第一章 

甘夏京は可愛い

 私、高坂こうさか柚葉ゆずはの一日は朝五時に鳴るアラームから始まる。


 寝ぼけた頭を切り替えるため、冷たい水とお気に入りの石鹸で洗顔をする。そのあとの保湿も入念に。丁寧に歯磨きをして、髪の毛を整える。寝癖なんて絶対に残さない。


 続けて朝ごはんとお弁当を同時に用意する。

 きちんと朝は食べる。お昼もしっかり。夜だけは控えめに。……よし、今日の卵焼きは美味しそうに出来た。


 しばらくすると、お母さんと妹のはるかが起きてくるのでみんなで朝食。お父さんは単身赴任、お母さんは毎日遅くまで仕事なので、朝ごはんは私の役割だ。


 朝食を食べ終わると部屋に戻る。

 パジャマを脱ぎ捨てて制服に袖を通し、自らの姿を鏡でチェック。今の時期は日焼け止めも忘れず念入りに。


 ……よし、今日も頑張ろう。


「行ってきまーす」


 少し余裕を持って家を出る。

 つま先で叩いた地面、そして私に燦々と照りつける太陽がじりじりと眩しい。

 夏休みまで、もうすぐだ。



 ***



 ――爽やかに家を飛び出したはずなのに。

 どうして私は、この子と登校する羽目になっているのだろう。


 がたごとと電車に揺られる私の隣の席。

 学園の堕天使こと、甘夏あまなつみやこは今にも閉じてしまいそうな目をして私の隣に座っている。


 まるで五分前に起きたと言わんばかりだ。

 私は五時から起きているというのに。


「暑くて死ぬかと思いましたが、朝からゆずせんぱいに会えるなんて幸せです……えへへ」

「そ、そう?」


 隣でそんなことを呟いた甘夏は、こっくりこっくりと気持ちよさそうに船を漕いでいる。


 ぴょこ、とはねた寝癖がどうにも気になる。なんでいつも気付かないのだろう。まさかこの子、わざとか……? なんて思っていると。


 こてん、と甘夏の頭が私の肩に乗せられる。

 すぅ、と小さな寝息が聞こえて。ほのかに甘い柑橘系のにおいがした。


「ち、ちょっと――」

「んぅ…………」


 起こそうとしたところで、彼女の寝顔が目に映る。長いまつ毛に白くて柔らかそうな頬。小さな桜色のぷるぷるの唇がむにむにと動く。


 なんで五分前に起きたような感じなのに、こんなにかわい……く、ない。そんなはずない。


 もう一度唇に目をやる。

 なにか食べている夢でも見ているのだろうか。……さ、触ったら、起きるのかな。


 ……いやいや。何を考えてるんだ私。

 一人首を振る。こいつみたいなだらしないやつにいちいち関わっているわけにはいかない。


 とっととどけてしまおうと甘夏の頭に触れたところで。彼女はびく、と震えてその目をぱちりと開いた。


 目が合う。

 はらりと落ちた髪がやけに色っぽい。

 彼女はこちらを見上げてにこっ、と天使のようにと微笑むと。


 また私の肩に頭を預けて、可愛らしく寝息をたて始めた。


 …………うう。

 私は奥歯を噛み締める。

 ほんと、なんなんだこいつ。



***

 


 その日の昼休憩。私はいつもの友達の誘いを断って学食を訪れていた。


 学食で食べるのは人目が多すぎてあんまり好きじゃない。見られることには慣れたけれど、気持ちの良いものではない。が、今日だけは仕方ない。


『――ゆずせんぱい。お昼一緒に食べませんか?』


 今朝の通学途中で甘夏がそんなことを言いだしたからだ。一度は断ったのだけれど、寂しそうに俯かれたので仕方なく。


 後輩の誘いを断る冷たい女などと噂を流されてはたまらない。私は高坂柚葉、誰に見られ聞かれても恥ずかしくない人間で居なければ。


「あ、せんぱーい」


 約束の時間に数分遅れて甘夏が現れる。

 左の頬には変な跡がついている。絶対授業中寝てたなこの子。そして人を誘っておいて時間もまともに守れない。これだから……。


「遅くなっちゃってすみませんっ。……ほらこれ、ゆずせんぱいが食べたいって言ってた購買のパン! 買えました!」


 甘夏は嬉しそうに透明の袋に包まれたパンを差し出してくる。三角形のチーズパンだ。

 みんなが美味しい美味しい言ってたけど、買いに行きづらくて食べたこと無かったやつ。


 私はおずおずとそれを受け取る。

 ……悪いやつでは、ないのかも。


「あ、ありがと。でも今から学食で食べるんだよね? パンも食べたらお腹が――」

「え? どっちも食べましょうよ。夏ですししっかり食べないと倒れちゃいます」


 そう、だろうか……?

 彼女は私の手を引いて券売機に向かう。

 しばらく並んで、ようやく私たちの番だ。


「えーと、どれにしようかな。せんぱいはなににします? 私はラーメンとカツ丼かなあ……」


 券売機の前でうむむ、と悩み始める甘夏が衝撃的な言葉を口走る。


 ……らーめんに、かつどん?

 彼女が左手に抱えた袋を見る。いくつかパンが入っている。そのパンは、どうするのだろう。


「甘夏さん。えと、そのパンはどうするの?」

「? 食べますよ?」


 食べるらしい。

 ぱんに、らーめんに、かつどん?

 全部炭水化物。彼女に怖いものはないのだろうか? それとも、冗談?


 本当に全部頼んだ甘夏と共に、空いている端の方の席に着く。私は肉うどんの温玉乗せにした。


「いただきまーす」

「……いただきます」

 

 きらきらした目でラーメンを啜る甘夏。

 席のそばを通り過ぎた男子生徒が彼女の前に並ぶラーメンとカツ丼とパンを二度見し、そのあと顔を二度見して驚いたような表情を浮かべる。そして私を見て、また見て、もう一度見た。


 あの堕天使と学園の(略)が……とでも思っているのだろう。先程からちらちらと視線を感じるが、気にしないことにする。


 それにしても、この後輩は。

 いきなりごはんに誘って一体どういうつもりなのだろう。

 

 私は髪が落ちないよう押さえつつ、つるつるとうどんを啜る。あ、おいしい。

 ふと見ると、甘夏がぽかんと口を開けてこちらを眺めていた。


「……甘夏さん? どうかしたかな」


 私が首を傾げると。

 甘夏はえへへ、とはにかむ。


「いや。ゆずせんぱいって、ほんと綺麗だなぁ……って思っただけです」

「な。そ、それを言うなら、そっちこそ……」

「?」


 私は言いかけて口ごもる。

 彼女を褒めてしまえば、私は負けを認めたようなものではないか。それだけは出来ない。


 こんな、大食らいの後輩っ……。

 私が顔を上げると、小さな口いっぱいにカツ丼を頬張った甘夏がもぐもぐと幸せそうに口を動かしていた。


 …………あんたの方が、可愛いんだよ!!!

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