第157話

 先生がこれを信じてくれたかどうかは、それを話した俺自身にも分からない。俺の話をそもそも、分かってくれたかどうかも。自分の世界がすっかり変わってしまったなんて話は、どう考えてもまともではなかった。先生は、その話に押しだまった。それに文句を言うわけでもなく、医者らしい御託を並べるわけでもなく。ただ黙って、俺の話に唸っていた。先生はカルテの内容をしばらく見ていたが、やがて俺の顔に視線を戻した。


、か」


「また? 『また』って? それじゃ、俺以外にも?」


「ああ、同じような患者がいる。『自分は、ここの住人じゃない。こことは、違う場所から来たんだ』って、そう訴える患者がいるんだ。それも一人や二人じゃなく、何人もの患者がそう言っている」


「彼等はその、冒険者なんですか? 俺と同じ」


「大半は、ね? だが、そうでない人もいる。君のような冒険者ではない、普通の旅人も。みんな、この症状に苦しんでいた。症状の原因は、分からないけど」


「先生は」


「うん?」


「先生は、この症状を『病気だ』と思いますか? おかしくなったのは、『俺達の方だ』って。その頭から」


「否めるしかないよ。自分は、医者だ。医者が病気以外の事象を信じてはならない。それがたとえ、普通ではない事であっても。医者の仕事は、患者の病気を癒す事だ」


「そう、ですか。それじゃ」


 頼んでも仕方ない。先生では、この現象は止められないのだ。その原因を突きとめる事も。先生はどこまでも医者だが、それ以上の存在ではなかった。俺は隣の親友に目配せして、目の前の先生に頭を下げた。


「分かりました。余計な手間を取らせて、すいません。先生の大事な時間を」


「そんな事はない。君は『自分が病気だ』と思って、この病院に来た。この病院に来て、わたしの診察を受けた。それは、ごく普通の事だよ?」


 俺は、その言葉にうつむいた。それは、確かにそうかも知れない。「自分が病気かも知れない」と思って、この病院に来たのは。自分の異変に怖がる人なら、そうするのが普通だろう。事実、先生も「それ」を否めなかったし。病院は、病気の諸々を見る専門機関である。でも、それでも、やっぱりうなずけなかった。「君がおかしくなっただけ」と言う言葉にどうしても「はい」と言えなかった。俺は両手の拳から力を抜いて、自分の足下に目を落とした。


「最後に一つだけ」


「うん?」


「俺と同じ病気の人達に合わせてくれませんか? その人達に会ったら、きっと」


「それは、止めた方がいい」


 今度はなぜか、止められた。彼等に会うのはどうやら、ダメらしい。



「俺の心、が?」


「そう、君の心が。君は『完全ではない』と言え、正しい方向に戻りつつある。せっかく戻りかけているところで彼等にもし、会ったら? 今度は、完全に戻れなくなるだろう。今の自分をすっかり忘れて。そうなったら」

 

 諦めなさい。それが、先生の結論だった。「これ以上の悪化を防ぐためにも、君は今の自分を受けいれた方がいい。そうしないと、病院の中に入ってもらう……。なんでもない」と、そう結論づけてしまったのである。先生は机の上にカルテを置いて、病室の出入り口に目をやった。俺達にどうやら、「帰っていいよ」と言っているらしい。


「まったく、センターの連中にも困ったモノだよ。『自分達の手には負えない』と分かれば、こちらに丸投げするんだからね。下手な魔物よりも、質が悪い。センターへの報告書にも、『一時的な健忘症だ』と書いておいたのにさ? それをまったく信じていない」


 俺は、その言葉に押しだまった。本当は、黙りたくなんてなかったのに。彼の有無を言わせぬ態度が、俺の口を閉じさせてしまった。俺は病室の出入り口に目をやって、医者の前からゆっくりと歩きだした。ツイネもそれに続いて、病室の床を歩きだした。俺達は病室の中から出ていった後も、無言で病院の廊下を歩きつづけた。


「はあ」


 これは、ツイネの溜め息。彼女は先生の診断が不満なのか、不機嫌な顔で俺の隣を歩きつづけた。

「参ったね、本当に」


 俺は、その言葉に眉を寄せた。それ以外の応えが分からなかったから。


「うん。でも、まだ」


「え?」


「諦めたくない、自分の目標を叶えるためにも。俺はこんなところで、止まるわけにはいかないんだ」


「ゼルデ……」


「ツイネ」


「なに?」


「俺、調べるよ。この現象が起こった原因を。そうでなきゃ」


 あれ? なんだ? 目眩がする。目の前の景色も揺れて、その中にも……うん? その中にも?


「アレは?」


 一体、なんだ? 視界の隅に見えるアレ、人の形に見える黒い影は? 影は俺の事をじっと見ているようだが、俺が病院の床に倒れこんだ瞬間、俺に「ニヤリ」と笑って、俺の前に歩みよった。「君、は?」


 その答えは、よく聞えない。ただ、不気味な音が聞えるだけだった。


「うっ、ぐっ」


「カゲ、ダヨ? キミノチカクニイル、カゲ。ボクハ」


「なにが、目的、なんだ?」


「マオウ様ノタメニ」


? それじゃ、お前は!」


 魔物。それも、かなり強い魔物だ。世界の形を変えてしまう、恐ろしい魔物。文字どおりの怪物。それが今、自分の前に立っているのだ。怪物は俺と世界の間に壁を作って、俺の前にゆっくりとしゃがんだ。


モキット、ウマクヤッテイル」


「あいつ? あ、い、つ、って?」


 そこから先の言葉は、出なかった。その続きを言おうとした瞬間、あの感覚をまた覚えてしまったからである。俺は薄れ行く意識の中、目の前の闇に手を伸ばした。

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