第162話 謎の少女

 そうかも知れない。だが、そうでないかも知れない。彼の屁理屈には(ある意味で)説得力があるし、彼自身の雰囲気にもそれを裏づける根拠があった。「自分は決して、間違った事は言っていない」と言う、そんな自信があったのである。


 彼は俺の目をしばらく睨むと、不満げな顔で自分の正面にまた向きなおった。彼の正面にはやはり、例の空間が広がっている。「まあ、いいさ。君がどう思っていようと、それが事実であればいい。僕の言った事が、事実であれば、僕自身としては、何の不満も無いんだ。僕は、僕の倫理を突きとおす。そして」

 

 俺は、その続きを遮った。それは、言わなくても充分に分かるから。彼の主張にも「人間を苦しめる」と言いかえせた。「自分が思うようにするんだろう? 人間の傲慢を正して」

 

 俺は真剣な目で、相手の顔を見かえした。相手の顔は、その言葉に(少しだが)苛立っている。


「君は、自分が偉くなりたくて」


「仕方ないんじゃない、最初から偉いんだ。人間よりも遙かに上」


「だ、としても。それが人間を仕切っていい事には、ならない。人間を仕切っていいのは」


「神、かい?」


 俺は、その言葉に首を振った。それは半分正解で、もう半分は不正解だからである。神は人間が崇める対象ではあるが、それを統べる対象ではないのだ。その意味で、もう半分が間違っているのである。俺は寂しい気持ちで、彼の顔から視線を逸らした。「その良心だよ。自分が『良くあろう』とする心、『これから良くなろう』とする心。それが人間を仕切る、唯一の神だ。『神』と言う絶対の存在だけで、その心を縛っちゃいけない。本当に大事なのは、自分から『今よりも良い人間になろう』とする心だ」

 

少年は、その言葉に眉をひそめた。それを不快に思ったのか、その本心は分からない。でも、苛立った事は確かだった。俺が彼の目を見かえした時も、それを思いきり睨みかえしたし。自分の意見を否められたのが、心の底から許せないようだった。少年は射殺すような目つきで、俺の目をじっと睨みつづけた。


「傲慢だね。それこそ、傲慢の極みだ。人間は決して、自分の傲慢を正せない。自分が『それを知っていた』としても。人間は、自分の傲慢に」


「ただ、墜ちていく人もいる。それは、確かだけど。人間は自分の人生がどんなに苦しくなって、そこからきっと」


「這い上がれるのは、一部だけだ。それ以外はみんな、奈落の底に」


「落ちる。それは、充分に分かっているよ。俺も、その地獄は味わっているから。君の言う真理も、充分に分かっているつもりだ。でも!」


「なんだい?」


「それでも、腐っちゃいけない。自分の人生を諦めて、それに潰されちゃいけない。自分の人生に潰されてしまう人もいるけど、それでも決して諦めちゃダメなんだ。自分が自分である以上」


「詭弁だね」


「うん。だから、生きたい。生きて、自分の夢を叶えたい。これから先、どんな事があっても」


 少年は、その言葉に溜め息をついた。それに呆れるわけでもなく、また落ちこんだわけでもなく。俺の言葉を嘲笑っては、楽しげに「ニヤリ」と笑っていた。少年は口元の笑みを消して、俺の顔を殴った。それがとても痛かったが、彼が自分の前に立ちつづける以上、それに「なんだよ、いきなり!」と怒鳴る事はできても、その身体に反撃を加える事はできなかった。少年は俺が殴りかえさない事を察して、俺の身体をまたも殴り飛ばした。「どうした? なんで殴りかえさない?」


 俺は、その質問に答えなかった。それに答えるのは、相手に負けるのと同じだったからである。俺は相手の考える事、「言葉で分からない相手には力」の精神に決して応じなかった。


「殴って『うん』とうなずかせても、それは決して認めた事にはならない。相手が自分の意見に」


「うなずけたかどうかの問題じゃない。相手がそれに従ったかどうかだ。僕の拳を食らって、その意識自体を」


「変えるわけがない。こんな事をされて、普通は変えるわけがないよ。相手の心を変えるのは、それを動かす大きな思いだ。力だけでの拳じゃ、誰の心にも響かない」


 少年は、その言葉に眉を寄せた。それが「本当に不快」と言わんばかりに。


「アホの理論だな。そんなのは、子供にしか通じない。世の中の真理を知らない子供にしかね。世の中の真理は、強い者だけが残る弱肉強食だ」


「確かに。でも、そうでないと」


「信じようが信じまいが、その真理は変えられない。彼女の本質も?」


「彼女の本質?」


 そう驚いた瞬間だった。彼の姿が消えて、代わりに少女の姿が現れた。俺と同い年くらいの少女が、俺の目の前にふと現れたのである。彼女は(理由は不明だが)俺が信じる善(彼女曰く、偽善)を否めたが、俺も彼女の反論を否めて、彼女に自分の考えをぶつけつづけた。「俺はその、偽善を信じたい。偽善の奥にある、本当の善を信じたい。人間が人間である証を」


 彼女は、その言葉を無視した。「そんな戯れ言は聞きたくない」と言う顔で。


「貴方は、誰?」


「ゼルデ」


「ゼルデ?」


「ゼルデ・ガーウィン。それが、俺の名前」


 彼女は、その名前に驚いたらしい。俺にはどうして驚いたのかは分からないが、俺が彼女に「それ」を伝えた瞬間、何故か苦しそうにもがいて、その身体を震わせはじめた。彼女は俺が伸ばした手に気づかないまま、真っ青な顔でその姿を消してしまった。

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