中央集権じゃん

 歩廊の方でどたばた音がすると思って見上げたら、ニーニャが走っていた。

 なんか髪じっとりしてない? え? 土下座って、水中で……? 倒錯的すぎないかなそれ。


「殿下! お待ちしておりました!」


 パラクス兄ちゃんが両手を広げた。


「え、あれ? 殿下?」


 ニーニャは兄ちゃんの横を走り抜け、俺に飛びついた。


 抱き着くというよりほとんどしがみついて、ニーニャは、俺のみぞおちあたりに顔をうずめた。猫みたいに、額をこすりつけてきた。


「ニーニャさん、八つ当たりしてみる?」

「してみます」

「よっしゃ、来いや」


 俺はへらへらして、ニーニャの頭に手を置いた。ニーニャは首をぶんぶん振って、俺の手をはねのけた。


「ごめんなさい。でも、汚いから」

「あの、ニーニャさん、そういう判断をしなきゃなんないの、ごめんだけど難易度高いんだよね俺にはまだ。いずれ慣れてくと思うんだけどさ。それを踏まえて訊ねるんだけど、本当はやってほしい? それとも完膚無きまでに絶対やだ?」


 俺がまじめに訊ねると、ニーニャはくすくす笑ってから、鼻をすすった。


「お願い、ミカドさん」

 

 というわけで俺は、ニーニャの髪に触れた。濡れてくりくりで、きしきししていた。ニーニャはべそべそしながら、甘えるように唸った。


「ひどいことされたね。しんどかったね。どうしよっか。ロシェ山脈まで蹴り飛ばそうか?」

「それ、ミカドさんが言うと冗談にならないです」

「じゃあ今は冗談ってことにしておこう」

「何をやっている、ミカド!」


 ぶちきれた兄ちゃんが、俺に向かってずんずん歩いてきた。


「今すぐ殿下から離れろ、この、このっ……不忠者が!」


 とはいえニーニャを無理に引きはがすのはさすがに躊躇したらしく、兄ちゃんは三歩ぐらい離れたとこから怒鳴ってきた。


「オマエは……! どうして、いつも……!」

「よせ、パラクス」

  

 兄ちゃんの肩に、ごっつい手が置かれた。

 父さんだった。


「お父さま! しかし!」

「よいのだ」


 父さんは俺を見るなり、疲れきったため息をついた。介護同然の日々を思い出したのだろう。


「そうか。殿下に、仕えたのだな」

「うん。まあ、そうだね。そうなってる」


 父さんはなんだかあれこれ言葉を探して、でも、けっきょくは首を振り、ため息をついた。


「そうか」

「あの、えと、俺」


 俺もなんだかあれこれ、言葉を探してみた。だけど全ては今更だった。俺は廃嫡された子ども部屋おじさんだし、父さんは十年にも及ぶ俺の介護で人生を浪費した。


「パラクス、品の無い大声を出すな。行くぞ」

「はい」


 兄ちゃんは俺を一睨みしてから、父さんに続いて歩き出した。


 とまあこんな感じのやり取りを、ニーニャは、至近距離でぽかんと眺めていたわけだ。


「まあその、なんだ。お互い苦労するよね」


 俺はへらへらしながら言った。ニーニャは深紫に縁どられた紺色の瞳を困惑に染め、俺と父さんを交互に見た。


「ミカドさん、ちょっとしゃがんでください」


 意図が分かんなかったので素直にしゃがむと、ニーニャは、俺の頭をぽんぽん撫でた。


「えー? いいよ別にそれは」

「そういう判断をしなければならないの、申し訳ないことに難易度高いんですよね。いずれ慣れるとは思うんですが。それを踏まえてお訊ねするんですが、本当はやってほしいですか? それとも完膚無きまでに絶対いやですか?」


 うわ、きっちりやり返されたじゃん。

 俺たちはそれで、笑った。


「実際やぶさかでないね」

「そうでしょう。パールもこれで慰めたんですよ」


 とにかく俺たちはお互いにどうにかし合って、ハンビットが思いついたという催しを待つことになった。


 やがてごつごつと、存在をめちゃくちゃアピールするような杖の音がした。俺たちは平伏し、陛下の声がかかるまでじっと待った。


「おう、悪ィなどうも。待たせちゃってさァ。楽にしてくれよ」


 緊張したまま、顔を上げる。

 ハンビットは、歩廊から俺たちを見下ろしていた。


「俺さァ、毎日いろいろ考えるわけよ。こう、生かさず殺さずいたぶるための、最適なやり方ってのを。今ンとこ、うまくやれてる気がするんだよな。どうかなァ? へ、へ、へ」


 手すりから身を乗り出して、ハンビットは俺たちを睥睨する。怨念と嘲笑が、タールのようにどろどろと降り注ぐ。


「でも、なンだろうなァ。俺のそういうとこ、分かってないやつがいるわけよ。その、殺さずって部分な。そこが大事なんだよなァ。そうだろ? お前さァ、なァんも分かってねえよ」


 ハンビットはちらっと横を向き、手を挙げて合図を送った。


「陛下! どうか、お許しを! お願いします!」


 後ろ手に縛られたおっさんが、ぎゃあぎゃあ喚きながら兵士に連行されていた。


「バルタン卿……」


 ニーニャが呟いた。あ、あの人が新ゾートーン伯か。一揆を許しちゃったバルタンさんね。あなたのせいで蕃神の依代にぼこられたんだけど。


「バルタン君! お前さァ、せっかくゾートーンくれてやったのに、一揆起こしちゃったらしいじゃんか、えェ?」


 ハンビットはバルタンの肩に腕を回し、耳元でしゃべった。バルタンは青ざめ、がたがた震えていた。釈明しようとか泣き落そうとか、そんな気持ちさえ恐怖に吹き飛んでしまったらしい。


「一揆はさァ、駄目だよ。俺ら中央集権じゃん? 巡り巡ってさァ、王族を吊るせ! ってなったら、責任取れンの?」


 バルタンは首を横に振った。


「取れないよなァ? そりゃそうだ。だって王は俺一人だし。世継ぎもいねェし。いねェっつうかほとんど俺が殺したんだけどさァ、へ、へ、へ! なあ、バルタン君。俺が殺されちゃったらどうなンの? え? 市民革命起きちゃうかもなァ? 自由地域みたいにさァ」


 ハンビットはバルタンを突き飛ばし、歩廊にごろっと転がした。


「農民はさァ、俺、許すわけよ。まともなこと言ってんじゃん? ある日急にさァ升がでかくなっててさァ、はい今日からはこれではかって納税ねって言われたらさァ、びっくりしちゃうよ俺だったら。遊水地に課税すんねって言われたらさァ、治水は領主の仕事じゃねェかなァ? って思うよね。俺、なんだろうな、そういう人の痛みってすぐ分かっちゃうんだよね。幽閉されてたことあるもんで」

「陛下、ああ、陛下、お願いです、どうか、どうか……」


 バルタンの腰に足を乗せ、ハンビットはにやにや笑った。楽しんでいるのだ。命乞いを、ハンビットはじっくり味わっている。


「じゃあさァ、誓ってくれよバルタン君。人の痛みに敏感な人間に生まれ変わるって」

「誓います、誓います誓います誓います! 必ず、領民に善政で報います! ですから!」

「よォーし、よく言ったバルタン君!」


 足に力が込もった。


「……えあ?」


 押し転がされたバルタンの体が、中空に投げ出された。


「立派な人間に生まれ変わってくれよなァー! へ、へ、へ!」

「あああああああああ!?」


 俺はとっさに、ニーニャの顔を手で覆った。

 奇妙な音がした。肉を巻いた枯れ枝を一息に折るような、人体の潰れる音だった。

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