第159話 偽りの善

 どんなに醜くても、それが紛れもない真実。そう思わせるような悪夢が続けば、どんな強者でも病んでしまうだろう。精神の奥から段々と蝕まれ、そのすべてをすっかり壊してしまう。正に「地獄」としか言えない光景だった。未来への希望がまったく見えない地獄、明日の自分も定かでない狂気。


 そんなモノをもし、見せられてしまったら? まともな神経では、いられない。「発狂」とまではいかなくても、暗闇の中で叫び、そして、荒れるくらいはおかしくなった。俺は変わる事のない地獄、人間の地獄について、見たくもない現実を見つづけていた。「止めてくれ」

 

 。町の人達が焼かれる光景は、それを悼んだ兵士が狂う光景は。正直、一秒たりとも見たくなかった。自分が自分の精神を保つ意味でも、それは文字通りの願いだったのである。


 そんなモノをもし、このまま見つづけてしまったら? 俺も間違いなく、狂うだろう。今はどうにか保たれている思考が、瓦礫のように崩れてしまうだろう。事実、頭の奥が「ぼうっ」となりはじめているし。この精神がいつ崩れても、おかしくない状況だった。俺は自分の両目を瞑り、両耳を覆って、世界の中に「もう、止めろ!」と叫んだ。「俺はもう、こんなモノには耐えられない。こんなに苦しい世界は!」

 

 もう二度と味わいたくないのだ。それがたとえ、「幻だった」としても。人の死ぬ光景には、どう頑張っても耐えられなかった。俺はその場にうずくまって、また世界の中に「止めてくれ!」と叫んだ。でも、その応えは無言。俺の意思とは離れた景色が、俺の意思と分かれた場所で、その光景を何度も繰りかえしているだけだった。


 俺は、自分の両目を開いた。両目を開いて、両耳からも手を退けた。「それが無意味」と分かった以上、その場からスッと立ちあがりもした。


 俺は無気力な顔で、自分の周りを見わたした。自分の周りには、無数の人が集まっている。彼等は俺の存在が許せないのか、恨めしそうな顔で俺の事を睨んでいた。「どうして? どうして? どうして?」


 俺は、その声を聴き続けた。聴き続ける以外の方法がなかった。俺が「それ」を「聞きたくない」と思っても、頭の中に「それ」が響いてくる。彼等が俺の事を指さした時も、それをただ受けいれるだけで、その敵意自体を「止めよう」とはしなかった。俺は、彼等の声をじっと聴き続けた。「そうか、そんなに……」


 彼等は、その声を遮った。まるでそう、俺の声に狂うように。「苦しい、苦しい、苦しい! 自分の命が盗られて、苦しい!」

 

 俺は、その声に震えた。その声には、怨念が込められていたから。俺がその怨念から逃げだした時も、恨めしい声で俺の後を追いかけてきた。俺は自分の両耳を塞いで、後ろの声に叫びはじめた。「止めろ、止めろ、止めろ!」

 

 こんな声、もう聞きたくない。聞けば聞くほど、おかしくなる。自分の頭も、精神も、すべてがおかしくなりそうだ。胸の鼓動もおかしくなって、身体の中もおかしくなる。だから、お願いだからもう、止めてくれ。そう叫びたかった俺だが、それが声に出なかった。精神の内側ではそう叫べても、見えない何かに阻まれて、それがふと掻き消されてしまったのである。


 俺は朦朧もうろうとする意識の中、陰鬱な顔で暗闇の先に目をやった。暗闇の先には、いつの間に現れたのだろう? 小さい少年が一つ、俺の事をじっと睨んでいた。

 

 俺は、その眼光に震えた。眼光の中にある殺気、それに思わず怯んでしまったからである。俺はその動揺を何とか抑えて、相手の目を見かえした。相手の目はやはり、俺の目をじっと睨んでいる。「君は、誰?」

 

 子供は、その質問に答えなかった。質問の趣旨とは違う内容、彼自身の答えは返ってきたけれど。それ以外の答えは、その範囲からまったく抜けてしまった。子供は不機嫌な顔で、俺の前に歩みよった。


「どうして、助けてくれないの? 貴方はずっと、僕達の事を見ていたのに? それを助けるどころか」


「ち、違う! そんな事は」


「あるよ! 歴史の悲劇に哀れむだけじゃ! そんなの傍観者と」


「一緒なのか? 俺は」


 子供は、その言葉に眉を寄せた。その言葉に怒りを見せて。「もっと最悪。傍観者はある意味で中立、どちらの味方にもならない。自分の立場を守って、その様子を見まもるだけだ。見まもるだけなら、相手の気持ちも壊さない。ただ、相手の気持ちを哀れむだけだ。でも!」


 そう叫んだ少年の顔は、俺が今まで見たどんな顔よりも恐ろしかった。少年は地面の上を踏みつけて、両手の拳を握りしめた。


「貴方は、違う。そこに哀れみ以上の感情を抱いた。『この惨状を何とかしたい』と言う、そんな感情を抱いた。それが死ぬほど憎たらしい。自分とは無関係な人間を『助けよう』なんて、傲慢にも程がある。正直、偽善者の戯言にしか思えない」


「そんな、でも!」


「じゃない。貴方も所詮、あの人を同じだ。貴方の事を追いだした人と、その中身はちっとも変わらない。貴方は人間の歴史が作りだしてきた人々と、まったく一ミリも変わらないんだ。貴方自身が歴史の傍観者である限り、その事実からは逃れられないんだよ!」


 俺は、その言葉にクラクラした。それが本当か嘘かに関わらず、その言葉に目眩を感じてしまったのである。俺は少年の罵倒をなおも浴びつづける中で、自分自身の悪に泣きくずれてしまった。

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