2020 共犯者



  ああ いとしくおもふものが

  そのままどこへいってしまったかわからないことから

  ほんたうのさいはひはひとびとにくる……


 口を噤んださよならは、本当の思いやりだ。特に、昇華し得ない咎を負わされた者にとっては。

 犯人を裁くにあたって、動機は肝心な要素だ。既に犯された事件の結果は変えられないけれど、何故そんな事件を犯したのかを知ることで多角的な視点を据えられる。それによって、犯人には大なり小なり恩赦がかけられたりするものだ。

 ゴリアテには短絡的な思考による稚拙な犯行が似合った。証言台に立って俯くゴリアテの姿は、入学式会場で見つけたあの灯台を彷彿とさせた。時折り、傍聴席にわたしを描いた。誰に恩情をかけられるでもなく孤立しているゴリアテに、わたしだけが眼差しを注いでいた。


     ***


 ゴリアテはいつものように証言台に立って、不満そうに口を噤むばかりだ。この事件の動機はわたしたち以外の人間には決して伝わらない。ゴリアテは今度こそ本当に孤立するのだ。わたしは傍聴席にいない。

 わたしたちは言わば、この事件の共犯者なのだ。そして実際に殺意を現象化させたゴリアテだけが捕まった。わたしはゴリアテの謎めいた思惑に甘んじて、独り、穢れ無い人生を生きるべきなのだ。


 わたしは今でも、囚われ続けている。

 否が応でも目につく腕の傷。わたしは、今でも……。


     ***


 七月。わたしは周囲の暑さにたぎっていた。五月中の廊下の一件を例にして、徐々に露わになりだしていたその兆しは夏の暑さと共に顕著になっていった。

 やがて、幼少の頃からの十八番おはこである自制と怯懦きょうだがバテた。もしくは、わたしの本性を抑えることが億劫になったのだ。わたしはわたしからしても呆れるくらいに熱く、荒々しく滾っていた。

 本来なら、もう一周二週とまたげば東京オリンピックが開催される時期だった。他はどうだか知らないけれど、わたしの箱庭における生気は最早腐敗していた。空気は物々しくひずんでいたし、温度感がまるで失せていた。わたしたちはそんなアパシー然とした空気をマスクの内側でリユースしていた。息苦しかった。

 しかし、かつては病人の象徴、近年ではシャイなティーンエイジャーの象徴にもなりつつあったこのアイテムは、いつしかまともな現代人の象徴になっていた。マスクは外へ出て行くために必須の免罪符だった。愛想笑いする必要も次第に失せていき、わたしたちは外と接続する機会を取り零した。そんな状態は身軽でもあるとも、地に足がつかないとも形容することができた。

 その内、わたしたちは誰かの顔を思い出せなくなった。世の中が混沌を極めれば極めるほど、わたしたちはどこか夢心地に腑抜けていた。やはり、麻酔にかかっていたのだ。

 当たり前に享受して然るべきだった催しやそこに纏わる経験の欠乏がもたらした被害は、今もう既に甚大だけれども、今後はもっと、幾つもの川の流れが合流して一つの滝になるみたいに、とことんまで落ちて落ちて落ちていくのだろう。わたしたちはそういう共通認識によってのみ精神的な繋がりを得ていた。わたしたちは草舟なのだ。

 リアルで声を出すことが許されなくなったので、……飛沫的な意味でも、同調圧力的な意味でも、許されなくなったので、わたしの狭い世界を見渡してみる限りだと、学生どもの間では日陰のお祭りが大隆盛した。所謂ゴシップだ。

 人生ノリにノってる奴の足をみんなで取り合う。足を取られた後の転げ方が悲惨であればあるほど、してやったり感も大きいようだった。学生どもはその場限りの全能感を分かち合った。それは、あくまで部外者側からの感想ではあるけれど、部活の大会で良い成績を取った時の状況とさして変わりなくみえた。

 傷つく人が出るとか、不健康だとか、先日の学年集会でうざめの大人代表みたいな熱血教師が憤慨していた。だけど、勝負事には敗者が付き物だろう。真面目にやっていれば傷心は免れないし、不健康なんて今更も今更、わたしたちはとっくに神経症だった。

 大切だったね、と大人たちは口々に囁き合う。あれは大切なものだったんだね、失ってから気づくね。そのくせ、新たに台頭してきた価値観には忌避的な姿勢をみせる。わたしには一層、大人という生き物が愚かに思えてならなかった。

 欠けている時にようやくそのものの大切さに気づき、いつまでもその蜃気楼を眺める。そして、自分の欠陥を補完しうる価値観を目の前で見送る。欠乏の比べ合いっこをして、不幸のマウントを取り合って、愚痴の発言権を獲得する。やがてそれがなんの実も結ばないことが分かると、周囲に怨嗟を募らせる。あくまで頑迷に蜃気楼を眺める。価値観を見送る。

 その点、学生どものほうがまだマシなのだ。悪趣味であると言えばそうなのかもしれないけれど、学生生活を彩る催しの数々、そこに纏わる経験、得難い高揚感……世界から理不尽に奪われたぶんを取り返すために、学生どもはインターネットというプラットフォームで新しい趣向のお祭り会場を開拓したのだ。わたしも何度か仮想空間上の名前で観覧したことがあるけれど、そこはさながらコロッセオのようだった。

 本日の標的と、くだんの人を追い詰めるべく招待された戦士たち。手持ちのネタが強力であればあるほど観客は期待に騒めき立ち、標的が傷を負っていく様をくすくすと笑い、とうとうノックアウトされれば大歓声を上げる。オフィシャルなメディアが事件を取り上げるタイミングはいっつも一足遅れていた。時代の流れにいまいち乗り切れていない大人たちのコメントは学生どもの養分にされた。例の、卑屈で不健康な全能感の。

 AI産業だのソーシャルディスタンスだの人件費削減だの、社会運営における接客業の比重が軽くなっていった。かく言うわたしの母も接客業従事者の一人であり、愚かな大人の一人であった。

 家庭こと母の王国は愚痴と怨嗟と忌避と嫌悪とで噎せ返るようだった。食卓につけば変わり映えのしない悲報がテレビ画面に放映された。それと並行して、母と父の口からは愚にもつかない文句が飛び出してきた。マスクをつけていなくとも、息苦しいことは同じだった。

 常にアンチテーゼな生き方を体現することで自由の獲得を試みてきたわたしだったけれど、今回ばかりは、母が最も嫌厭する、即ち恰好の熱中ポイントである日陰のお祭りにいまいちピンとこれなかった。ボス猿一派がウイルスの蔓延にめげてさっさと悪意の拠点をそっちに移してしまったせいだ。

 夢と現実、そして、現実と仮想……現実がより多くの制約を要求すればするほど、現実の比重が蔑ろにされていった。どうせ破綻しかかっているのならせめて今くらいは遊んでしまおうと、みんな各々の領分に没頭した。

 わたしはわたしのやりたいようにやることをしてこなかった。わたしの人生は呪縛ありきであり、そこからどのように抜け出すかをひたすらに苦心していた。

 しかし、高校進学に関する家族会議でまんまと挫けてしまった結果、母の要望通りの自称進学校に進学することとなってしまった。あの時、わたしはわたしの人生を裏切ったのだ。

 母にはもう敵わない。それなら、今度は周りの学生どもに反抗し続けようとした。わたしは人畜無害なお利口さんを装いながら、頭の中では有害無益な反社会的人格者でいた。達観した思考を誰にも表明しないことは、わたしをニヒルでクールな有識者足らしめた。

 だけど、予期せぬ事件が世界中で勃発した。人と人との距離は離れ、じきにわたしみたいな人間が増えてきた。

 学生生活を彩る催しでハイになるはずだった学生どもは均一に意気消沈していた。ニヒリスト由来の退廃的な思考と物憂い姿勢は、さして稀なものでもなくなった。

 わたしはそれまで、孤独であることを特別であることにすり替えてきた。人は一人では生きていけないなんて、いたずらに群れることでしか人生を楽しめない烏合の衆がのたまっているだけのことだ。だって、わたしはずっと独りで生きてきた。みんなには理解し難いことを至上の命題にできたし、みんなには受け入れ難い趣味を人生のよすがにできた。わたしは特別だ。だから、孤独も甘んじた。

 みんなが均一に不幸になった。わたしが先に不幸だったのに。みんなはわたしに少しの敬意も払わないで、不幸のコミュニティを形成してしまった。

 なんだというのだ。わたしはただの孤独な女の子か。そんなことない。そんなことないのに、何故みんなは気づかない?

 わたしはいつしか、不理解と分断の王国に君臨する孤独な女王になっていた。

 ──連れてって。ゴリアテ。お願いだ。

 ゴリアテはこんな異常な時代においてもなお異質だった。所詮は凡庸だったわたしとは違っていた。ゴリアテは聖なる異端児だった。相変わらず、世を呪う者特有の暗澹あんたんたる陰りの立ち込めた眼を伏せがちにして、滑稽な机の前で置物のようにじっとしていた。

 あばらをたたむように背を折り曲げている姿は遠目から見ると白い霊峰のようだった。ここらの地域では大体何処からでも富士山を拝めた。三百年近く鳴りを潜めている活火山。活断層プレートから伝播してくる振動が蓄積していき、いつかは轟音と共に大噴火するのだ。

 ゴリアテはまだ死んでいない。その巨体の内側にはマグマの如く熱い血が巡っていた。口を噤んでいるのは黒い煙を昇らせないためだ。ゴリアテは殺意を現象化させる機会を窺っているのだ。そして、今が絶好のタイミングだった。

 わたしがわたしのしてきたことに──反対の反対は表だとは言うけれど、わたしは母親を反面教師にしてきたあまり、自分で自分を幽閉する王国を構築していた──そのことに気づいた。愚かで、弱くて、強がりで、特別でもなんでもない、ただの孤独な女の子。聖なる異端児に連れられて、人知れず破滅したいのだ。今すぐに。


「おれはただ、神々と肩を並べる方法はただ一つ、神々と同じく残酷になることだと悟ったのさ」


 七月に入ってすぐのこと。学生たちが主張する学生の本分が無残にも千切り取られた後では最早モチベーションもだだ下がりの、学期毎に累積してきた勉学の総決算である期末テストが一週間後に待ち構えていた。例の〝それはそれこれはこれ〟というやつだ。大人という生き物の都合はかくも強引である。期間は、七月九日から七月十三日までの五日間。

 計画性の無い教師などは担当教科の範囲をざっくばらんに終わらせた。反対に、計画性のある教師などは履修済の範囲をおさらいし始めた。そしてそもそも計画に基づいてではなく己の知的好奇心に基づいて授業を行っている教師などは、テストを念頭に置くこともせずに教えたいことを教えていた。

 国語の授業は任意自習という曖昧な形式で進行された。曰く、「僕も教鞭は取るけれどそれを受けるもあしらうも自由」とのことだ。

 僅かな隙にもつけ入られる排他的な教室で生き抜いてきた歴戦の戦士たちは、いっそ過敏と形容してもいいくらい読み合いに長けていた。そのせいで、普段から何を考えているのかよく分からない老齢の国語教師が云う「聞き流してていいよ」が関心意欲態度5のふるいなのか否かをひるがえって計りかねていた。そんな時に決まって〝前にならっとけ〟の対象にされるのはわたしのような優等生なのだ。

 余裕綽々よゆうしゃくしゃくと豪語できる程ではないけれど一週間後のテストに今から対抗措置を取るほどの愚か者でもないわたしは『カリギュラ』についての講釈に集中することにした。どこからか空気に切れ目を入れるような舌打ちが聞こえた。或いは気のせいかもしれないけれど。

 戯曲好きの国語教師が取り上げた題材が『カリギュラ』じゃなかったら、わたしもそこまで集中しなかっただろう。

 アルベール・カミュの作品は『異邦人』だけ読んだことがある。母親が死んでも悲しむ素振りをみせない主人公ムルソー。情状酌量の余地があるように思われる殺人の動機も──確か、相手が先にナイフか何かをちらつかせたのだ。とは言っても、倒れた相手に何発も任侠映画のヤクザみたいな追い撃ちをかけていたとは記憶している──それでも少しは刑罰の軽減の望みがある殺人の動機を「太陽が眩しかったから」とのたまい、母親の葬式が終わってもなお悲しむ素振りをみせずにいたムルソーはそのせいで異端者の烙印を押されてしまい、とうとう死刑宣告を受ける。

 当時、受験期で気が立っていたわたしは気まぐれに『異邦人』を手に取って、気の毒な男だな、という安直な感想を抱いたのだ。加えて、浜辺の描写が他のどの小説よりも鮮烈だと感じた。

 カミュが人生の命題にしていた通り、『異邦人』も不条理をテーマに綴られていた。そして、老齢の国語教師が白熱しながら脱線していることからも分かるように『異邦人』の文学的価値はそこに重点を置かれていた。だけど当時のわたしからしたら、その不条理は詠嘆するほどの代物ではなかった。情報の媒体が革新的な進化を遂げている現代社会、不条理は至る所に浮上していたのだ。

 わたしも脱線していて、たったいま強引に戻るけれど──『カリギュラ』のテーマは、やはり不条理、そして不条理によって誕生する〝暴君〟なのだという。なんとわたしの需要に応えた言葉だろう。わたしが真っ先に思い浮かべたのは勿論ゴリアテのことだった。

 野蛮なる魂。あちこちに亀裂の入った危ういたが……暴君を形成する様々な要素は、わたしには無い物ばかりだった。頑強な体躯も、鬱蒼とした威圧感も、低い声を構成する喉仏も、人を見下すべく与えられたような背丈も、わたしには無かった。有ったらやれるのに。無いからやれないのだ。そのせいで現状に滞留しているわたしの立場になってみれば、暴君の暴君足る要素を全て兼ね備えているゴリアテに望むことは至極妥当に思えてくるはずだ。

 時に、わたしは運命の音を聴くことがある。もちろん比喩だけれど、わたしは壁までの距離が曖昧にしか計れないほど広大な塔の中にいる。心象にピントを合わせてみれば、そこは恐らく機械仕掛けの時計塔だ。

 星が熱くなりすぎるとかえって青白く光りだすみたいに、大小無数の歯車から発される音が互いを相殺しているのだろう。その空間は薄氷うすらいのような静寂で張り詰めている。緻密な均衡のうえに成り立っている静寂を乱すことはどうにもはばかられるので、わたしは足音も立てずにじっと立ち竦んでいる。

 そんな時に決まって、運命の音は生じるのだ。キン、と。忍耐で凝り固まったわたしの身体に、小さな傷をつけるみたいに。広大な時計塔のどこかから、大事な部品を一つ落としたような。

 運命の、音がした。

 

〈いや、カリギュラは死んではいない。彼はここにも、あそこにもいる。カリギュラはきみたちひとりひとりのなかにいる。もしきみに権力が与えられ、もしきみに心があり、もしきみが人生を愛しているなら、きみは、彼、すなわちきみがきみ自身のなかに持ち運んでいるこの怪物あるいはこの天使が荒れ狂うのを、見ることになるだろう。〉


 わたしは手元に敷かれた『カリギュラ』の冊子から目を離すことができなくなった。


「……アルベールカミュは幕が下りた後に再びカリギュラを登場させようとしていたのですが、結果的に、カリギュラのこの台詞と、観客に対して語りかける場面は破棄されました。言うなればこれは草稿の部分ですね。ええ。しかし、僕があえてこの部分を取り上げたのには訳があります。つまりですね、アルベールカミュが不条理と人間との関係性をどのように捉えていたのかを紐解くためのヒントがここに……」


・ 不条理

〈不条理とは、自己の限界を確認している明晰な理性のことだ。〉

〈不条理な人間にとっては、世界のいっさいの相貌はそれぞれに特権的だというこの純粋に心理的な見解には、真実があり同時にまた苦しみがあった。すべてがそれぞれに特権的だということは、結局、すべては等価であるというのに等しい。〉


・ 暴君

「おれはただ、神々と肩を並べる方法はただ一つ、神々と同じく残酷になることだと悟ったのさ」

「いったい、暴君とはなんだ?」

「物事が見えなくなった魂です」


 わたしはわたしにしんから気の毒だと思わせる、非常に稀有な創作上の人物を生み出した男、アルベールカミュの至上の命題にざっと目を通した。

 ゴリアテはこれを読んだだろうか。読んだとして、理解できるだろうか。これは自分の紹介文であると。もしも頭で理解できなくとも、心で感じられるはずだ。わたしだって、それが何処から落ちてきたのかは分からなくとも、それによって生じる運命の音は聴けるのだ。

 怪物と天使という正反対の事物が並列に語られているところが気にかかったけれど、それよりも、この一文──いや、カリギュラは死んではいない。

 教師は続ける。

「不条理が暴君を生むんですね。カリギュラは妹の死、即ち不条理に相対して、暴君と化したわけですね。不貞、圧政、殺人……もう、滅茶苦茶したわけですね。挙句の果てには月を手に入れるとかいってね。ヘヘ。それくらい、起こったことがショックだったんですね」

「先生」

 やんわりとたわんだ糸のような視線が一斉にわたしを取り巻いた。キュッと締め上げられる未来を想像しただけで声も出せなくなってしまうので、わたしは逡巡する間もないままに表明した。

「〈不条理な人間にとっては、世界のいっさいの相貌はそれぞれに特権的だというこの純粋に心理的な見解には、真実があり同時にまた苦しみがあった。すべてがそれぞれに特権的だということは、結局、すべては等価であるというのに等しい。〉……先生が不条理の方に分類されたこの部分は、いまの時代にもフィットしていますね」

「おお。と言うと?」

 わたしは物珍しいものでも見るような目を堪えつつ、言った。

「自己の限界を確認している明晰な理性のことを不条理だというのなら、わたしたちは不条理な人間ですよね。世界中がコロナウイルスに苦しめられて、それは当然、わたしたちもそうで、わたしたちは現状の回復をどこか諦めがちでいます。

 それに、コロナウイルスが蔓延したせいで、色んな苦しみが特別じゃなくなりました。わたしたちは個人であり、それ故に特権的ですが、だからこそ、どんな苦しみも並列に語られています。それは、カミュの遺したこの部分にとても近しいんじゃないかと、思ったんです」

 わたしは語気を萎ませた。人間は思っていることの四割も言葉にできないとはどこかで見聞したことだけれど、それとこれとは別の問題であるような気がする。頭の中で思考を巡らせる分には口達者なのに、人に伝えようとした途端にこれだ。まるで脳みその中にあった言葉が声帯に辿り着くまでの道程で死に体も同然になってしまったようだった。

 老齢の国語教師はしかし、生徒間のそれを含めた学校の規範を基軸に置いている他の教師たちとは違っていた。

 一週間後の期末テストとは微塵も接点が無い『カリギュラ』を教鞭の題材にしたいがために任意自習をセッティングしたくらいだ。むしろ、テストの成績は振るうもののなにぶん授業毎の意欲に欠ける生徒が珍しく熱いレスポンスをしてきたことに、肉体が衰えてもなお衰えない知的好奇心を触発されたようだった。

「そうですね。カリギュラも、妹の死、即ち、自分にとっては衝撃的な出来事も他の些末な出来事と並列で語られることを悟り、苦しんでいたわけですね。それに加えて、自分が悲しんでいても時は流れてしまう。そんな時間の不条理にも苦しんでいたわけですね。どれだけ抗おうとも、永続する感情なんてない。カリギュラはそのことを悟り、自分の感情を攫う不条理そのものに抗おうとしたわけですね。

 今の時代に暴君になったら、その人は犯罪者ですからね。下手したら絞首刑ですからね。ヘヘ。でもね、やっぱりね、カリギュラはたくさん出てきてますね。物事が見えなくなった魂がね。そういう人間が人間を傷つけるんですよ。ニュースでよく見かけるでしょう。そういう人間はね、まず自分の心を見つめ直すことが大事ですよ。カリギュラが最後に──」

「わたしは、やっちゃえばいいと思う」

 首元に糸が触れた。わたしはゴリアテの視線だけを感じ取るように、ぐっと目を伏せた。

「もう、不条理にも飽き飽きでしょう」

 そんなこんなで、わたしはその日の内に保護者を召喚され、普段大人しくしてる少年少女が実際には一番黒いんだなんて下らない俗説に蹂躙され、不条理の傷を負いながらも外面はニタニタと笑んでいた。

 わたしはやはり、一種の特別さを備えているようだ。長年の孤独に育まれた負の感受性を。みんなが日陰のお祭りで神のような全能感を分かち合っている中、わたしは神と肩を並べる方法を悟ったのだ。


 それから期末テストまでの一週間、わたしはゴリアテの法廷画を大っぴらに描いた。人目に触れる可能性を少しでも孕んでいる環境では絶対にノートを広げないようにしようと心掛けていた時間を取り返そうとするかの如く、一時限目が始まるまで、授業の合間、放課後……後ろ暗いゴシップ専門のアンテナが乱雑に建っている教室の中で、わたしは構わずにゴリアテの法廷画を描き続けた。

 言わば、そこはわたしの安地であった。わたしが唯一心のままに過ごしてもいい空間。頭の中にこびりついた現状への不満や鬱屈感を引っぺがし、黒い芯と共に愉悦へと擦り減らせ、ノートの上にマイ・ヒーローとして再構築する。

 この世の不条理を屠った後でなお動機を黙秘する暴君の姿を、わたしは外界に晒した。どうしてそんなことをしたのだろう。半ば夢心地だったのだ。言い訳にしかならないけれど、夏の暑さのせいなのだ。世の中のせいなのだ。全能感のせいなのだ。カリギュラのせいなのだ。母親のせいなのだ。不条理の傷のせいなのだ。わたしの弱さのせいなのだ。きっと。


     ***


 空気が湿っていて、しかも血生臭い。目の前では怪物が荒れ狂っている。頭を搔き毟りながら時折り肩を揺らす姿が傷にのたうち回っているように映るのは、その巨体にこびりついた血のせいだ。

 ゴリアテはきっと無傷だろう。なぜならその血は返り血で、傷ついているのは床に倒れ伏せている男子生徒と……手を震わせながら、口の中を乾かしながら、心臓を痛いくらいに弾ませている、共犯者、だった。


 わたしは、今でも……


     ***


 七月九日は、わたしが運命の音の発生源であるそれを歯車に嵌め込んだ日、言うなれば伏線の回収日だ。

 機械仕掛けの時計塔で駆動する歯車のそれぞれには、わたしが手に取ったそれを嵌め込めるくらいの窪みがあった。ほんの僅かなズレが生じただけで時計塔全体の稼働に変化が現れるのだろうということは、密接に連結し合っている歯車を見上げるだけで理解できた。それでもわたしはそれを捨て置くことはせずに、うろうろと、盛大な崩壊の様を想像しながら窪みを探った。

 そして、わたしは不意に、わたしの人生を変えた。


 一瞬だけが鮮烈だと、それ以外の情景が霞むのだ。カミュの『異邦人』を初めとして、どこか凄惨なまでの輝きを描写する浜辺のシーン、カムパネルラの車窓の横顔、川べりに突っ立つ白い麻服の男……幾千幾万の文章が綴られていても、最終的に読者の心に残るのはせいぜい二三行の文章くらいだ。そしてそれは何も本だけじゃない。映画もそうだ。六十分や九十分そこらの映画を鑑賞したところで、心までに焼きつくのはせいぜい五分か十分の映像か、もしかしたらそれ以下かも分からない。そもそも人生がそうなのだ。死の間際に走馬灯が走るとは言うけれど、何もそれまでの人生が映し出される訳はない。人間にとって、世界はあらかじめ凝縮されるものとして発現する。

 七月九日のその日も、実際問題、わたしはほとんどのことを記憶していない。ああなるまでに至った直近の経緯を辿ろうとしても、フラッシュバックが焼き尽くすのだ。

 でも、あの瞬間、ゴリアテは……暗い暗い穴のような眼の中で泣きべそをかいていたわたしと同じくらい、或いはそれ以上に絶望していた。かもしれない。

 手が触れたのだ。わたしの肩に。

 クーラーから送られる冷風を閉じ込めるために、期末テストの静寂の余韻が揺蕩う教室は閉ざされていた。わたしは手元の問題冊子に目を落としながら、いまいち自信の持てなかった解答について逡巡していた。

 ページの角を無為に擦り、頬にかかる髪を払う。

「石田さん、ちょっといい?」

「……ん?」

「ここ、分かんなくてさ。俺あってると思うんだけど、どう?」

「ああ、そこね。わたしも難しかった」

「あ」

 ボス猿がやけに馴れ馴れしく話しかけてきたと思ったら、今度は魚のように目を丸くした。わたしは唐突に悪寒を感じた。クーラーがなお効きすぎていたせいなのか、度肝を抜かれたような表情が不気味だったのか、自分のしてしまったことを察したからなのか……わたしにはその時、辺りを見回す余裕も無かった。ただ、人気が感じられなかったのでひとまずは安心していた、とかもなかった。

 母の王国に生まれて以来ずっと心のどこかでわたしを正気にさせていたなにかが、わたしを狂気に陥らせたなにかに加担していた。まるでヒスを起こした天使が悪魔にほだされてしまったように、その力はより底が知れなくて、無垢で、邪悪だった。

 わたしが頁をめくった別の問題冊子には、マイ・ヒーローの法廷画がでかでかと描かれていた。

「これ、石田さんが描いたの? すげえ。美術部とかだったっけ」

「ううん」

「そういや、最近やけに勉強してるなって思ってた。いや、石田総務は元からガリ勉だけどさ。授業中とかもずっとノート取ってるから、すげーと思ってて。はは、絵描いてたわけね」

「気づかなかった?」

「気づかないよ。他にもあんの? もっと見せてよ。やばいよ、これ。事件が起きた時に流れるやつでしょ?」

「やばいかな」

 言いながら、わたしは法廷画用のノートを取り出した。机のフックにかけたスクールバックが揺れる。わたしの考えていることが、他者に知られる。叫び出したいくらいに悲しかった。

「将来、こういう人になりたいの?」

「え?」

「いやいや、描かれる側じゃなくて」

「ああ……あの、それ誰か分かる?」

「ゴリアテってのは知らないけど、めっちゃ安藤に似てる。うわー、マジでこうなりそー……ていうか石田さんさ、どうしたの?」

「え?」

「ちょっと前にも過激発言してたじゃん」

「どうもしてないよ。わたしは元からこうだったよ」

「ああ、へえ。でもさ、けっこうえげつないことするんだね」

「え?」

「いやいや、別に、あれだけどさ。……うわー、でも俺、こういうのは分かんないわ」

「わかんない?」

「ちょっと、こわいっす」

「そっか。うん…………でもさ、みんな」

「あ、いって。え!? あ、いってえ」

 法廷画用のノートが机に当たって、コン、と音を立てた。人がするりとくずおれた。わたしは困惑の声を漏らす前に、ワイシャツの赤い滲みを目にした。生理か? と思って、そういえばこいつ男だ、と思い直した。もう既に自明なことを脳が必死に拒絶していた。

 わたしはその名を口にしたのかどうかさえ分からない。ただ、ゴリアテは哀しい顔をした。誰もが見捨てるほどにみすぼらしい犬のような眼差しを、椅子から退いたわたしに注いだ。

 視線は一方的に向けるものだ。わたしはそれまで、そういう価値観に則ってゴリアテの観察を続けていた。だけどもそういえば、ゴリアテにとっての視線はどんなものかを逡巡してみたことは一度として無かった。どうでもよかったし、当たり前のことだからだ。

 聖なる異端児であるゴリアテにとって、視線は常に一方的で然るべきだった。机に突っ伏していたり、首を怠そうに傾がせていたり、前髪を垂直に梳いていたり……レンズの直視をタブー視しすぎて大根役者の領域からいつまで経っても脱却できない似非俳優のような観察対象に、わたしはいったい幾度やきもきさせられたか知れない。

 侮蔑も、嫌悪も、嘲笑も、丸ごと全部を綯い交ぜにして、戯れに人の心を締め上げるもの。視線。人畜無害なお利口さんであれば免れられる視線を、ゴリアテはいつも浴びていた。

 その時、わたしたちは初めて目が合った。いや、入学式会場の檀上で、わたしは灯台を見つけたのだ。新入生代表の挨拶という名目の敗北宣言を述べ終わった瞬間、わたしは人生の指標を喪失しかけた。黒い頭が海のように揺れる箱庭を滞留する、性根の腐ったデクノボーになりかけた。 

 そんなときにあなたは落雷のようにわたしを打った。焼け木杭ぼっくいに火がついたとは言うけれど、わたしがとうの昔に諦めたはずのそれを、あなたはもはや無視できないほど熱く、轟轟と燃やした。

 その殺意に恋をした。

 わたしには最早その早鐘のような鼓動が恐怖からくるものなのか恋情からくるものなのか計りかねた。ただ一つ言えることは、胸が痛んだ。

 手には、赤いナイフ。

 どう捉えても夏の静謐な教室にはそぐわない殺伐とした雰囲気を纏う犯人が迫ってきていた。被害者の手に握られているノートからそのまま飛び出してきたかのような姿に、わたしはまだ現実感を欠落させていた。

 不意に、ゴリアテが微笑んだ。たぶん微笑んだのだと思う。目元だけだけれど、思いがけず表象してしまった感情を取り繕うような、下品でいやしいまなじりだった。 

 ──なんでそんなの持ってるんだよ。ていうかいつからいたんだよ。他に誰かいないのかよ。言いたいことは山ほどあるのに何一つ出てこなかった。ゴリアテはまるで自分のしてしまったことでわたしに取り縋っているかのように、やるせない浮浪者然とした足取りで迫ってきた。

 ピィン! と、一弦を弾いたかのような耳鳴りがした。うるさいなあと思って無視しようとすればするほど、より多くの意識が音に占領された。なんだかずっと奥の方でノイズがかかっていた。それがわたしの荒い息だと気づくには、一度、わたしの息が途切れる必要があった。

 猛然と振り下ろされたナイフが、わたしの右腕を切り裂いた。

 目には涙が滲み、切創から血が滴り、肺が痛みに痙攣した。

「ふざけんなよ、しね」

 わたしはくだらない戯言を深い溜息と一緒に吐いた。ゴリアテは激昂して、小さく後退するわたしを一押しで壁へと突き飛ばした。毛細血管から滲む熱い血がじんじんと背面に駆け巡った。

「お前が死ね、殺すぞ」

 わたしは悔しさに口を噤んだ。せめて、精いっぱい顔を見上げた。どうしたらいいのか分からなかった。どうしたら伝えられるのか、なにを伝えたいのか、わたしは丸ごと全部を綯い交ぜにした視線をゴリアテの眼に突き刺した。

 ──察せよ。

 だけど、そんなことは到底無理な話だった。わたしのヒーローのヒーロー足る所以は、何といっても空気が読めないところだ。

 わたしは手のひらで壁を無為に探った。廊下に反響する音の残滓が振動として伝わってきた。たまに見つけた綻びに爪を立てると、ただいたずらに掻き毟った。血の斑模様のワイシャツが眼前まで迫ってくると、もうナイフに注意を向けることすらも無駄であると悟った。

 いつでも殺せる状況だった。もう一人の被害者は無音で床にのびていた。死んだのか。痛くないか。死んだら、この痛みも失せるだろうか。

 わたしは右腕を抱えて、思った。

 ここは地獄だ。

 何一つ、伝えたいことが伝わらなかった。被害者の手に握られたノートの頁が、ぱらぱら……と音を立てた。

 見上げれば、こんもりと隆起する喉仏が震えていた。わたしの逃げ道は頑強な体躯によって塞がれていた。あちこちに亀裂の入った危ういたががついぞ崩壊したのだ。野蛮なる魂が荒れ狂って、ナイフを真っさらなお腹にうずめていく……と思ったら、ゴリアテは何も持っていない方の手のひらで肩をはたいてきた。

 そうして、おもむろに両目を覆い隠すと、わたしの許を、そっと離れた。


〈この怪物あるいはこの天使が荒れ狂うのを、見ることになるだろう。〉


 わたしはその時の光景を忘れない。

 窓から差し込んでくる淡い光が、ゴリアテの輪郭を融かした。瞼にのる水滴に封じられた光と同じ光が、ゴリアテの殺意を天界の光のように解き放った。

 教室中の虚飾が噛み千切られていった。見る見るうちに暴かれていく様が涙を呑むほどに爽快だった。

 やがて、虚飾がほふられた後の教室には、血と涙と、生きているわたしたちしかいなくなった。

 ゴリアテはそこで、祈るように踊った。

 地団駄さながらのステップを踏んで、傷を庇うように上半身を搔き抱いて、よろよろと力無くくずおれて、何度も何度も両耳をぶって、手のひらを明るい床につくと、心臓の鼓動に押し上げられるように立ち上がって、すんっ、すんっ、というビートを発散しながら、聞く人によってはただ耳障りなだけの呻り声を響かせた。

 世界で一番みっともなかった。そして、わたしの胸ぐらを掴んでくるような痛切な何かがそこにはあった。こんなに美しいものも、価値観の垢にくすんだ虚飾にかかればたちまち一笑に付されてしまう。しかし、もう、ここでは誰も笑わない。


〈もしきみに権力が与えられ、もしきみに心があり、もしきみが人生を愛しているなら〉


 わたしは嗚咽を一つ漏らした。


「おれはただ、神々と肩を並べる方法はただ一つ、神々と同じく残酷になることだと悟ったのさ」

 ──せっかく女の子に生まれたんだから。

「……うわー、でも俺、こういうのは分かんないわ」

「いったい、暴君とはなんだ?」

「物事が見えなくなった魂です」

 ──連れてって。ゴリアテ。お願いだ。

「今の時代に暴君になったら、その人は犯罪者ですからね。下手したら絞首刑ですからね。ヘヘ」


 わたしは知っていた。自分にとっては重要なことも、他の人には些末であることを。そうして、それを受け入れて貰うためには愛が必要なのだ。愛が無ければ、人は殺意を抱えてしまう。

 わたしはもう死んだのかもしれない被害者の手から法廷画用のノートを取り戻して、ゴリアテに突きつけてやりたかった。散々、言葉に蔑ろにされてきたゴリアテに、きちんとした言葉で伝えたかった。

「………………」

 わたしは教室の机を弾き飛ばしながら踊っているゴリアテを遠巻きにしつつ、さながら死んでいるかのような被害者の許へと寄っていった。固く握り絞められた拳から法廷画用のノートを半ば引きむしろうとした時、無敵とは程遠い状態でのびているそいつが弱弱しい声を漏らした。

 わたしは途端に安堵した。まさか本当に死んでいたらどうしようと思案していたのだ。

 見開きのページを留める指に力が籠もって、親指の爪が罫線の端に食い込んだ。

 わたしは呆然とした心持ちでゴリアテを眺めた。初めは嗚咽に震えているのだと思った。だけど、言葉の輪郭に収まり切らない呪詛の呻りは、ついぞ神がかりな冷笑へと変わった。

「………………」

 祈りは遠かった。

 誰に受け入れて貰えなくてもいい、世界を踏みにじるような、ヘテロのダンス。わたしには伝えようとしなくても全てのことが伝わっていた。いや、反対だ。伝わらないということだけが伝わっていた。

 ふっと、わたしの中で何かが消滅した。視線を落とすと、手元の安地が血に濡れて、一面、一緒くたになっていた。

 わたしは法廷画用のノートをスクールバックに突っ込むと、胸を張るように立ち上がった。

「ゴリアテ」

 不理解と分断に塗れた王国で、誰かの擁護を求めながら、価値観の垢にくすんだ虚飾を愛とか優しさとか呼んだりする。たぶん、それが生きるということだ──わたしはやっと悟ってしまった。

 ゴリアテだけが人間なのかもしれない。わたしは本気でそう考えた。だからこそ異端だったのだ。わたしはやっぱり、愚かで、弱くて、強がりで、特別でもなんでもない、ただの孤独な女の子だ。死んでいないと知れば、たちまちに安堵してしまう。その程度の殺意はきっと誰しもが抱いている。

 人間の本質をごまかさなければならない世界で、ゴリアテは誰よりも人間だった。だからこそ怪物になってしまったのだ。いや、怪物にされてしまったのだ。

 わたしのちっぽけな肉体から血と涙がとめどなく溢れた。価値観の垢にくすんだ虚飾にかかれば、聖なる異端児であるゴリアテも、ただの少年犯罪者になる。

 わたしは何者になるのだろう。何者にもなれないのかもしれない。でも、生きることはできる。

 ──もしも、あなたがわたしだったなら、誰も殺さずに済んだだろうか。

「みんな、それぞれあるんだよ。自分にしか分からない痛みがあって、それを、上手くごまかしてる。みんながみんな自分の痛みを主張してナイフを持ったら、世界なんか滅茶苦茶になっちゃうから……」

 もう誰の声も届かない領域に行ったの人に、伝わらないのだとしても。どうせ伝わらないのだとしても、伝えたいことがあるのなら伝えるしかないのだ。

 たとえどんなにくそったれでも、わたしには帰るべき場所があった。そのことだけが、わたしたちの違いであるような気がした。

「たとえどんなに世界が残酷でも、わたしたちの生きる場所はそこにあるんだ」

 ゴリアテは目をすがめて、わたしを見据えた。思わず怯んだ。わたしは全身全霊の力で廊下に面する壁へ突き飛ばされた。ゴリアテはさもさも愉しげに、け、け、と狂人じみた笑い声を放った。

 わたしの内側で言葉の輪郭に収まり切らない慟哭が響いた。爪先で掻き毟った時の小さな音が、慟哭を容易くかき消した。

 頭二つ分も違う背丈から振り下ろされる威圧感を、わたしは顔全体で受け止めた。ぽっかりと空いた暗い暗い穴のような眼にはわたしが映っていた。泣きべそをかいているわたし。人畜無害なお利口さんのわたし。どこにも行けないわたし。凡庸で、人よりも少し異質なわたし。

 ふと、『カリギュラ』の最後が脳裏によぎった。「やっちゃえばいいと思う」という言葉に遮られた教鞭も。暴君カリギュラの最後の言葉──わたしは唇を嚙んで、涎交じりの吐息を漏らした。

 わたしはナイフを突きつけられながら、決死の覚悟でこう告げた。

「そんなんじゃ、生きていけないよ」

 ゴリアテもわたしの眼を見つめていた。ナイフは鈍い振り子のように揺れていた。

「世界なんかどうなったっていい」

 ゴリアテは皺枯れた声でこう告げた。

「主人公は俺だ」

 ガラガラッ、と、運命を瓦解させるような音がして──ゴリアテとわたしは、それぞれ別の現実へと引き離された。

 紛糾の声、焦燥の叫びとけたたましい怒声、ろくに会話もしたことがないクラスメートの優しげな声。

「ネェ、大丈夫?」

 わたしは口元に手を当てて、聞くに堪えない嗚咽を押し殺した。膝が震えた。ゴリアテは大人たちに拘束されながらなお冷笑を止めなかった。

 ナイフを奪われた手のひらが暴れて、人差し指の示す方向も暴れまわった。

 そして、ついに、自分のしたことを指差すと──

 暴君は、笑い、喘ぎつつ、喚く──。

「俺はまだ生きている!!」

 わたしはくずおれた。

 再びの耳鳴りにかき消されそうな音を捉えるために、左手で両の視界を覆った。瞼の裏には泣きべそをかいているわたしがいた。

「大丈夫? ネェ、大丈夫?」

 馬鹿の一つ覚えみたいに労りの言葉をかけながら背中をさすってくるクラスメートの掌があたたかかった。気持ち悪くて涙が出た。血濡れた被害者が慎重に搬送されていった。わたしもじきにそうされるのだ。

 複数の大人たちに組み敷かれながら、神々と肩を並べた怪物は笑っていた。どうにもならないほどに暗く光る眼が、刹那、わたしを捉えた。そこには紛れもない共犯者が映っていた。

 ゴリアテが怪物なら、わたしは天使だ。わたしがここに死を齎した。天使は、たとえどれだけ無垢に映ったとしても邪悪なことをやってのける。無垢だからこそ、やってのけてしまう。

 体育教師の手が理解できない生徒の頭を鷲掴みにして、そのまま数回、白いタイルの床に打ちつけた。ひ、ひ、と、悲鳴とも笑い声ともつかない声がわたしの内側で響いていた。

 ああ、地獄は一定すみかぞかし。

 楽園の外へと連れ出されていくゴリアテ、しかし、彼はもうそこでは生きていけない。人ひとり殺せるほどに残酷な怪物は、もう、誰の思い通りにもなれないのだ。

 わたしの中の天使はまだその瞳の中にいた。叶うものなら、ずっと側にいてあげてほしかった。 

「大丈夫、大丈夫……」

 わたしは嘘みたいな嘘をまるで本当のことのように伝えた。それで、クラスメートはようやく安心したらしかった。

 殺されないために、押し殺すのだ。背中の真ん中で停止した掌のあたたかみを感じ取るように、わたしはそっと、目を閉じた。

 女教師の肩に脇下を押し上げられつつ、わたしは後ろの扉の方から連れ出された。脱力しきった体をむりに立たされても、わたしは文句一つ零せなかった。

 騒々しい蝉の声や、惨劇を嘆く声。虚飾に塗れた世界では血の匂いがしなかった。わたしは閉ざされた楽園を振り返る代わりに、け、け、と笑ってみた。あんまりにも不似合い過ぎて、思わず笑った。

 わたしは「大丈夫?」という声に「大丈夫」と返し続けた。その営みはとても下らなくて、とても不自由で、とても、とても、幸いなことなのだった。


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