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 下働きの名目でこの教会に連れてこられたものの、実際に暮らし始めてみると私のやることはほとんどありませんでした。掃除も、食事の支度も、裏庭にある小さな菜園の世話も、何もかもシスター・クララがやってしまうのです。あまりに仕事がないので、きっと最初のうちはお客様扱いしてくれるのだろうと思っていました。

 ところが私は、いつまで経ってもお客様でした。下働きを探していたはずなのに、シスターは私の手などちっとも必要そうではないのです。暖炉に使う薪を割るのすら、あの細腕で手斧を振るって手際よく片付けてしまいます。たまに煙突の煤払いなど大掛かりなことをするときだけは、村人が何人か手伝いにきてくれました。また、雑貨屋などが品物を持ってくることもありました。

 村の人々は、私やシスターを遠巻きに見るのが常でした。日曜日の午前中はミサのはずなのに、その時すら村人たちが教会に集まることはありませんでした。なんでも皆、近くの町の教会へわざわざ行くというのです。なるほど決して通えない距離ではありませんが、とはいえなかなか面倒なことでしょう。やはりこの教会には神父様がいらっしゃらないからだろうか、と私は考えました。

 それにしても、村人たちの態度は奇妙なものでした。彼らが私たちを見る目つきは、まるで怖ろしい化け物を見るかのように思えました。


 教会にやってきて間もない頃、前庭に子犬が迷い込んできたことがありました。白くてふわふわして、見るからに愛らしい子犬でしたが、知らない人間に驚いたのでしょう。私とシスター・クララにけたたましい声で吠えかかりました。

 少しして、犬を追ってきたと思しき小さな男の子が駆けてきましたが、シスターの姿を見ると、途端にその場にすくんで動かなくなりました。私はその泣きそうな顔をした子供を宥めたかったのですが、声が出ないために話しかけることすらできません。

 ようやく村の方から女の人が走ってきました。どうやら男の子の母親のようでした。彼女は子供を抱き寄せ、吠えていた犬を捕まえると、黙ってシスターに頭を下げ、逃げるように去っていきました。「こんにちは」も「ごきげんよう」も言いはしないのです。

 シスターの方を見ると、別段村人の態度が気に障った様子もなく、相変わらず天使のように美しい面を、村へと続く小道へ向けていました。風に吹かれて彼女のベールが翻り、金色の後れ毛が首の後ろで踊りました。優雅な鼻筋の上で、眼鏡の銀縁がちらりと光りました。

「よく吠える犬だったわね」

 ふいに彼女が呟きました。

「わたし、うるさい犬は嫌いよ」

 その声は聖職者と思えないほど冷たいものでした。しかしややあって私の方を向いた彼女は、いつものように優しく、清らかに微笑んでいました。


 シスター・クララが何でも手際よくやってしまうので、私のやることといったら、形ばかりの小さな礼拝堂で、長椅子を毎日磨くくらいのものでした。

 筆談で「暇でしかたがない」と訴えると、シスターは「では、アイリスはお勉強をしていらっしゃい」と言って、私にあてがわれた小部屋の机の上に、本だの筆記用具だのを置いていきました。どこで教育を受けたのか知りませんが、シスターは私の勉強をよく見てくれました。

「アイリスは賢いわね。作文がとても上手よ」

 私にこんなことを言うのは、シスター・クララが初めてのひとでした。それまでは口がきけないという一点のために、私は白痴のように扱われてきたのです。もっともそれは、早々に他人と交流することを諦め、拒絶してきた私にも責めるべきところがあったのかもしれませんが。

 私の声が出ないことを歓迎したのはシスターと、孤児院にいたある職員だけでした。私が拘置所に送られる原因となったその男の顔は、私の頭の中でなぜか黒く塗りつぶされたようになっていて、思い出そうとしても思い出せません。ただ呪文のようにアイリスはかわいいねと繰り返す吐き気を催すような声音だけは覚えていて、私はそれを夢に聞き、度々飛び起きることがありました。

「アイリスはかわいいわね」

 シスター・クララの言葉は、男のそれと同じようでいて、まったく別のものでした。

 彼女は私の癖の強い赤毛を辛抱強く梳り、お下げにしたり、編み込みを入れたりして整えました。どこに掛け合ったのか、私にぴったりの新しい服を、季節に合わせて用意してくれました。彼女はことに、私の足がかわいいと言って褒めるのです。確かに私の足は生まれつき身長のわりに小さく、丸みをおびた形をしていました。それが愛らしいと言って、シスターは時折まるで幼子にするように、私の足に靴下を履かせたりするのでした。

 ミサの時間には、私はシスターと二人で礼拝堂にこもり、お話をしてもらったり、賛美歌を歌ってもらったりしました。声の出ない私は賛美歌を歌うことができないので、シスターはオルガンの弾き方を私に教えてくれました。

 教会には古びた足踏み式のオルガンが置かれており、この慎ましい礼拝堂にはこれで十分と思われました。最初は両手どころか片手だけで弾くのも難しかったのですが、シスターは根気よく教えてくれました。おかげで二ヵ月もすると、私は簡単な曲なら三つほど、伴奏を務めることができるようになったのです。

 晴れた日などはステンドグラスから礼拝堂に光が差し込み、その中で賛美歌を歌うシスター・クララは、この世のものとは思えないほど美しく清浄に見えました。

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