子ども部屋おじさんの決断

「ニーニャ……」


 ヴィータはニーニャの頭に頬を当てて強く抱きしめながら、敵意に満ちた目で俺と父さんを睨んでいた。


「はっ……はっくっ……」


 あえぐような短い呼吸をニーニャは何度も繰り返していた。ぬれた目が焦点の合わないまま俺に向いた。それから父さんに向いた。


 父さんは、悄然と、ただ突っ立っていた。


「すっ、ストロース、候の……これっ、までの、働きに、は……感謝、して、い、ます」


 ニーニャはそれでも、君主として振る舞おうとしていた。


「もういいよ、もういいから、ニーニャ」


 ヴィータは強くニーニャを抱きしめた。


「い、え、ヴィータ」


 深紫に縁どられた紺色の瞳をめいっぱい見開いたまま、ニーニャは立ち上がろうとした。一歩目でよろけて、前のめりに倒れた。

 

 俺はほとんど無意識に手を差し伸べていた。


「ニーニャさん」


 なんにも考えられないまま、俺は口を開いている。


「ニーニャさん、ごめんね。俺たちのせいだ。ごめん、ごめんね」


 膝をついてニーニャを抱き寄せた。凍てついたように冷たく硬い体だった。


「聞いて、ニーニャさん。今しんどいよね。辛いよね。たぶん、なにも考えられないよね。だから、最初に頭に浮かんだ言葉を言ってみて」

「さい、しょ、に」

「それがどんなものでも、俺が絶対に叶える。どんなむちゃくちゃなわがままでも、俺がなんとかする」

「なん、で……?」


 問いかけがあった。俺は体を離して、ニーニャの目をじっと見た。


「ここは、ニーニャさんの子ども部屋だから」


 俺はとにかく笑おうとした。たぶんどうしようもなく失敗してたと思うけど、空回りでも強がりでも、笑おうとした。


「こわ、したい」


 ニーニャの目から、涙があふれた。


「こわしたい……壊したい、壊したい!」


 泣きながらニーニャは叫んだ。ありとあらゆるものへの怒りを噴き出しながら、声の限りに叫んだ。


「わたしをばかにして、傷つけて、ふみにじって来たものを全部! わたしからなにもかも奪ったものを全部! わたしに嘘をついてきたものを全部! わたしを、わたしを、利用して! おもちゃみたいに、馬みたいに、道具みたいに扱ってきたもの全部! ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ!」

「よしきた」


 俺はニーニャの肩をぽんぽん叩き、立ち上がった。


「火竜」


 手には、木剣。


「火竜」


 父さんと、兄ちゃんと、ランディと練兵場で打ち合って、ぼろぼろの木剣。


「火竜」


 壁には、俺の刻んだ傷。


「火竜」


 うずくまり、目を伏せる父さん。


「火竜」


 屋根構えフォンターク


 荷重は爪先に。

 深く踏み込む。


 ――そうだ、ミカド。打ち込んでみろ。


降星縁覚乘くだりぼしえんがくじょう


 斬り下ろしオーバーハウ



 手にした木剣が、燃え上がって灰になる。

 斬撃が天蓋付きのベッドを呑み込む。

 鏡台の古い鏡が砕け散る。

 張り出し窓のガラスが溶け、飛散する。

 壁につけた傷が、掻き消える。



 半壊した子ども部屋には、うなだれる父さんが一人、残った。


「立てる?」


 俺が差し伸べた手を、ニーニャは掴んでくれた。

 引っこ抜くようにしてニーニャを立たせる。

 小さな背中に、手を添える。


「帰ろっか、ニーニャさん」


 ニーニャは頷く。

 俺は、振り返らない。



 ホールに出ると、パラクス兄ちゃんがいた。

 フレスコ画にもたれかかって、俺を睨んでいた。


「オマエは、いつも……」

「ごめん。また、なにもかも台無しにしちゃった」


 兄ちゃんは俺に掴みかかった。


「たまには責任と向き合えよ! 壊すだけ壊して欲しいものだけ手に入れて、ぬけぬけと逃げるなよ!」

「分かってるよ、兄ちゃん」

「家督を賭けて勝負しろ! 今、ここでだ!」

「勝負か」


 俺は、かすかな笑みを浮かべている自分にすこし驚いた。


「色んな勝負したよな、兄ちゃんと。遠乗りもしたし、木剣で打ち合った」


 兄ちゃんは俺を突き飛ばした。


「いつもつまらなかったよ。分かるか? オマエが弱すぎて、僕に一度も勝てなかったからだ」

「覚えてるよ、兄ちゃん。いっつも俺が言い出して、いっつも俺が負けてたっけ」

「ああ、そうだったな。またそうしてほしいか? 付き合ってやる。遠乗りだろうが打ち合いだろうがな」


 兄ちゃんは、挑発するように鼻を鳴らした。


「人生で一度ぐらい、僕に勝ってくれよ」


 俺たちは向き合った。


「じゃあ、やろうか」

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