2019 法廷画


 高校一年生から二年生になるまでの間、わたしは日々を腑抜けのように過ごした。

 小学校から中学校まで、わたしがこそこそと為してきた母への反逆、その唯一の工程であった勉学の成果を裏切ったツケが回ってきたようだった。学力アンチの母が財政事情を把握している家庭、当然、塾への入会が許されるはずもなく、わたしは自習室も講師も無しで、誘惑だらけの自室にひとり籠もりきり独自の集中法を編み出したのだ。いわば自宅学習のプロである。広告一つ分ほどの集中力もないクラスのバカたちにおもねった授業など蠅の視界さながらであった。

 色恋沙汰に興じてみるにしても、アラレちゃんを思わせるこの黒縁眼鏡に、くせっ毛のないボブヘアー。押しつけられることでクラスの日陰者どもから憐憫を抱かれる前にと能動的に引き受けた総務という立ち位置に、誰からもつけ入らせる隙の無い優等な成績……下手に女子力をアピールしてみたところで妙な噂を立てられるだけでしまいだ。火のない所に煙は立たぬのだ。バカと煙は高い所に昇るのだ。類は友を呼ぶのだ。わたしは冷えた御影石のように、教室の影でじっと佇むことを選んだ。

 ならばいっそ、学区外で遊びほうけてみようか。しかし、それまでの勉強熱心が祟ったせいで、わたしは十代らしい遊び方にいまいちピンとこれなかった。たまに面白い遊びを見つけても、頭の片隅に娘の怠惰を悦ぶ母の姿がちらつき始めればたちまちに冷めた。

 学生の本分は勉強であると大人は言う。学生の本分は青春であると学生は言う。それらのどちらからも取りこぼされたわたしは、まさに学生として腑抜けにならざるを得なかった。

 だからこそ、どうかしていたのだ。人間、退屈が過ぎると奇行に走ろうとするものだ。

 当時のわたしが一等はまっていたのは、ゴリアテの観察だった。ちなみにゴリアテなるあだ名の由来は旧約聖書の逸話である。ダビデに倒される巨体の兵士、ゴリアテ。のちの王として大成するダビデに神をあざけった報いでギャフンされるというじつに御膳立て調な勧善懲悪の対象とだけあって、やたらに醜い姿で描かれることも多い。我ながらステキなネーミングセンスだと自負している。

 クラスは離れていたし、どちらも無為に教室を離れる性分ではなかった。だからゴリアテを目にすること自体は少なかったのだけれど、いや、別にわたしはゴリアテのファンではない。ゴリアテを渦中に巻き起こるトラブルのほうに夢中だった。

 それは目には見えない噂でも、実証としての被害でも、たまに立ち会える事件勃発の瞬間でも、なんでもよかった。とにかく、込み上げてくる感情を全く自制できずに暴れまくるゴリアテを観察することに執心した。


 とある日の午後、授業の予鈴が鳴る直前のことだった。わたしは窓際の席からカラッと晴れ上がった空を見ていた。窓は校庭側に面していたから、だいたいその日の授業毎に白の半そでを着て青いジャージの短パンを履いた体育フォルムの生徒どもを見下ろせた。そう。ゴリアテを観察しうる貴重な機会である。

 その日、ゴリアテの所属するクラスの男子どもは50m走のタイムを競っていた。

 見るからに不毛な授業だった。白線の上を陳腐な知育玩具ちいくがんぐみたいに行ったり来たり。時折り体育教師が走り方についての指導をすれば、生徒どもはそれにならって、ストップウォッチを覗き込み、早くなったんだか変わらないんだか知れない曖昧な反応を取って、また行ったり来たり。

 これはわたしの悪癖あくへきなのかもしれない。抜きん出ることができないのならば意味が無い。そう思ってしまう。例えば、こんな情景を俯瞰で見下ろせば──同級生にはもっと足の速い人間が幾らでもいるし、それこそ一年後の夏に開催される東京オリンピックには国が誇る俊足を保持する人間が出場する。こんなお遊び、授業と称してなんになる──あまりに極端だとは分かっていても、どこかでそう思えてしまってやまない。それは小学生や中学生が──或いは大人になってまでも言えることなのかもしれないけれど「こんな勉強が人生でなんの役に立つ? テクノロジーに頼ればいい」とドヤ顔でのたまうあのみっともない感じに似ている。

 わたしは抜きん出たかった。或いは誰もがそうかもしれない。だからこそ、各々が各々の得意な領分でなりふり構わずやっている。それが学校という箱庭の本質なのだ。

 学生の本分は勉強。今まで大人たちがそう説き伏せることができていたのは、勉強で抜きん出た先に素晴らしい栄光があることを国ぐるみでかたれていたからだ。しかし既に全ては破綻しかけていた。

 学生の本分は青春である。学生たちはテクノロジーによって開拓された無数の広大な領分で抜きん出ることを試み始めた。大人たちは価値観の反転を恐れて愚にもつかない批判を並べ立てるばかり。分断は深まっていくばかり。

 不理解が分断を生むのである。分断は互いの擁護を許さない──いくらませた昨今の学生と言えども、まだ大人の力を必要とする身──体育教師は腕組みしながら突っ立って、数人の小人じみた男子どもに巨大な一生徒がからかわれている様子を傍観していた。ああ、地獄は一定すみかぞかし。

 ゴリアテは夏の暑さが容赦なく照りつける屋外でも頑なにジャージの上着を脱ごうとはしなかった。先程見受けた教師の身振りから推察するに、空気抵抗があるからせめて前は閉めろと注意を受けたらしい。しかし、それでもやっぱり暑いには暑いらしく、ゴリアテは旗のような青いジャージをはためかせながら故障しかけの鉄人のように走っていた。そのことでヘテロをいとう男子どもにからかわれたのだ。わたしは冷めた眼で人間の悪意の縮図とでも言うべき光景を見下ろした。

 わたしは──もう一度言う。わたしはゴリアテのファンではない。むしろ嫌いだ。アンチである。ジャージを脱ぐか、前を閉めるか。提示された二つの選択肢のどちらにも従わずに奔放な行動を取る。そんなの自分から進んで反感を売り込んでいるようなものじゃないか。クラスメートが積極的に悪意をぶつけてくる類の人間だと分かっている以上、あえて隙を作ってつけ入らせては傷ついて、そんなの誰に擁護されるべきでもないことだ。当然の帰結だ。自業自得だ。

 わたしの眼はとても冷えていた。人畜無害のお利口さんを絵に描いたような姿が透明の窓ガラスに映っていた。背景には同系統の制服を纏ったクラスメートどもが退屈そうに頬杖をついたりしていた。わたしもその中の一人。でも抜きん出ていた。孤独と、勉強で。

 ──おいっ!

 ふと、板書を写そうと机上のノートに目を下ろしたときだった。やから然とした怒声が校庭から聴こえた。悪目立ちしないように首をそっと窓の方へと傾けた。わたしの胸はもう早々に高鳴っていた。 

 ゴリアテがキレていた。

 背丈の差が一目瞭然の男子どもを突き飛ばして、体育教師が慌てて仲裁に入っていなければそのまま顔面を踏みつけにするくらいのことはしただろう。それは、わたしが初めて殺意の現象化を目の当たりにした、運命的とでも称するべき瞬間だった。

 なんて表現したらいいんだろう。ああいう感情を。とにかくわたしは唇を嚙んで、喉の奥に込み上げてくる塊を抑え込んだ。投影をした。羽交い絞めにされながら殺意の対象との距離を無理やり離されているゴリアテがわたしだったなら。突き飛ばした相手は母親だろうか。それとも、非力な自分自身だろうか。

 心と頭が倒錯を起こしている状態では投影の整合性もそう長くは保てなかった。わたしはすぐにわたし自身を取り巻いている現状に気づき、失念してしまう前にとゴリアテの殺意の観察に専念した。

 呪詛の言葉を吐き散らし、嘲笑と嫌悪と侮蔑とを一身に受けながら抑え込まれているゴリアテ。その巨体の内側で燃え滾る殺意。嚥下を繰り返す首元にかけられた大人の腕力で僅かに上向けられた面持ちから、数舜、細く吊り上がった眼が覗いた。

 わたしは甘ったるい吐息をついた。自分でも気持ち悪くなってくるようなを含む吐息だった。入学式会場の壇上で目にしたゴリアテの眼は数か月経ってもなお暗く光っていた。わたしの胸を疼かせる恋心も、まだ。


 わたしはゴリアテが嫌いだった。行間が読めない。空気が乱れる。社会の秩序を護るためにはまず真っ先に排除しなければならないような人種だ。でも、恋していた。

 ゴリアテが何がしかの問題を起こすたびに同級生どもは辟易へきえきしていたようだった。だけど、心の奥底では愉しんでいたり、トラブルの後始末に追われる教師たちの姿を悦んだりしていることは明らかだった。ただ行間を読み合って、空気を乱さないようにじっと口をつぐめているだけだった。

 わたしは観察するだけでは飽き足らず、ゴリアテの絵を描くようになった。絵と言っても、ファンアートとしてくくれるような代物ではない。アンチアートである。当時は丁度、過去に世間をざわつかせた凶悪事件の犯人が次々と然るべき場所で裁かれていた時季だった……いや、わたしの目に飛び込んできただけで、とうの昔から次々と裁かれてはいたはずだ。メディアを見ればどこそこで事件が起こり誰それが懲役何年の判決をなどの文言と99%の確率で遭遇する。ただわたしの気分として、そういうダウナーな情報専門のアンテナがフル稼働していただけに過ぎない。

 わたしの興味を引いたのは、法廷画だ。裁判所特有の緊迫した空気感がひしひしと伝わる陰鬱なタッチ。ゴリアテが証言台に立って、起訴状を読み上げられて、自分のしでかした事件について応答する……そんな胸躍る空想が湧き上がるままに鉛筆を走らせた。一年生を終えて二年生に進級する頃になると自分でも感嘆するほどに上達していた。

 仮にこの空想の引き立て役が現状への不満やある日を境に住み着いた鬱屈感なのだとして、ここまでの速筆と精度を大成させたのは家庭の事情にほかならなかった。

 母は、高校を出てからすぐに現在の接客業に就いた。幼い頃から「女は愛嬌が重要なのだ」とことあるごとに説かれてきたわたしは、その言葉をカタパルトにして正反対の方向に進んだ。人畜無害なお利口さん。悪い言い方をすれば、無愛想な無口さん。

 世の中に思いがけず不穏なムードが蔓延してしまったことで、わたしはまだこれから高二に上がるばかりだというのに、時期尚早、卒業後の進路について取り沙汰される羽目になった。そして母は案の定、わたしの学を否定した。父は擁護してくれなかった。

 ここの家庭は不理解と分断で構築された母の王国だ。いっそ二人を敵と見なして暴れてやろうかと思えば思うほど、自分の心の弱さと相対して虚しくなるばかりだった。

 だから代わりに──そう言うのも本当におかしな話だけれど、わたしのノートに作られた裁判所や、面会室や、或いは護送車で、ゴリアテにとことん悪くなってもらったのだ。

 凶悪に、凶悪に。みんなが眉をひそめるほど、反吐が出そうなほど、凶悪に。数々のパターンを空想してみて、やはりゴリアテには短絡的な思考による稚拙な犯行が似合うという結論に落ち着いた。あえて口にするべきではないほどえげつない犯行を成し遂げた日本の犯罪史に残る凶悪犯として似非法廷画家のわたしに描かれるゴリアテの姿は、随分と満ち足りた生活を送っているらしい容姿端麗な俳優よりも美しく、たまらなく美しくみえた。

 わたしは賢治が好きなのに。自室の勉強机でノートに鉛筆を走らせながら、ふと顔を上げた拍子などに賢治の本を目にしたりすると、思う。

『よだかの星』『ビジテリアン大祭』……他の命を犠牲にしなければ生きていかれない己の命の醜さを憂い、

『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』……滅私奉公の姿勢を持つことこそが人間にとっての幸いなのだと謳い、

『黄いろのトマト』『無声慟哭』……無垢な魂が苛烈な現実に打ちのめされることへの無情を嘆き悲しむ。賢治のような人が世界人口の大半を占めれば世界平和の実現だって単なる夢想だけでは終わらないのにと思えるほど、その魂を美しいままで終わらせた人なのだ。

 ゴリアテとは正反対の賢治を、わたしは今までも今も好きだった。賢治の残してきた中で特に気に入っている言葉は様々な作品に散在している。『薤露青かいろせい』『雨ニモマケズ』……受け取り方は読み手次第だけれど、わたしは賢治の作品を一つの言葉や文章として憶えていることが多かった。

 その中でも、全体を通して強く記憶している作品がある。『革トランク』という短編だ。斎藤平太という名前の男を主軸に据えた物語なのだけれど、あれはじつは賢治自身のことを描いているのだろうとわたしは推察している。

 わたしは賢治の清く正しく美しいところが好きだ。しかし、度々たびたび見受けられる邪悪なユーモアだって格別に好きだ。賢治の作品はその生い立ちを軸に回る渾天儀こんてんぎのようなものなのだ。賢治は父親の権力が嫌いだった。母の一歩引いたしとやかな姿勢に少なからず憤っていた。『革トランク』では、斎藤平田なる男が故郷を離れ、うだつの上がらない日々を送ったのち、また故郷へと戻ってくる。大きな革張りのトランク一つを携えて。

〝帰る〟ということ。賢治もまた故郷を出奔したのち、トシの病気の報せを受けて後に自身が没することになる花巻の地へと帰郷した。そのときの手荷物は賢治の原稿が一杯に詰め込まれたトランクだったというのだから、わたしの推察だってあながち見当外れではないはずだ。

 郷愁の念の描写がかくも美しく切なくて良いのだと、宮沢賢治作品の愛好家や評論家は口々に言う。革張りのトランクの物珍しさに寄ってはしゃぐ子供たち。舟を漕ぎ出でて迎えに来てくれた船頭からかけられるあたたかな言葉。でも、わたしはそれらの人情味ある側面をより引き立てる残酷な描写の方が〝良い〟と感じた。

 ゴリアテの犯した罪の数々を空想するにあたって、わたしは実際に起こった凶悪犯罪や歴史的事件の記録、ネットで『サイコパス』『死刑囚』『残忍』等々の検索ワードに引っかかった解説動画を視聴したりと、数多の資料をむさぼった。それぞれの事件におけるえぐみのある部分や、いわゆる灰汁あくの部分をモンタージュしてノートに再構築する作業はかつて体験したことがないほどの爽快感を味わわせてくれた。

 それで、わたしはある日、少年犯罪をモチーフにした小説を図書館で物色している最中に偶然見つけた死刑囚の獄中手記をうきうきな気持ちで手に取った。

 全体の厚さを構成するページの一枚一枚に綴られていたのは、死刑囚との面会の様子や外界宛ての手紙、もうじき刑を執行される人間の悲観を匂わせない詩作や、郷愁と憧憬にまみれた回顧録……。

 わたしは羞恥に胸ぐらを掴まれた。だから恥をかなぐり捨てて自分の趣味に胸を張った。開き直ろうとした。

 いつからかわたしのヒーローとなっていたゴリアテは、賢治とは対極の存在でありながらも美しかった。他の命を無為にほふり、あくまで自分本位で、優勝劣敗の法則に従いながら、醜悪だとしても美しかった。そう思っていた。そのとき、わたしの手の上には、本物の死刑囚から吐露されたあまりに痛切な響きが、空想には決して含まれ得ないリアルな質感と共にのしかかっていた。

 この獄中手記を綴った死刑囚は絶対に『革トランク』を気に入る。わたしは確信した。郷愁と憧憬、そして、それらを引き立てる残酷な現実……白い麻の服を着て川べりに突っ立っている死刑囚の姿を想像した。わたしの胸が、固く、カラカラになるまで絞られていくようだった。


 恋とは投影を要するものだ。求める力だ。ゴリアテは現状の欠乏にただ怒り、過去のひずみを顧みない。わたしはゴリアテのことは何でも知っていた。わたしが罪を作り罰を負わせたゴリアテは、一度出奔すれば二度と帰らない。白い麻の服は似合わないし、川べりには誰も立っていない。

 大人しく、大人しくさ……続きの言葉を無言の内に囁く机上の賢治。わたしはまだ躍起になってちびた鉛筆をノートに走らせ続けた。


 奔放で分別を弁えないゴリアテの殺意に恋をした。もしも成就したのなら、わたしも二度と帰れない。だけどもういい。連れてって。不理解と分断で構築された王国に独り囚われの身となっているわたしを、空虚で自由な破滅へと連れていってほしいのだ。


 そうして、二〇二〇年の春。入学式も始業式もついえて、あくまで地続きに残酷な高校二年生の日々が開始された。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る