<5.知らんけど>
「うわっ」と、思わず声がもれる。
教壇に立つ数学の
「倉本くん、どうかした?」
「いえ、あっ、いや、その……便所行ってきていいですか」
教室にゆるい失笑がこぼれる。さすがに高校にもなると、からかわれるようなことはなかったが、恥ずかしいことには変わりない。
竹田先生は軽く肩をすくめて、そっと視線を教室の扉に向けた。ちょっとした所作が、惚れ惚れするほど美しい。
「どうぞ、行ってらっしゃい」
頬が熱を帯びていくのを感じながら、俺は愛想笑いを無理に作って、そそくさと教室を出た。
本当に便所へ行きたかったわけじゃない。大きく息をついて、ポケットをまさぐる。
取り出したのは、スマホだ。授業中にいきなり電話がかかってきた。もちろん通常なら無視するところだが、文字化けした記号を見てしまうと、そうもいかない。
俺は便所の個室に入り、便座に腰かけると同時に応答ボタンを押す。
「おい、こっちは授業中だぞ。ちょっとは時間を考えろ!」
『そんなこと言われても、調節しようがないんだからしょうがないだろ』
陽介の声を聞いたのは、二日ぶりだった。前回の電話は、須間考案の金儲け方法を伝授したときだ。今日はその結果報告だろう。
俺は一旦気持ちを落ち着かせてから、若干声をひそめてたずねる。
「で、どうだった?」
『うーん、どう言えばいいんだろ。兄貴に聞いた方法は悪くなかったんだけど、うまくはいかなかった』
「えっ、ダメだったのか?!」
個室にこもって、その経緯をじっくりと聞く。あらましをすべて飲み込むのに、かなりの時間を要した。
授業終了のチャイムが鳴り、ざわついた空気が便所にも押しよせてくる。俺は個室を出て、廊下に踏み出す。結局授業には戻れなかった、クラスメイトにはとんだウンコ野郎と思われていることだろう。
俺は廊下に溢れた生徒の波をさけて、目に入った近くの窓によりかかる。そういえば昼休みだ。覚醒したように活性化した学生の動きに納得する。
「あ、早坂だ――」
ふと視線が向いた窓の外に、ジャージで校舎に戻ってくる彼女の姿を見つける。おそらく体育の授業だったのだろう、転んだのかなぜかジャージが泥だらけだった。昼休みで時間にゆとりがあるからか、友人と話しながらやけにゆっくりと歩いている。
よく見ると、早坂はメガネをかけていなかった。妙な縁でここ最近いっしょにいることが増えたが、メガネなしの顔を見たのははじめてかもしれない。メガネなしのレアな早坂は――地味な印象に拍車がかかる。俺のなかで、やっぱり早坂はメガネでなくちゃいけない。
「おーい、早坂」
のぞき込んでいた窓の近くに差しかかったところで、軽く手を振り声をかけると、「えっ、センパイ?!」彼女はすぐに反応した。
メガネがないので位置を正確につかめないらしく、慌てた様子で周囲を見渡している。
「あっちから連絡がきたぞ。放課後に報告する」
「ま、待ってください。いま知りたいです。すぐに着替えてくるので、そこにいてください。あっ、お昼だから、お弁当もいっしょに――」
早坂は急いで着替えに戻ろうとするが、メガネがないので危なっかしい。呆れ顔の友人が、しかたなく付き添ってくれる。
十分とかからず、早坂は弁当を抱えてやってきた。拭いきれていない汗が、額を濡らしてテカっている。
「お待たせしました。どこかで食べながら話ましょうか」
「そうだな。天気もいいし、外で食うか」
ちょうど手頃なベンチが、校舎脇の中庭に面した通路にすえられていた。目の前に箱状の植木鉢があり、小さな紫の花が溢れそうなほど群生している。
俺達は並んで腰かけ、弁当箱を開けた。早坂は早く話を聞きたそうにしていたが、まずは腹ごしらえ。シャケの切り身を口に放り込む。
「あの、それで、どうなったんですか?」
「奴隷は無事買えたそうだ。でも、作戦はうまくいかなかった」
早坂はミニハンバーグをさらに小さく切り分けながら、怪訝そうに俺を見た。
「どういうことなんですか?」
「須間の言うとおりドラゴンの肝を金と交換したそうだが、それくらいでは町が金不足となるほどの量とはいかなかったそうだ。町の規模を見誤ったってことかな」
「じゃあ、どうやってお金を工面したんでしょう?」
早坂は体をかしげて俺を見上げる。箸はまったく進んでいない。うまそうな玉子焼きが、まだ手つかずのまま残っている。
「金を買い足してもらった。ドラゴンの肝を売った商人に相談したら、面白がって協力してくれたそうだ。その商人が知り合いの商人に声をかけて、他の商人にも話を回して――そうやって、町の金を複数の商人で一時的に買い取り、強引に須間が求めた形に持っていったらしい。管理者の役人は慌てて買い戻そうとして、商人達と交渉、金額を吊り上げて無事目的の額をえることになった。相談してからは、ほとんど自分は何もしていないって、陽介が言ってたな。これが、天下が味方したって状況なのかもな」
「へえ」と、驚きながら、ようやく早坂はハンバーグを口に運ぶ。ハンバーグは細かく砕かれすぎて、ほとんど肉そぼろ状態となっていた。
「すごいですね、倉本くん。これが、勇者のカリスマなんでしょうかね」
「あいつにそんなもんがあるとは思えないけどなぁ。とりあえず、めでたしめでたし――で、いいか」
実を言うと、話にはまだつづきがある。
まさか本当に全員分の代金を持ってくるとは思っていなかった奴隷商が、支払いの段階になって値段を引き上げると言い出した。他に取引の予定があったようで、商品をすべて失うわけにはいかなかったそうだ。当然納得できない陽介と口論となり、奴隷商は雇っていた護衛のゴロツキをけしかけてきた。
それを返り討ちにした陽介は、奴隷商が逃げだし、結果として無償で奴隷を解放することができたという。支払う相手がいなくなってあまった代金は、太っ腹にも文無しの奴隷にくばったそうだ。勇者らしいこともたまにはやっているのだなと、ちょっとだけ感心した。
しかし、考えてみれば二重の意味で、苦労してひねり出した解決策が無駄だったことになる。須間の計画があったからこそ行き着いた結末だが、もしなかったとしても力技で同じ結末にたどり着いたのではないだろうか――そんな思いが脳裏をよぎり、よけいなことは言わないでおいた。
「なんにしても、ようやく終わった。やっとぐっすり眠れる」
「千里さんにも報告しなきゃいけませんね」
「えっ、別にいいだろ。何かおごれって言ってきそうで、めんどくさい」
レンズ越しに見えたのは、信じられないものを見る目。怒気をはらんだ視線が突き刺さる。
俺はたじろいで、箸を落としそうになった。
「いけません。お世話になったんだから、ちゃんと報告しないとダメです!」
そう言って、早坂はいきなり弁当をかき込みはじめた。これまでのスローペースがウソのように、ハンバーグも玉子焼きもいっしょくたにして口に放り込んでいく。
俺はあ然として、その様子を見ていた。今度は俺の箸がとまる。
「何をしているんですか、早く食べてください。千里さんに報告に行きましょう」
「早坂、お前って――」
おずおずと里芋の煮っころがしを口に運ぶ。
言葉遣いも態度も礼儀正しく丁寧な早坂だが、受け身なだけでなく、思いのほか強情なところもあるようだ。意外と早坂は、彼氏ができると尻に敷くタイプかもしれないと思った。知らんけど。
「さあ、センパイ。早く食べちゃってください!」
早坂にせっつかれて、俺も弁当をかき込む。もう味わっている余裕はない。
うららかな昼下がり、不毛な早食い大会がはじまった。
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