<3.カビの再発見>
翌日にもう一度集合しよう――そう提案したのは、平沢先輩だった。「すぐに結論が出る課題じゃないから、家でゆっくり考えてみるよ」
その頼もしい言葉に、期待が膨らむ。
日付けが替わり、俺と早坂は再び調理室に訪れた。待っていた平沢先輩は、すでに一杯ひっかけている。今日は煮卵をつまみながら、ちびりちびりと梅ジュースを飲んでいた。
早坂は調理室を見回し、他の生徒がいないことを確認する。
「平沢先輩、料理部の部活は今日も休みですか?」
「休みっていうか、料理部の活動は週一だけなんだ。毎週一回集まって、みんなで料理を作ってみんなで食べる。それだけの部活、楽しそうでしょ」
楽しそうは楽しそうだが、それを部活と呼んでいいものか微妙なところだ。
ちゃんと学校から部活と認められて、部費が支払われていることに驚く。梅ジュースのおかげだろうか。
「そういうわけだから、調理室は好きに使っていいよ。たぶん人は来ない。前までは友達とよくここに集まってすごしてたんけどねぇ、みんな受験勉強があるから遊んでくれなくなった。おかげでヒマでヒマで」
受験を控えた三年になると、それぞれの進路に向けて忙しくなるものだ。それなのに、平沢先輩はヒマだという。
早坂も同じ疑問を抱いたようで、遠慮がちに口を開く。
「平沢先輩は受験勉強いいんですか?」
「うん、いい。受験やらないから」
「えっ?!」と、俺と早坂の驚きの声が重なる。「進学しないんですか?」
平沢先輩はちびりと梅ジュースを飲んで、軽く肩をすくめてみせた。相変わらずの笑顔で、そこに迷いも悩みも見受けられない。
「じゃあ、就職とか?」
「うーん、働くのもちょっとなぁ。もうちょっと遊んでたい」
「では、料理の専門学校ですか?」
「料理は好きだけど、プロになる気はないよ。根気ないし、厳しい修行に絶対耐えられない自信がある」
俺と早坂の質問を、ためらわずに否定する。平沢先輩がどうしたいのか、まったく見えてこない。
来年卒業を迎える三年生とは思えない曖昧さだ。他人事ながら心配になる。
「わたし、せかせかするの苦手だから、なるべく楽に生きたいんだよねぇ。できることなら一生高校生していたいけど、そういうわけにもいかないし、どうしたらいいんだろうねぇ。やっぱり勉強しなくても入れそうな大学探して、最低限四年間の自由を確保するほうがいいのかなぁ」
のんびりした人だとは思っていたが、これではのんびりを通り越してゆるゆるだ。もしかしたら、とんでもない人に相談してしまったのではないだろうか。
そんな俺の不安を見越したように、平沢先輩は味噌の話を切り出す。
「そうそう
「コウジカビは落ち葉や稲わら、パンとかお餅なんかに生えるカビで、いろいろ種類があるみたいですね。味噌に適したもの、お酒に適したもの、醤油に適したもの……それらを見分けるのは難しそうです」
早坂も勉強してきたようで、麹について補足する。空っぽのまま挑んだのは、俺だけらしい。
「へえ、そうなんだ」と、平沢先輩は笑顔のまま感心した。専門分野からはずれているとはいえ、ちょっと頼りない。
胸に芽生えた期待感が、音を立ててしぼんでいく。俺は不安に押しつぶされそうな気持ちを奮い立たせて、麹について整理してみた。
味噌作りには、麹が必要不可欠だ。極端なことを言ってしまうと、麹さえあれば味噌は作れる。
他に準備する材料は、大豆と塩だけ。大豆を加工して、麹と塩を混ぜ、熟成して発酵させれば味噌となる。もちろん作業工程には注意点がたくさんあって、簡単にできるものではない。しかし、少なくとも麹さえあれば、味噌作りにチャレンジはできる。
「麹がないと話にならないんだろ。難しくてもやらせればいいんじゃないかな。あいつが嫌になってあきらめてくれるなら、それはそれで楽でいい」
「そうだねぇ、楽が一番だよ」
平沢先輩はしみじみと同意する。
「コウジカビを見つけたら、どうやって培養すればいいんですか?」
「えーっと、それは……」
返答に詰まった平沢先輩に代わり、早坂がメガネを光らせて答えた。その手には、いつのまにか調査内容を書き記したノートがあった。
「蒸したお米や大豆に付着させて増やせるみたいです。それを一旦乾燥させて種麹という粉末の麹の素を作り、それをまた培養して麹ができあがる――といった感じですね」
手順の多さに頭がくらくらする。昔の人は、よくこんな手法を考えついたものだ。
「手間がかかりすぎる。できる気がしないな」
「ねっ、言ったでしょ。味噌は買うものだって」
そうは言っても、異世界に味噌は売っていない。自分で作るしか手に入れる方法はなかった。
「やれるかどうかは別にして、とりあえず作り方をそのまま伝えるしかないか。あとは本人のやる気次第だな。あいつに、こんな面倒なことができるとは思えないが」
「今回ばかりは、これ以上の手助けは難しそうですね」
俺と早坂は顔を見合わせて、やるせない苦笑を交わす。
そんな俺達の姿を見ながら、平沢先輩はのんびりした声で言った。
「どうなったか、結果報告はしてね。関わった以上、やっぱり気になる。どうせヒマしてるし、いつでも声かけてよ」
その日の夜、陽介から連絡がきた。俺は味噌作りの手順と、麹の作り方の手順を伝えた。
陽介はわかったんだかわかってないんだか曖昧な返事をして、曖昧なまま通話を切った。もう俺からできることは何もない。
――事態が劇的に動いたのは、翌朝のことだ。
寝ぼけ眼をこすり朝の支度をしているときに、いきなり電話が鳴った。通知画面には、もはや見慣れた文字化けした記号が並んでいる。
『あっ、兄貴。ちょっと聞いてくれよ』
こちらと異世界では時間のズレがあった。とにかく、まず時差を調整する。
「前の電話から、何日たったんだ」
『はあ、何を言ってんだ?』
「だから、前に電話したのは何日前だ。そこを把握しておきたい」
俺の質問に対して、陽介はいまいち腑に落ちていない様子だったが、とりあえず子供のように声を出して日にちを数えて言った。
『確か五日前だったかな。いや、どうなんだろう。こっちとそっちじゃ一日の長さが微妙に違う気がするから、微妙にズレてるかもしれない』
「そこらへんはいい。約五日たったってことだな」
『たぶん、そう。あれから兄貴に言われたとおり、コウジってヤツを探していろいろやってたんだぞ。仲間にも協力してもらってさ、ブーブー文句言われたけど』
勇者だからといって、なんでもまかりとおるわけではないようだ。
「それで、どうなったんだ」
『カビっぽいのを集めて、手当たり次第に蒸した米と豆にまぶしておいたんだ。さすがに温度管理なんかできるわけないし、そこには目をつぶって、わらで小分けにしてカバンに押し込んどいた。それで、今日どうなったか確認してみたんだ――』
陽介はここで一旦言葉を区切った。ごくりとツバを飲む音がスピーカー越しに聞こえる。
俺もつられてツバを飲む。妙な緊張感が漂いだしていた。
『そうしたらさ、カバンがぐちゃぐちゃになってた。カビが大繁殖して、くせぇし変な汁は出てるし、もう最悪。これって洗ってちゃんとキレイになんのかな。兄貴、いい洗濯方法調べてくんねえか』
「おい、話が変わってるぞ!」
これ以上厄介事を増やされてはたまったもんじゃない。俺は大きなため息を、スマホから異世界に届けた。
何はともあれ、麹の精製は失敗におわったということだ。平沢先輩は正しかった、やはり味噌は買うものだ。
「麹は作れそうにないか」
『ムリ、絶対にできない。コウジ作ってる人が転生でもしてこないかぎり、こっちで味噌は味わえそうにない』
「まあ、今回はあきらめろ。どうしようもないことは、生きてりゃあ何個か出てくるもんだ」
『しょうがねえか、豚汁食いたかったんだけどなぁ。あ、そうだそうだ――』
ふと何かを思い出したようで、陽介が声を弾ませる。あまり、いい予感はしない。
また無茶な要求を突きつけられると思い、俺は足を踏ん張り身構えた。
『ちょっと兄貴に聞きたいことがあったんだ。味噌のこと調べてたんなら、わかるんじゃないかと思って』
「な、なんだよ」
『コウジ作りは大失敗だったんだけど、いろいろ試したうちの一つが妙なことになっててさ。わらに包んでたカビをまぶした豆が、変な臭いがして粘っこい糸を引いてた。気持ち悪かったけど、どこかでかいだことがある臭いだったから、思いきって食ってみたんだ』
思わずカビまみれの豆を想像してしまい、吐き気をもよおす。
「お前、チャレンジャーだな……」
『腹が痛くなったら、回復魔法で治せばいいし』
「食あたりにも回復魔法ってきくんだ。便利だな、魔法って」
はじめて異世界をうらやましいと思った。
『あんまり味はしなかったけど、うっすらと記憶に引っかかる感じがあったんだ。なんて言えばいいんだろ、舌がおぼえているっていうか――まっ、この舌はそっちにいたときと同じじゃないんだけど』
転生して生まれ変わった陽介の肉体は、俺の知る陽介とは別物だ。舌がおぼえているというのは、きっと気のせいだろう。舌に残ったわずかな味に、記憶のなかの味と重なるものがあったのだと思う。
「それで、どうしたんだ」
『すげぇ気になったから、何粒か口に含んでひたすら噛んでみた。噛んで噛んで噛んで噛んで――ようやく思い出した。もしかしたら、これって納豆の味かもしれないって』
「はあ、納豆?!」
『うん、納豆。オレ、異世界で納豆を発見してしまったのかもしれない』
味噌を求めて麹を探していた陽介は、どういうわけか納豆を見つけ出していた。
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