子ども部屋おじさんの帰郷
子ども部屋おじさんの出奔
切れ切れの悪夢に、ニーニャは眠りながら獣のような唸り声をあげた。
花瓶の水の味。
摘ままれた胸に走った痛み。
耳の奥にへばりついた哄笑。
バルタンの呻き声。
「うあああああ……!」
南部の穏やかな日光を瞼の裏に感じて、ニーニャは目を覚ました。
「そっか……おうちでした」
身を起こし、窓外の菩提樹林に目をやって、ぽつりと安堵の言葉をもらす。
ばかげた大きさのベッドから這い出す。
サイドボードには、エーデルワイスの白い花弁を散らした水盤が用意されていた。
顔を洗い、あちこち跳ねた髪にブラシを通すうち、意識が覚醒してくるのを感じる。
グールの襲撃から始まり、モッタ村、ジリー・シッスイの荘園、セヴァン一揆、そして
ややこしことばかり山ほど起こったが、それもようやく落ち着いた。
今日ぐらいはゆっくりと、ノブローのお茶を楽しみながら過ごそう――
「あ! 姫ぴ起きたね! やばいよ!」
冗談抜きに半端じゃない勢いで走ってきたヴィータが、ニーニャを見つけるなり叫んだ。
ニーニャは鼻粘膜に不吉な予感を抱いた。
疲れと精神的危機の予感だ。
「今度はずすんっ」
ニーニャは鼻をすすった。
「今度はなんですか」
「おじぴいなくなっちゃった!」
「えー……?」
「起きてこないから部屋見に行ったの、そしたら書置きが!」
ヴィータはポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出して拡げた。
『ちょっと実家に行ってきます。ご心配なく ミカド・ストロース』
「いいんじゃないですか別に。ご実家に帰ることぐらい誰にでもあるでしょうし」
「いいなら慌ててねーし!」
「それはそうですが」
ミカドが実家に帰ることの危険性について、ニーニャは考えようとした。
廃嫡された
「
言ってみたが、どうもぴんとこない。権力欲とか、民衆の後押しを受けてとか、領主を見限った家臣に擁立されるとか……いずれも、ミカドの身に生じるには程遠い現象に思える。
「分かった、姫ぴ分かった。とにかく追うよ! ウチ馬車出すから! 追いついて、連れ戻す!」
「え? でもご心配なくって書いてますけど」
「あああ!」
ヴィータはニーニャを担ぎあげ、猛然と走り出した。
「お茶……あの、今日はお茶を」
「後で!」
血相を変えたヴィータに怒鳴られたニーニャは、
「……ずすんっ」
鼻をすすって抗議に代えた。
なにがなんだか分からないまま、ニーニャは馬車に揺られていた。セヴァン行きの際にも使った、小さな幌馬車である。
「そこあるもん適当に食べてて」
御者席のヴィータに声をかけられ、ニーニャはぱさぱさのなんか干菓子みたいなものを適当に食べた。
「ヴィータ、いったい何が心配なんですか? クロードおじさん……ストロース候は理性的な方です。ミカドさんだって、いきなり肉親を切り伏せたりしないでしょう」
「あのね、姫ぴは父親属性に弱すぎ」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からなくて、ニーニャはきょとんとした。
「うああ……」
直後、理解がすさまじい速度で心を這い登り、一挙に赤面した。
「しょうがないとは思うよウチも。二歳で親と引きはがされたわけだし。でも子ども部屋になるとか過去そんなんあったことねーよみたいな口説き文句で心を許して――」
「わああああ! わあああああ!」
ニーニャはわーわー言った。ヴィータはため息をついた。
「父親ってさー、いたらいたで良いもんじゃないよ」
出奔し、遍歴の家庭教師として諸邦やアルヴァティアを巡っていたヴィータの言葉である。ニーニャはやや神妙になった。
「結婚を強要したり、女はヒーラーだとか言って
「はじめて聞きました」
「言ってないからね。とにかく、姫ぴの好きぴがなんでもいいけど、ウチ、モッタ村で気になる言葉聞いちゃったし」
――俺にも分かったよ、ヴィータさん。
――重いよなあってこと。背負わせたやつ、ぶちのめしてやりたいよ。
「分かる? ぶちのめしてやりたいんだよおじぴは」
「背負わせた……?」
「いい、姫ぴ。姫ぴがおじぴだったとして、おじぴが集められる情報を総合してみて」
ニーニャは干菓子をかじりながら、口を閉ざした。深紫に縁どられた紺色の瞳が、黙考に深く沈んでいった。
隠し部屋。ハンビットに叛意を抱く廃王女。ミカドとストロース家の確執。
「ミカドさんは、クロードおじさんがわたしに余計なことを吹き込んだと、そういう風に考えているんですか?」
ヴィータは頷いた。
「姫ぴさー、ちょいちょい死のうとするでしょ?」
「死のうとはしてませんけど」
「結果的に死のうとしてんの!」
ヴィータは半べそでニーニャを睨んだ。
「モッタ村のときウチめっちゃ焦ったからね! 死んじゃうと思った! 死んじゃうと思ったあ!」
「ご、ごめんなさい……」
「すぐ死のうとするし、クーデター企んでるし、頭おかしいって思うっしょ普通は! 死のうとしてたらその内ほんとに死んじゃうからね!」
「え? 急にわたしの悪口ですか?」
ニーニャはけっこう傷ついた。
「だから、そういうの全部、おじぴはクロぴのせいにしたいんじゃないの?」
「はああ? いや……うーん。なんか納得いかない」
「じゃあなんでいきなり実家? そんな素振りあった?」
追求されると、反論できるような素材の持ち合わせに欠けていた。
「わたし、ミカドさんのことなんにも知らないな。パラクスにちょっと話を聞いたぐらいです」
いわく、ストロース家のろくでなし、と。パラクスはミカドのことになるとたちまち不機嫌になり、腹違いの弟を言葉少なく罵った。
馬車はいつの間にか、ストロースに入っていた。
冴えない高原はでこぼこに隆起し、崖には褶曲の生んだ縞状ミスリル鉱床が、手つかずのままむきだしになっている。
つまらなそうに草を食っていた野生馬の群れが、馬車に驚き、砂を蹴立てて丘の向こうに駆け去っていく。
トウヒの疎林。
ときおり馬車を跳ね上げる、整備の行き届いていない砕石の街道。
「ううん。ストロースのこともだ」
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