高坂柚葉は嘘をつく
「…………はっ、はぁ、はぁ」
に、逃がした。私だって日々の努力のおかげで足はそんなに遅くないし、体力が無いわけでもないのに。岸田新、なんて逃げ足の速さだ。
後でとっ捕まえて色々と言いたいところだけど、表立って変なことは出来ない。
私は人気のない廊下を肩で息をしながら進む。こめかみをつたう汗をハンカチで拭う。
この暑さのせいか、蝉の鳴き声は聞こえない。静かな廊下。ひとまず岸田のことは今は置いておくことにする。問題はそっちじゃない。
――甘夏が、私のことを好きだと言っているという話の方だ。
……どういう、つもり?
男子生徒が私のことを好きだと言っているというのなら、申し訳ないがさして驚きはない。
ただ、あの甘夏京となると話は別だ。彼女がそれを言うことによる影響は、今の私にも計り知れない。
まさか、本当に私のことが好きというわけではないだろうし、何か企んでいるのだろうか。
それとも、岸田が変に曲解しているだけか。
好きだなんていくらでも捉えようはある。
先輩への尊敬的な、好き。
人としての憧れ的な、好き。
猫ちゃんやわんちゃんを愛でるような、そんな好き。
別にどれであろうと構わない。
ただ、それを公言されることだけは困る。
岸田のように変な勘違いをされて、あらぬ疑いをかけられたのではたまらない。
――甘夏のところへ行かなければ。
私はそう決めて、一年生の教室の方へと向かう。昼休憩もあとわずか、急がないと。
……と、顔を上げたところで。
思えば、いつだってそうだった。もしかしたらいるかもな、どこにいるのかな、いたらどうしよう。そんなことを私が思った時、彼女はいつだってそこにいる。
私の視線の先に、甘夏京は立っていた。
「……あ。ゆずせんぱい、奇遇ですね」
甘夏はゆるゆるとこちらに向けて手を挙げると、柔らかく微笑んだ。
「……甘夏、さん」
「せんぱいひとりですか? こっちって、何かありましたっけ?」
私の歩いてきた方を覗き込むようにしてつぶやく甘夏。
……辺りには誰もいない。今ここにいるのは彼女と私だけ。好都合だ。回りくどいのはあんまり好きじゃない。
「うん。ちょっと用事があってね。……甘夏さん、私からもひとつ訊いていいかな」
「? はい。なんでしょう」
こてりと首を傾げる甘夏。
自ら訊くのは少し気が引けるが、ここを逃すとタイミングを失う気がして、口を開く。
「……甘夏さんって、私のこと好きだとか誰かに話した?」
「…………えっと。それは、どういう」
いつもはやる気なさそうな、その大きな目を見開いたかと思うと、困ったように視線を落とす甘夏。
「ちょっと噂で聞いだだけ。もし、そんな風に言ってくれてるのなら嬉しいなあ、なんて思ったんだけど……。先輩として、だよね?」
「……せんぱいって、好きな人、いるんですか?」
「うん、いるよ」
私は少し照れくさそうに頬を掻きながら言い切る。我ながら完璧な返し。何度も練習してきたものだ。
「えー、嘘、ですよね?」
甘夏は少しだけ悲しそうな色を浮かべて呟く。
嘘だと言われるとは思わなかった。でも、彼女の反応は信じられない、というようなものではなく、もっと別の……。
「……ほんとだよ? 誰かはまでは、教えられないけど」
「そう、なんですね」
甘夏は後ろで手を組むと、窓の外を見上げる。すぅ、と鼻筋の通った横顔が綺麗で。その白い頬と青い空がやけにまぶしい。
「ゆずせんぱいですもん。好きなひとがいたっておかしくないですよね」
「あはは、その言い方だと私に好きなひとがいたらおかしいみたいになっちゃうよ」
「……せんぱい」
「……なにかな?」
「違ってたら、忘れてくださいね?」
甘夏のガラス玉みたいな目が私を見据える。
夏の空みたいな、澄んだ瞳。
「せんぱいがもし、嘘をついていて。何か理由があって、適当なことを言ってるんだとしたらです」
その顔を見て思う。
ああ、やっぱり私は。この子のことを知らない。あまりにも、知らない。
「――私のこと、好きって言っちゃえば、楽ですよ?」
校舎にチャイムが鳴り響く。
甘夏の言葉は続く。
「きっとせんぱいと私は、同じだと思うから」
同じ?
あんたと私が、同じ?
目の前に立つ彼女を見る。
寝癖のついた綺麗な髪。
やる気のなさそうな目。
あまりにも白く透明感のある肌。
その胸の膨らみさえも。
いつの間にか鳴り止んだチャイム。
「甘夏さんと私は、違うよ」
「今は、そうかもしれないですけど」
「……さっきの、質問だけど。甘夏さんの方こそ好きなひと、いるのかな」
「なんかちょっと質問変わっちゃってますよ」
甘夏はくすくす笑うと、私に一歩近づいて。
「私が好きなのは、ゆずせんぱいですかね」
柑橘系の甘い香りがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます