまった。強姦の法定刑は5年以上の有期懲役のため、あとはやつらの出所を待つしかなかった。しかし、職もなく住所不定の彼らの出所日も、その後も、法に護られ、伏せられたままだった。手は尽くしたが、やつらの足跡は完全に消えてしまった。しかし、思わぬ震災という不幸が鷲見貞夫を呼んでくれたのだ。もうひとりも必ずここに現れるはずだ…坂巻夫婦は修羅の顔になっていた。
凜子は男の両足を抑えながら、ただならぬ形相の坂巻夫婦の様子をじっと窺っていたが、男が痙攣を始めた。そのもがきを抑えながら “凜子” の失った記憶が断片的に蘇り始めていた。男が悶えればもだえる程、坂巻夫婦と凜子の力は強力になって行った。
男は動かなくなった。動かなくなっても坂巻夫婦の修羅の顔は消えなかった。凜子の手が離れた。それを機に坂巻夫婦の表情も次第に元に戻って行った。三人は暫く座り込んだまま茫然としていた。
「…この男に娘を奪われてね…こうすることをずっと願ってた。まさか、ここに現れるとはね」
坂巻は声にならない声で呟いた。凜子は見る見る涙を滲ませ、芳乃に抱き付いて嗚咽を押し殺した。
「…私は」
芳乃は凜子の切ない顔が多くを語っていることを悟った。
「今は何も言わなくても…負けたらいかん…負けたらいかんよ。私はまだ自首できない。もうひとりいるの…分かって頂戴」
坂巻も震災で家を失い、妻の芳乃と避難所生活を余儀なくされていたが、鷲見の登場で、今起こっていることは娘の怨念が導いたものと思い、もう一人の男も必ず現れるはずだという期待が強くなった。
「今日から一緒に過ごそう。ここは避難所だが安全なわけじゃない。震災でみんなおかしくなっていく。あなたを一人では置けない。もうしばらくでいいから一緒の区画で過ごそう」
芳乃も促した。
「一緒でいい?」
凜子は遠慮がちに頷いた。
「お名前は…何て読んだらいいのかしら?」
「…凜子…ちゃんと…呼ばせてもらっていいかな。ほんのしばらくでいいから…」
芳乃は夫の顔を見た。夫は失った娘の名前で呼びたがっている。芳乃は夫の傷の深さに込み上げて来るものがあったが、ぐっと堪えて微笑んだ。凜子も微笑んで頷いていた。
「凜子ちゃんね。じゃ、凜子ちゃんと呼ばせてもらうね。遠慮しないで何でも言ってね。あなたは今日から私たちの娘なんだから…」
そう言うと、凜子はまた静かに頷いた。芳乃は夫の顔を見た。夫は “凜子”に、遠い幸せだった頃の娘を見ていた。
翌朝、早出出勤で朝の避難所見回りをしていた木本慶介が、坂巻のもとに焦って報告に来た。
「死んでいる?」
「…と思います。息をしてないようなので…それと、誰なのか分からなくて…避難者名簿にないんです。あそこは確か記憶喪失の女性の区画だったはずですが…」
「彼女はすぐに妻の区画に移ってもらったから、今は空きスペースの筈だが…記憶喪失の人をひとりにしては置けないいんでね。かと言って誰かにお任せ出来る状況にもないんでね。皆川君が受け付けたのかな?」
「皆川さんも覚えがないと…」
「気が付かなかったなー…昨夜は疲れて寝込んでしまったらしい」
「すみません、自分ら全員一時帰宅になってしまって…」
「それは私のシフトミスだ。君らの責任じゃない。兎に角、そのままにはしておけないな。取り敢えず遺体収容所に運んでもらおう。及川君に連絡して!」
「警察には…」
「連絡したって来手が居ないだろ」
「それもそうですね」
坂巻は万が一の覚悟はしていた。少しして地元消防団たちが駆け付けて来た。しかし、鷲見の死体の検視もなく、さっさと収容所に運んで行った。遺体の在ったスペースは避難者も嫌やがるだろうと早々に片付け、救援物資の備蓄場所にした。以来、鷲見は一体増えた身元不明の被災死体として扱われることになった。
身元不明遺体は、凡そ一週間が経過すると火葬され、遺留品や火葬台帳などの根拠書類を添えて遺骨保管所に保存され、一年以内に引取人が表われない場合、身元不明者扱いになり、公営の納骨堂など定められた場所に移管することになる。
身元不明扱いの鷲見貞夫の名を明かすつもりは坂巻にはない。過去に “自称”鷲見貞夫として裁かれた人間の遺体確認に現れる者は皆無だろう。しかし、坂巻はその考えられない人間が現れることにも一縷の期待を託していた。納骨堂への移管までには一年ある。もしその間に引取人が現れてくれれば、鷲見の共犯者の居所を突き止められるかもしれない。
坂巻はその日の夜から芳乃と凜子を連れて、高校のグランド脇にある野球部の部室に寝泊まりすることにした。その部室からは避難所の出入口と、遺体収容所となった高校の体育館への人の出入りが一望出来る。裁判の折りの鷲見らの関係者が出入りしないかどうかは、部室に居続けられる芳乃に託された。
一週間が何事もなく経過した或る日、やっと自衛隊がやって来た。水や燃料の他、様々な物資が補給されたのはいいが、選りにも選って高校のグランドに張ったベースキャンプが妨げとなって、遺体収容所までの出入りが部室からは見えなくなってしまった。隊長の大矢常光に遺体収容所監視の旨を話すと、隊員が24時間不寝番に立つことになっているから問題はないとの事だった。隊長に監視の真の理由を言えるわけもなく、仕方なく坂巻たちは元の避難所区画に戻って過ごすしかなかった。
遺体収容の速度が急ピッチになった。被災した住民たちが居るであろう箇所の見当は地元消防団が先行した。自衛隊は地元消防団らの読みを信頼した人海戦術で遺体の発見が早まって行ったのである。しかし、筆舌に尽くし難い遺体の惨状が日を追って彼らの救助の精神を鬱屈させていった。それは人間だけではなく、救助犬にも言えることだった。生命反応のない肉体の救助は、救助犬の意欲に相当な負荷を与え続け、犬たちは達成感のない虚しさに襲われ、その動きは人間のそれと同様、日を追って鈍くなっていった。
〈第3話「煩悩の連鎖」につづく〉
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