裏4話 惚れた弱み(※三人称)

 人間は基本、情では動かない。それが「マティ」と言う男の、その人生から導きだした真理だった。「人間は(一見すると)情で生きているが、その実は利益しか求めていない」と、あらゆる経験を通してそう悟ったのである。「情は利益の隠れ蓑であり、利益は快楽の本性である」と。だから、人の善も信じていない。善の本質も信じていない。善の本質は無償の愛であり、無償の愛は利益と対局にあるからだ。

 

 利益を基礎としない行為は、どんな行為も偽善である。その意味では、彼は根っからの悪人だった。悪人は利益を基本とし、それ以外の物を求めない。そこから生じる、快楽にしか興味がない。彼は自分の隣で眠っている人間、美しい肢体の女性にしか興味がなかった。彼女だけは、自分に逆らわない。いついかなる時も、自分についてきてくれる。

 

 最近は(なぜか)暗くなる事が多かったが、それでも柔らかな光を浴びて、清潔なシーツを揺らす光景は、彼女がマティを愛している証拠であり、また同時に憂いている証拠でもあった。「彼の人生にいつか、暗雲が覆うのではないか?」と、そう内心で思っていたようである。肝心の本人は、「それ」に気づいていないようだったが。

 

 マティは、彼女の頭を撫でた。その形を愛おしむように、そして、遠い思い出に浸るように。朝日の安心を覚えながらも、その感覚もまた同時に味わっていたのである。彼女だけは、昔とまったく変らなかった。時の洗礼には逆らえなかったが、それが逆に深みとなって、大人の安心だけではなく、それに潜む少女も引きだしていた。大人でありながら、少女でもある彼女を。凜々しさの中に隠れた幼さを、一人の人間に重ね塗りしていたのである。


 彼女は、永遠の少女だった。その姿形を変えていく、永遠の少女。老いの美を重ねていく、普通の女性。そんな女性になぜ、愛を感じていたのか? それは、マティ自身も分からない。つまりは、永遠の謎だった。その謎は、彼の本質から最も離れていたのに。彼女の愛を感じた時だけは、その損得勘定がすっかり抜けおちていた。


「俺は、どうして?」


 マティはまた、彼女の頭を撫でた。そうすれば、「何かしらの答えが分かる」と思ったからだ。彼女の髪から指が流れていくたびに、その指先から妙な感覚を覚えるたびに、それが伝える答えの輪郭が見えて、「そこから疑問の答えを導ける」と思ったからである。だが、そう上手くいかないのが人生。答えが「答え」として消えるのが、現実だ。現実の理には、流石の彼も逆らえない。


 マティは複雑な顔で、彼女の頭から手を退いた。彼が彼女の頭に眉を寄せた瞬間、彼女が深い眠りから目覚めたからだ。彼女は自分の目を何度かこすり、それから「ニコッ」と笑って、マティの身体を抱いた。「おはよう」と言う言葉を添えて。


 マティは、その言葉に応えた……ばかりではない。相手の身体も、しっかり抱きしめた。


「おはよう。今日は、気持ちのいい朝だ」


「そうね」


 満面の笑顔、部屋の窓から差しこむ朝日にも負けない、温かな笑顔。そんな笑顔にまた、あの感情を覚えてしまった。「彼女は、やはり特別な女性だ」と。他の女とは違う、特別な女性。彼女はマティの行いを見ながらも、「それ」に涙する事はあったが、それ自体を否めようとはしなかった。「彼の罪は、自分の罪」と言わんばかりに。昨日の夜だって、行為の最中に「私も、一緒に墜ちるから」と囁いていた。「貴方と同じ地獄に。この世で一番の苦しみに」


 彼女はマティの頬に触れて、その愛に涙を流していた。


「いきましょう」


 それが意味するところは、マティには分からない。彼女との行為が終わった後も、部屋の闇に身を任せて、その思考だけを働かせていた。「彼女はなぜ、そんな事を言ったのか?」と。そして今も、その疑問と向きあっている。その疑問と向きあって、自分の服を着なおしている。胸のモヤモヤから逃げるように。だが……。


「どうしたの?」


 女性は不安な顔で、マティの顔を覗きこんだ。マティの顔は、苦悩の極地に入っている。


「なにか?」


「なんでもない」


 そう言って、何かを誤魔化す。自分の中に潜む、何かを。


「気にするな」


 その返事は沈黙だったが、やがて笑い声に変った。マティの苦悩を払うような、明るい笑い声に。


「そう。なら、朝ご飯にしましょう?」


「ああ」


 マティは、彼女の背中を見つめた。彼女の背中はまだ、裸である。


「なあ、マノン」


「なに?」


?」


「たぶん、おかしい。自分の仲間をみんな、追いだして」


「だが、お前だけは追いだせなかった」


「それがおかしい?」


「分からない」


「なら、それでいいじゃない?」


「だが!」


 マティは、彼女の背中に叫んだ。まるで自分の魂を絞りだすように。


「やはり狂っている」


「狂っていていいじゃない? それが貴方なんだから。私は、それについていくだけ」


「マノン」


「なに?」


「どうして、俺から離れない?」


「それは」


 マノンは、少し照れくさそうに笑った。


「『惚れた弱み』ってヤツよ」

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