避難所

伊東へいざん

第1話 監察医・権田原

 魂は弔い、ゴミは還元しなければならない。


 権田原晃は夢に魘されて起きた。どんな内容だったか定かには思い出せなかったが、見知らぬ初老の男の後味の悪い夢だった。携帯が鳴っていた。殺人事件の一報だった。

 権田原が現場に駆け付けると、被害者は口枷をされ丸裸で後ろ手に縛られた血の海の中で息絶えていた。その男は、今朝の夢に出て来た男だった。

「変質者の仕業ですかね」

「…そんなことは、オレには分からん」

「ですよね」

 鑑識官の権田原は後輩の袴田忠利の呟きに吐き捨てるように呻いた。死体に刺されていた鉄パイプは後日監察医の解剖で肛門から胃まで到達していることが判明した。建設現場の資材鉄パイプでめった打ちにされた後、その鉄パイプで肛門から貫かれる猟奇的な殺害だった。惨殺死体で発見された被害者は牛嶋幹也(67歳)。宮城県鬼隠ヶ浜市出身の出稼ぎ労働者で、工事現場の交通誘導員として働いていた男だった。

 その翌日、権田原は同じような呼び出しに悩まされた。事件現場は冷凍豚枝肉冷蔵室だった。角田彰彦、国枝忠臣、春田利尚の三人の男が、豚の枝肉と並んで裸のまま逆さ吊りにされていた。牛嶋と同じ宮城県鬼隠ヶ浜市の出身だった。

 さらにその翌日、岸田拡という男の絞殺体が採石場の砂利の中で発見された。権田原ら鑑識の調査中に岸田の仲間の金城卓、他三人の遺体も発見された。連日の殺人死体は何れも宮城県鬼隠ヶ浜市出身者に関わる同一犯による連続殺人の線が濃厚と見られたが、懸命の捜査にも拘らず、犯人の割り出しに繋がる証拠は残されていなかったため、権田原班はその初動鑑識の精度を疑われた。しかし、科捜研に於ける監察医の調べに於いても何ら手掛かりになるものは得られなかった。権田原はそうした周到な背景に何か空恐ろしさを覚えた。被害者が何れも宮城県鬼隠ヶ浜市出身であることだけが唯一の手掛かりとなった。


 鬼隠ヶ浜市雉追平は妻の郷里である。そのことで権田原の心に違和感が覆っていた。ただの偶然と言えばそうでしかないが、妻の時世と同郷の人間が立て続けに被害者となっている。そして現在、妻とは別居状態にある。結婚生活が10年ほど経った頃、時世はまだ幼い息子の晃一を連れて家を出た。権田原にはその理由が分からない。確かに権田原の仕事が忙しく新婚当時から夫婦らしい生活ではなかったかもしれない。しかし、それは時世も結婚前は監察医として働いていたこともあり、権田原の仕事には理解を示していた。何の問題もないと思っていた結婚生活に、突然終止符を打ったのは妻の時世だった。

「私の事情です」

 妻はその一言を置手紙に残して去った。権田原はいろいろ考えたが、時世から離婚を要求していない以上、その決断を尊重するためには、妻の実家にも誰にもその事を語らないことが最良と決めた。以来、ストレスの重なる日々が始まった。被害現場と連動する不可解な夢を見るようになったのは、それから間もなくのことである。


 数日後の深夜、黒い仮面で顔を覆った五人組がキャラバンに機材を積み込み、車に乗った。それを窺っていた熊代善治が連れの佐山恭子に指示した。

「今だ!」

 女はボタンを押した。キャラバン車内が一瞬で勢い炎が炸裂して窓が吹き飛んだ後、車内から真っ黒な煙が噴き出した。


 その頃、権田原はまた夢に魘されていた。5人のゾンビがこっちに近付いて来たかと思うと、突然バラバラになってその場に崩れ落ちたところで携帯電話に起こされた。殺人事件の一報だった。

 あれからまだ一週間も経っていないというのに、また嫌な夢に魘されて現場に向かうことになった。気の進まない現場に駆け付けると、案の定、陽が差した車内には夢で見た5人のゾンビの爆破死体が露わになっていた。

「まだ続くんですかね」

「…そんなことは、オレには分からん」

「ですよね」

 袴田のいつもの呟きと権田原のいつもの返答で鑑識作業が開始した。


 彼らの身元はすぐに判明した。手配中の在日外国人だった。彼らは震災の度にボランティアと称し、現場で復旧活動を装って窃盗・殺人・死体遺棄などを強行する組織的常習犯として手配中だった。

 権田原は、もしかしたらこいつらも宮城県鬼隠ヶ浜市と何らかの関わりがあるのではと心を過ったが、それは鑑識の自分が関与する域ではないと、それ以上は考えないことにした。しかし、夢が気になる。なぜ予知夢のようなものを見るのか…今までそんなことは一度もなかった。このところ、夢に魘されていると携帯電話に起こされ、呼び出された現場には夢に出て来た被害者たちが死体となって転がっているパターンが続いていた。仕事を終えて寝る段になると、どうしてもそのパターンが気になって、権田原は次第に寝付きが悪くなっていた。

 それに夢と現場が連動していることで、どうしても時世のことが気に掛かってしまう。時が解決すると心に決めたはずの意思が揺らいでしまう。何度、妻の郷里に問い合わせようかと思ったが、結局、携帯電話は置くしかなかった。あれこれ詮索しても意味がない。やはり、耐えるしかないという堂々巡りの日々が続いた。


 このところ、、権田原の生活は乱れていた。疲れて仕事から帰って寝ようにも、熟睡が出来ない権田原は、好きでもない酒量が増えていた。

 いつの間にか寝入った権田原が目を覚ますと、薄暗い瓦礫の中に挟まれていた。まだ夢の中か…ここはどこだ?…どうせ携帯が鳴って起こされるだろうと待ったが、いつまでも鳴らなかった。“鳴らねえな” と辺りを見回すと、隙間からカレンダーが覗いている。よく見ると2011年のカレンダーである。夢にしては湿度、臭い、隙間風などの体感が現実的過ぎる。事態が呑み込めないまま、瓦礫の中から脱出を試みようと、体を捻ってみると少しは動ける隙間に居ることが分かった。何とか擦り抜けて空間のある部屋の一角に出ることが出来た。ガラスに罅の入った柱時計が2時46分で停まっていた。倒れた家具をどかして何とか外に這い出して驚いた。爆発事故が起きたかのように辺り一面が破壊されていた。その隙間を縫って住民らしき人たちが大勢さ迷っている。中には怪我を負っている人たちもいる。誰かが叫んだ。

「津波が来るどー!」

「津波 !? ここは海に近いのか !? どういう事なんだ? 何があった?」

 権田原が振り向いた先に確かに海が見えた。特に変わった様子はないが、何か違和感を覚えた。再び住民たちに目をやると、どうやら一定の方向に向かって走っている。高台を目指しているようだ。彼らは遠くの山の麓に見える石段目指して一直線に続いている。

 リアル過ぎる体感の夢で逃げる必要があるのだろうかと思いつつ、権田原も一応その一行に従って急いだ。通り過ぎる途中の家の玄関で大声がした。

「何勝手なこと言ってるんだ!」

「歩けないよ。膝が痛いんだ。もう十分生きた。私は逃げなくて良い!ここで死ぬ!」

「あんたはそれでいいかも知れんが、あんたを助けようとする消防とか警察の人が助けようとして、あんたのそのわがままのお陰で死ぬんだよ! 人に迷惑掛けんな!」

「なら私を殺して行けばいいだろ!」

「息子を殺人者にするのか、クソババア!」

 老婆は泣き出した。気にはなったが、権田原にはどうすることも出来ないまま、人の流れに身を任せるしかなかった。道路の中央は避難の車が渋滞し、動けなくなっている。住民は車の脇を通るしかなかった。急ごうにもままならず、権田原は田圃の畦道に下りて山に向かうことにした。すると、他の住民もそれに倣って次々と畦道に下りて権田原の後に続いた。老婆が気になった権田原は、時折後ろを振り返りながら走った。暫くすると息子と思しき男性が老婆を背負って後を追い駆けて来るのが見えた。安心した権田原は先を急いだ。遠くに神社に繋がる石段が見えて来た。山はもうすぐだ。ふと親子のその後が気になりもう一度振り返ると、どす黒い津波の壁を背にしていることに初めて気付いた。親子のことも気になったが、このままでは石段に辿り着く前に津波に追い付かれそうで必死に走るしかなかった。

 やっと石段の入口の鳥居辺りに辿り着いて振り返って目を疑った。避難して来るさっきの親子の前に結婚前の妻・時世とその両親らしき三人が必死に走って来る姿が見えた。権田原からは夢という概念は消えた。

「時世 !?」

 かつて権田原は、宮城県警への出張の際に、現場で監察医をしていた阿部時世と出会った。権田原は時世に一目惚れし、以来、遠距離交際を始めたのだ。権田原は焦った。黒い瓦礫の壁は容赦なく迫って来る。今戻ったら自分も津波に巻き込まれるかもしれない。その時、乗り捨てられた軽トラの鳥居部に引っ掛けられたロープが目に入った。急いで石段の入口の脇にある50cmほどの石碑を見付けてロープを結わき付け、伸ばしながら時世たちのもとに向かって行った。

「晃さん、どうしてここに !?」

「晃一は !?」

「晃一 !? 晃一って誰 !?」

 妻が自分の産んだ児を覚えていないわけがない。権田原は困惑した。しかし、一刻を争う事態だった。

「いいから急いでこれに掴まって!」

 時世親子はロープを手繰り寄せながら登るのに勢いが付いた。しかし、石段が近付いて来るに従って他の住民も我先とロープに殺到し、権田原は時世親子ともども思うように進めなくなってしまった。まるで芥川龍之介の蜘蛛の糸常態である。権田原は時世親子に叫んだ。

「ロープから離れて! 早くこっちに!」

 大勢がロープに群がった分、横に少しの隙間が出来ていた。権田原はその隙間沿いに登ることを選んだ。やっと石段入口の鳥居に辿り着いた時、既に足下には海水が流れ込んで来た。

「早く登って! 早く、早く!」

 権田原は時世を先にやり、両親の勝五郎とセツの腰を後ろから押しながら石段を駆け上がったが、海水は権田原の膝まで迫って来ていた。真っ黒だった。その黒い海水が深くなり、あっと言う間に首まで来てもう駄目かと思った時、急に足下から掬われる感覚に襲われた。津波が勢い引いている。ズルズルと体が持っていかれそうになった時、勝五郎が権田原の腕を掴んで引っ張り上げた。

「晃さん! この手を絶対に離さんでくれ! あんたには言って置かなきゃならんことがある!」

 途端に勝五郎と共に波に呑み込まれた。しかし勝五郎は晃の手を固く握ったまま濁流の中で離すことはなかった。ふたりは石段から波に引き摺り降ろされたが、勝五郎の片手は血塗れになりながら枝を捉えて離さなかった。濁流は引き、辛うじて二人は助かった。その様子を時世と母のセツは震えながら石段の上から凝視した目が安堵に変わって咽んだ。はたとあの言い争いをしていた親子が居なくなっていることに気付いた。一瞬の躊躇の差だった。


 津波は、生活のあらゆるものを押し上げた後、今度はそれらをごっそり浚って行く。その中に流されて行くあの親子が見えた。助けようにも鉛のように動かなくなった体はどうにもならなかった。何とか奮い立たせて石段を登り続け、やっと最後の石段に手を伸ばすと、泥だらけになった避難者たちが苔生した神社の境内に頽れていた。皆無言だった。

 権田原はいつの間にか気を失ったらしい。

「時世…時世!」

 隣に居たはずの時世も彼女の両親も居なくなっている。権田原はむっくりと立ち上がって時世の名を叫んだ。境内のそこかしこの避難者たちは灰色に沈殿したまま身じろぎひとつせず、権田原の声だけが虚しく響いた。


 権田原は跳ね起きた。汗びっしょりで息を切らして目を覚ました。慌てて窓を開けて外を見た。穏やかな晴天だった。携帯が鳴った。このタイミングで現場への呼び出しだったら嫌だなと思った。まさか今度の被害者は時世とその両親…権田原は忌々しい想像を急いで打ち消した。電話は、待ちに待った時世からの連絡だった。帰って来るという言葉を期待したが、そうではなかった。両親の暮らす実家に引き上げるという連絡だった。権田原には話したい事が沢山あったが、時世の空気はそれを許さなかった。時世は宮城県鬼隠ヶ浜市雉追平の実家に帰って行く。しかし、居場所が分かるだけまだましだと思った。

「震災後、田舎はどうなってるんだ?」

 権田原は夢のことを話したかったが、そう聞くのがやっとだった。

「大丈夫よ、復興は大分進んでいるから」

「…そうか」

「もう会えないと思うけど…体に気を付けてね。ありがとう」

 話したいことは山ほどあった。有り過ぎて何から話したらいいか迷っている間に時世は電話を切ってしまった。権田原は耳に当てた携帯電話の先に暫く時世の存在を追っていた。時世は最後に “ありがとう” と言った。“私の事情です” と置手紙をして、“ありがとう” と言って去って行った。息子の晃一にももう会えないのだろうか…これほど別れがあっけないものかと、権田原は強い脱力感に襲われた。

 かつてふたりは長い遠距離恋愛の末、時世の妊娠を機に東京で暮らすことになった。しかし、権田原の仕事は幸せな家庭生活には程遠いスケジュールの日々だった。時世は出産まで故郷で暮し、東京での結婚生活は子育てから始まったため、子どもの成長と共に夫婦の心にすれ違いが生じていたのだろうか…時世は田舎に帰り、両親に子どもを預け、復職する選択をした。時世がそれで幸せならいいのだが、置手紙の “私の事情です” が気になった。どんな事情なんだろうと詮索したところで、言える事情なら言っているはずだ。時世の意思を尊重してやるのが今の自分に出来る唯一のことだと権田原は自分に言い聞かせた。

 津波に遭うなんて、おかしな夢を見たものだ。その一方で、あの夢が現実に起きていたのなら、まだ救いがあったし、ずっとあっちの世界にいられたらと権田原は溜息をついた。


 権田原の精神力は限界に達していた。己を失い、赤いランドセルを背負った少女をつけていた。少女は女子トイレに入った。権田原は少女が鍵を掛けたトイレのドアを抉じ開けようとしている自分に驚いた。しかし、己の意志とは逆に勝手に体が動く。

「…どういうことだ !? オレは何をしているんだ !?」

 ついにドアを蹴飛ばして破壊した。恐怖に戦いて見開いた少女の目から見る見る抗議の涙が溢れ出した。

「大好きだったのに! お願い、やめて!」

 悔しさに押し潰された必死の訴えだった。しかし、権田原は獣になっていた。事が済み、荒い後悔の息が止まらなかった。

「…大好きだったのに?」

 少女の絞り出すような言葉を無視し、身だしなみを整えようと鏡の前に立って驚いた。鏡に映った顔は自分ではない。携帯電話の音が響いて鏡が割れた。権田原は跳ね起きた。現場からの呼び出しだった。

「すぐ行きます」

 権田原は力なく応えた。見てはならない卑しい夢に魘されてしまった。後味の悪さと、夢だった安堵が交錯した。


 殺人現場には鏡に映った男が首吊りの状態でぶら下がっていた。

「あれは!」

 夢に出た鏡の男だった。

「でしょう! アンバランスZのメンバーの麻生慧ですよね!」

 部下の袴田が興奮して囁いて来た。赤いランドセルを背負わされていた。再び袴田が囁いて来た。

「大の男がどうして赤いランドセルですかね? あっ、コスプレ狂 !?」

 “赤いランドセルの女の子を襲ったんだよ” とは言えなかった。

「…そんなことは、オレには分からん」

「ですよね」

 袴田はいつもの権田原の反応に満足した。袴田にとっては権田原が吐き捨てるいつもの言葉が生活必需品のようになっていた。


 権田原は引き上げる車の中で考えていた。今回の夢はいつものパターンと違っていた。まるで自分が犯人としての体験だった。少女をレイプすることしか考えない頭と、その行動を傍観してやめさせようともしない二人の自分がいた。どうしてあんな夢を見るようになったのか…権田原は混乱していた。そして夢の舞台は決まって鬼隠ヶ浜市。今まで夢で見た被害者たちは何れも鬼隠ヶ浜市に何らかの関わりのある人間のようだ。しかし、アンバランスの麻生慧は鬼隠ヶ浜市とはどういう関係があるのだろう。

 妻とその両親の夢も見たが、彼らは被害者にはなっていない。いや、これからなるのだろうか…だとすれば、一刻も早く現地に赴いて警告しなければならない。警告? …何を根拠に警告するのか。夢見が悪かったという話で妻の実家に足を踏み入れられるはずもない。復縁を迫りに来たと思われるのが落ちである。そんなことで妻を困らせたくはない。しかし、このまま悶々としているしかないのだろうか…

「権田原さん…どうかしたんですか、難しい顔をして」

 運転する袴田は、いつになく深刻に苦虫を噛むバックミラーの権田原を気遣った。

「難しい顔?」

「ええ、この頃ずっと…」

「こういう顔だ」

「自分で良ければ何でも話してください。役には立たないかもしれませんが」

「話すことなんてない」

「ご家族の皆さん、お元気ですか?」

「…そんなことは、オレには分からん」

 袴田には意外な言葉だった。家族の事を聞くと、いつも嬉しそうに応えてくれていた。しかし、権田原は家族のことを話さなくなった。袴田はこのところの忙しさの所為かと思うしかなかった。

「ですよね」

 袴田は反射的にそう答えたが、“ですよね…か !? ” と自分に問い返した。


 権田原は非番だったが、夢で魘されている最中、携帯電話が鳴る予感に襲われた。これは夢だと気が付き、呼び出し音が鳴る前に目覚めればいつもの可笑しなことは起こらないかもしれないと、強引に己を起こそうともがいた。

「…勝った」

 夢の最中に強引に目を覚ますことは至難の技だったが、激しい動悸と共に目を見開くことが出来た権田原は、特に意味もなく勝利感を味わった。仇でも睨むように携帯に目をやった。

「 “あいつ” は絶対鳴るな」

 そして “あいつ” は鳴った。今回、権田原の夢に出て来た被害者は老婆とその息子らしい男だった。


 身元はすぐに判明した。親子ではなかった。老婆は米田登美(80歳)。彼女のアパートで虫の息だったのが木本慶介(55歳)。かつて鬼隠ヶ浜市雉追平役場の職員だった木本は、病院のベッドで、震災後の避難所で焼身自殺した武藤織江という女の件で米田登美に強請られていたことを告げて息絶えた。登美は今までの自分を懺悔し、お互いの決別の最後に、つらかった避難所生活を思い出して懐かしもうと木本を油断させ、避難所で配られる想い出のおにぎりとお茶のペットボトルを用意して木本に懐かしさを振る舞った。木本は登美の強請りからやっと解放されると安堵し、登美に促されるままに応じた。

 登美の夫は震災前は小さなメッキ工場を経営していた。全てを失った瓦礫の中には小さな瓶が残っていた。夫との思い出はその瓶一つだった。二人暮らしだった夫を失った孤独感で、一時はその瓶の毒をあおって死のうとまで思ったこともある。登美はその瓶の毒を鮭のおにぎりに盛って木本に食べさせたのである。登美は知っていた。木本には常に命を狙われていたことを。木本は苦しさに悶絶しながら登美の首を絞めたが、そこで力尽きて危篤状態になり病院に運ばれた。

「あんたが殺そうとするから…」

 夫が残してくれた瓶に救われたと満足した登美だったが、その場で脳溢血の発作を起こし、瀕死の木本の前で先に命を落とす結果になってしまった。

木本の死に際の供述から、鬼隠ヶ浜市の雉追平にある避難所以来の顔見知りであり、この二人に関しては一連の連続殺人犯による犯行ではないと判断された。登美と木本の死は例外と考えても、これまでの一連の事件はひとりの凶行とは考え難く、警察は鬼隠ヶ浜市の避難所に於ける大震災に関わる組織的な報復として捜査は継続された。


 署に帰った権田原は吐き捨てた。

「いつ終わるんだ…」

 今日は終始無言だった権田原に、いつもの会話のキャッチボールが出来なかった袴田は “やっと来た!” と思った。

「いつ終わるんですかね?」

「…そんなことは、オレには分からん」

「ですよね!」

 ふたりのルーティン会話が空しく響いたが、満足したのは袴田ひとりだった。


 帰宅した権田原は、赤いランドセルを背負って息絶えていたアンバランスZのメンバーの麻生慧のことを考えていた。もしかして彼も鬼隠ヶ浜市雉追平の避難所と何か関係があるのだろうか…あそこが避難所だとすると、彼もまた一連の連続殺人犯による犠牲者という事になる。彼もまた一連の連続殺人犯による犠牲者という事になる。

 ネットで検索するとすぐに分かった。麻生慧が雉追平の避難所に行ったという記事を見付けた。避難所で豪華な炊き出しをして被災者は大喜びしたという記事である。しかし、権田原は忌々しい出来事のあとの鏡に映った麻生慧の姿を夢で見た。あのことが麻生慧の凶行として、あの場所で実際に起こったとすれば、赤いランドセルはあの事件のシンボルとなる。そして、その忌々しい行為への報復として、あのような姿で彼は殺される必要があったのだろう…とすれば、それ以前の連続殺人同様、雉追平の避難所での恨みに対するそれ相応の報復という事になる。

 権田原は体と脳の働きが反比例する時には決まってベッド脇のバーボンをゴクリゴクリとあおるようになっていた。すると数分で脳に使用禁止の強制終了がやって来る。心地好い眠りへの道すがら権田原は呟いた。“…そんなことは、オレには分からん” と。


〈第2話「大震災」につづく〉

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