<4.料理は科学>
納豆は、枯草菌の一種である納豆菌を、蒸した大豆に植えつけて発酵させた発酵食品だ。
納豆菌はそう珍しいものではなく、自然にある枯草や稲わらに生息しているらしいが、無自覚のまま手にして納豆ができあがった事態は珍しいのではないだろうか。
「そっかぁ、納豆になっちゃったかぁ。でも、おいしいよね、納豆。わたし大好き!」
平沢先輩は笑顔で言った。
「今度は納豆を培養してみせるって張り切ってますよ」
「納豆はわりと簡単に増やせるって聞いたことがあります」
陽介から納豆発見の報告を受けて、俺達は三度調理室に集合していた。
今日も梅ジュースが振る舞われるのかと思いきや――手作りぶどうジュースだった。一層やばさが際立つ。
平沢先輩はまったく気にする素振りもなく、ちびちびとぶどうジュースを飲んでいた。そのかたわらには、市販のプロセスチーズが置かれている。
「味噌作りは頓挫したが、納豆の発見で陽介はすっかり舞い上がっている。結果オーライってとこかな」
「よかったよかった。もう問題はないの?」
「あ、いや、それが納豆の味がうすいって不満言ってました。納豆の味を、濃くする方法ありませんかね」
「味を濃くする方法ねぇ、醤油をたらすとか……って、外国だから醤油もないのか。発酵が足りなくて、納豆菌の繁殖がうまくいってないのかな。納豆も温度管理が重要だって聞いたことがある」
旅をしながら温度調整するのは難しいと思うが、かといって他に方法はなさそうだ。助けになりそうな知恵がない以上、あっちで試行錯誤を繰り返してもらうしかない。
俺にできることは、ここまでだろう。
「とりあえず納豆の繁殖しやすい温度調べて、それを伝えるとするか」
「そうですね。それくらいしか、できることはなさそうです」と、早坂が同意してくれた。早坂が言うなら間違いないと素直に思える。
当初の目的とは別の場所に着地したが、ひとまずは任務完了といったところか。俺は安堵の息をつき、ぶどうジュースをいただく。
早坂も肩の力を抜いて、控えみな笑みを口元に浮かべた。
「回り回って納豆に落ち着くとは思わなかったな。最初は、豚汁が食いたいって話だったのに」
「えっ、豚汁!?」
いきなり平沢先輩は叫んだ。ツバといっしょに吹き出したぶどうジュースの飛沫が、正面にいた俺の顔面を襲う。
ばっちいという思いと、妙な高揚感で、心のなかは半々だ。どちらにも舵を切れない。
「ねえ、ひょっとして、味噌を作りたいって言ってたのは豚汁が目的だったの?」
何に衝撃を受けているのか、平沢先輩はぐいっと顔をよせて、額がふれそうな距離にまで迫ってきた。
近くで見ても、やっぱり美人だ――困惑しながらも、そんな不適当なことを考えてしまう。
「言ってなかったですか。豚汁で使う味噌がないから困ってるって……」
「聞いてなーい、そういうことは先に言ってよぉ。味噌じゃなくて豚汁だったら、やりようはあるのに!」
彼女の口から飛び出した思いもよらなかった言葉に、理解が追いつかず目を瞬かせる。
「ほ、本当ですか!?」
いち早く事情をくみ取った早坂が、興奮して身を乗り出した。早坂も頭突きしそうな勢いで顔を近づけてくる。
二人に迫られる形となった俺は、圧力に耐え切れず背を反らしてのけぞった。視線が両者の顔を、行ったり来たり揺れ動く。
「つまり、どういうこと?」
「豚汁に味噌は欠かせないものだけど、豚汁を構成している食材は味噌だけじゃない。味噌の代用となるモノがあれば、豚汁に近い汁物はできると思うんだ」
説明を聞いても、いまいちピンとこなかった。味噌はよくも悪くも個性の強い調味料だ。その代用品と言われても、まったくイメージがわかない。
困惑する俺に笑顔を送り、平沢先輩は説明を足す。
「キュウリにハチミツをかけたら、メロンっぽくなるって知ってる。あと有名なところだと、プリンに醤油をかけるとウニっぽい味になる」
「子供の頃に、弟とやったことあります。あんまりメロンって感じはしなかったですけど。それを、味噌で?」
「大きな意味では、そういうこと。味噌に近い味にさえなれば、理論的に豚汁は作れる」
例題があっているかはともかく、言いたいことはなんとなくわかった。問題は、肝心の味噌の味を再現する食材の有無だ。
「味噌に近いって」そんなものがあるなら、こんなに苦労していない。「ありますか?」
「近いって言われると少し違うと思うけど、味噌の原材料を考えると共通項のある食材があるでしょ。同じウリ科のきゅうりにハチミツかけたら、メロンっぽい味になる――それは味噌でも再現できるんじゃないかな」
味噌の材料は、麹と大豆と塩だ。これまで味噌のことをさんざん調べてきたので、それはおぼえている。
そこから導き出される答えは、「あ、納豆!」一瞬早く、早坂が叫ぶ。解答を奪われて、吐き出せなかったが言葉が胸に残り、もやっとしたものが腹に溜まる。
「ミチルちゃん、正解。納豆は味噌と同じ大豆食品で、しかも発酵食品ってところも同じ。味の類似性に関しては、人によって意見がわかれると思うけど、わたしはそんなに遠くないと思ってる。ぐっちゃぐちゃにかき混ぜたときの味は、味噌っぽい風味があった。ペースト状になるまですり潰したら、もっと味噌風味になるかもね」
かき混ぜる量で納豆の味が微妙に変わっていくことは、実体験として同意できる。ただ、そこに味噌の風味を感じたことはない。
平沢先輩は調理室の壁際にすえられた例のスチール棚から、何冊か置かれていた本のうち一冊を手にして戻ってきた。
それは、栄養学の本――というか、食材や料理の栄養素を写真付きで解説した図鑑だ。
「料理は科学って言葉がある、あんまり好きな言葉じゃないんだけどね。科学なんて全然わかんないから、料理は科学ってのがすべてだったら悔しいじゃない。でも、ある意味間違ってはいないというのが、わたしの見解」
ぱらぱらと図鑑をめくり、味噌と納豆のページを開く。どちらにも栄養素が記載されている。
平沢先輩は二つのページを手で押さえながら、ちらりと早坂に目を向けた。
「はい、ここチェックして!」
早坂は急いでノートに書き写す。俺は顔をよせて、味噌と納豆の栄養素を並べて比較した。
たんぱく質、ビタミンB2、ビタミンE、イソフラボン、食物繊維――細かく分類すると違うものもあるが、主要な栄養素は重なる点が多い。
「味噌と納豆って、ほとんど同じ栄養素なんだ」
「同じ大豆の発酵食品なわけだし、似かようのは当然と言えば当然かなぁ。ただ栄養素はあくまで栄養素であって、味に直結しているわけじゃない」
「じゃあ、どうやって近づければ……」
早坂がぽろりとこぼした言葉を聞いて、平沢先輩は「ちっちっち」と口ずさみながら立てた指を左右に振る。すごい得意顔だ。
「みそ汁……てか、今回の場合は豚汁だけど、味のベースとなってるのは味噌だけじゃないよね。そこに出汁を加えることで、味に深みが出る。つまり、味噌以外の部分で味噌の風味を補うことはできるんじゃないかな」
味噌の代わりに納豆を使い、さらに出汁を工夫することで総合的に味噌に近づけようということだろうか。
そうなると問題になるのは出汁のチョイスだ。
「味噌や納豆みたいな大豆食品には、うま味成分のグル、グル、グル――えっと、グルなんだっけ」
「グルコサミン?」
「それだ!」と、平沢先輩は同調の声をあげる。
しかし、遠慮がちに早坂がぽそりとつぶやいた。
「グルタミン酸だと思います……」
俺と平沢先輩は赤面にして苦笑い。なんでこんな似たような名前をつけるのか、とんだ赤っ恥だ。
若干声のトーンを落として、平沢先輩が告げる。その顔はまだうっすらと赤い。
「と、とにかく、味噌にはうま味成分のグル、グルタミンが豊富に含まれている。うま味成分っていうのは、いくつかあって、かけ合わせることで相乗効果があるの。他の、ええっと――」
平沢先輩は図鑑を見てカンニング。うま味成分の名称をチェックする。
「そうそうイノシン酸とグアニル酸だ。豚汁にはカツオ節とか煮干しの出汁がいいと思うから、かけ合わせるのはその二つに多く含まれているイノシン酸かな」
納豆のグルタミン酸に出汁のイノシン酸をかけ合わせて、うま味成分を増やして味噌のテイストに近づける。大まかには理解できた、平沢先輩の味の理論は試す価値はあると思う。
ただ気がかりなのが異世界の食材だ。カツオ節や煮干しに類するものが、はたして存在するのだろうか。
早坂も同じ考えにいたったようで、不安げな視線を向けてくる。
「あの念のために――イノシン酸がある食材って、他にないんですか?」
「うーん、他?」平沢先輩は図鑑とにらめっこする。「鳥豚牛の肉類にも含まれてるみたい。ということは、豚汁ってもうかけ合わさってる状態ってことなのかな」
そう考えると、無理に出汁を加える必要はないのかもしれない。はじめに陽介に伝えた豚汁のレシピにも、確か出汁は材料になかったように思う。
しかし、それはあくまで味噌があった場合の話だ。納豆で代用するとなると、何か決め手がほしかった。
「グアニル酸は豚汁に使えないんでしょうか。どんな食材にグアニル酸は含まれているのですか?」
早坂の問いに、平沢先輩は図鑑をめくって答える。
「代表的なのは干しシイタケ、グアニル酸はキノコ類に多いみたいだね。干しシイタケの出汁なら、豚汁にも使えると思うよ」
シイタケという特定種の存在まではわからないが、味噌以外の豚汁の材料が揃うような植生の異世界ならば、キノコは問題なくあると思う。
キノコといえば毒性の強い種も多いが、当たったときは――回復魔法に任せよう。多少の無茶は押し通せそうなのが、魔法のある異世界の利点だ。
「これで、結論でいいのかな。味噌の代わりにペースト状にすり潰した納豆を使って、出汁としてカツオ節か煮干し、もしくは干しシイタケに類したものを使う」
「豚汁は味噌以外の要素も大きいからね。ちょっとでも味噌っぽくなってくれたら、豚汁って思えるものになるんじゃないかな。まっ、保証はしないけど」
平沢先輩はこう言っていたが、結果として納豆を使った豚汁もどきは大成功だった。
その作り方を陽介に伝えたところ、折り返しかかってきた電話からテンションの上がりきった歓喜の声が響く。
『兄貴、すげぇよ。本当に豚汁になった!』
「お、おう、そうか……」
そこまで感謝されるほど豚汁の味に近づくとは思っていなかった俺は、戸惑いが声にもれないようにだいぶ苦労した。
『いやぁ、うまかった。やっぱり豚汁は最高だな』
「それはよかった。苦労したかいがあったよ」
わずかに釈然としないものが溜まっていたが、ここで水を差すほどマヌケじゃない。俺は疑念を押さえつけて、ひとまず豚汁完成を祝うのだった。
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