湖中神の夢引き

「え……え?」


 血相を変えたパールが、俺を見下ろしている。


「すまない、ミカド殿。しかし、異常は明らかだったのでな」


 どうやら俺はパールにひっくり返されたらしい。


「やーごめん、助かった」


 俺はよたよた起き上がり、腕をさすった。異常はない。大丈夫だ。


夢引ゆめびき食らっちゃったよ。相手は湖中神こちゅうしんだね」

「あの、ミカドさん、ほんとに大丈夫なんですか?」

「平気平気。えーと湖中神か、どんなんだったっけな……」


 俺は椅子に座りなおし、ペーターが用意してくれたワインをやりながら、オージュ師匠の言葉を思い出そうとした。

 師匠は研究の合間を縫って、俺にいろんなことを教えてくれた。カーネイ流制圧術も、蕃神についての知識も。


 ――湖中神は降ろしやすい神格ですね。睡眠時の夢を書き換える夢引きによって信徒を増やし、信者の心身を操作します。これを従者化といいます。


 ふむふむ。


 ――降ろしやすさと脅威度はバーターです。心身操作にいくつかの手順を踏まなければならない分、湖中神はそこまで恐ろしい蕃神とは言えないでしょう。


 お、ほいでほいで?


 ――神には固有名がないのか。なるほど。興味深い質問ですね。


 あーそうだ、俺この辺で興味が逸れちゃったんだよな。神ならこう、なんか、かっこいい名前ぐらいあってもいいんじゃないかって思ったんだ。


 ――名を言うをはばかる、ですよ、ミカドくん。おそらく、湖中神にも名はあったのでしょう。しかし、今となっては時の中に埋もれています。それを掘り起こすのは人文学者の仕事でしょうね。そうそう、かつて魔学院アンスティツには、とても優秀な人文学者がいまして……


 また師匠も長生きだからさ、話が逸れたら逸れっぱなしなんだよな。


「夢引きと従者化のみで、十分な脅威のように思えるが……」

「もっとやべーのがいくらでもいるってことだね。湖中神でまだましだったと思おうか、パールさん」


 胸に手を当てる。悪夢を見た後のような、不愉快な動悸は収まっている。

 薄く削いだハードチーズを口に詰め込んで、俺は立ち上がった。


「じゃあ俺ちょっと、儀式の中心見つけて潰してくるよ」

「ミカドさん……」


 ニーニャが、もの問いたげに俺を見上げていた。


「保証はできないけどね。やるだけはやってみる」


 十七歳の俺だったら、蕃神だろうとぶっ殺せたかもしれない。しかし今の俺は、十年に及ぶ子ども部屋生活でふぬけきっている。まともな武器もない。


「それじゃパールさん、なんかあったらニーニャを守ってあげてね。言われるまでもないと思うけど」


 パールはうなずき、壁に立てかけていた紋章入りの円盾を取った。


「バーレイの盾にかけて」


 赤地に威嚇する山猫。バーレイ家の紋章だ。

 サムライが刀を、召喚士サモナーが指揮杖を帯びるように、ジョブには一対応する主器がある。主器あらばこそ、ジョブはその本領を発揮できる。

 ナイトであれば、盾が主器となるわけだ。


 星辰剣士ゾディアックフェンサーには、綵剣あやつるぎと呼ばれる主器がある。これがかなり高価で、職人もそういない。国内に現存するのは実家……じゃなくてストロース家の“悪疫ダークプレイグ”だけかもしんないな。

 “悪疫”があればなー、と思う局面はこれまでいっぱいあったし今もそうなんだけど、まあ無いものねだりしてもね。


「よし、やったろうかい――白梟シロフクロウ


 再び、INT強化の護符チャームを点す。たちまち、金縛りの前兆みたいな不快感が体を締め付ける。湖中神の夢引きだ。


「……花冠ハナカンムリ


 デバフ耐性の護符を点すと、不愉快な痺れは引いた。


「白梟」


 もうひとつ、白梟を点灯する。

 魔力の流れが、ありありと見えた。


「大きいのと小さいの、流れが二つ。大きい方はでかすぎて捉えきれないけど、塔の中腹から出てる小さい流れは、たぶん儀式隠しの秘匿だね」

「中腹であれば、図書室だな」

「ありがと、パールさん。図書室ね。ニーニャさんがやってたあれみたいなやつだ、隠し部屋。ほんなら行ってくるね」


 部屋の外に出て、後ろ手に扉を閉める。螺旋階段のある吹き抜けだった。闇の底からぬるく不吉な風が吹きあがった。

 俺は手すりを乗り越えて、闇に身を投げ出した。


 胸を搔き乱すような慕情。

 存在しない故郷に焦がれ、還りたいと思う苦しさ。

 神々の仕掛けた、さみしさの罠。


神鳴カンナリ、神鳴、神鳴」


 AGI強化のチャームを三つ点す。ここまで加速すると、空気は強い粘性を帯びた流動体に感じられる。

 空気を蹴とばして、肉体を水平に投射する。

 手すりを掴んで勢いそのままに倒立、手を放し、空中でくるくるっと五回転して勢いを殺し、着地。


「花冠、筬虫オサムシ、筬虫、白梟……っはぁ!」


 俺は曲げた膝に手を突き、ぜえぜえ息をした。神鳴を四つも五つも気安くぽんぽん点せない理由が、これだ。タールの海にでも落ちたように、息ができなくなる。さっさとバフを押し出さないと、呼吸困難で死ぬ。


「いやでも、けっこう動けんじゃんね俺」


 グールのガッシュとやり合ったときは、直後にもどして失神した。

 モッタ村で化け物を殺したときは、久しぶりすぎるフルバフでへばりきった。

 地侍のダン・パラークシ戦では、あほみたいなことをして腕が折れた。

 そしてついさっき、オージュ師匠に翼緘つばさがらみを極められ……いやまあそれは師匠相手だから仕方ない。とにかく、なんだかんだでちょっとずつ、勘を取り戻してきてるな。

 それがいいのか悪いのかは知らんけど。


 螺旋階段の踊り場は、パイン材の分厚い扉に続いている。押し開けると、伯爵の図書室だった。

 輪っかの一部を切り取った扇形の部屋は、どろっとした魔力が淀み、なかば深淵化していた。


「こりゃすごいな。意味ないだろ秘匿」


 魔力感知の教育を受けていない人間でも、嫌な予感とか胸騒ぎをおぼえて忌避するだろう。


 歩いて、見て回る。書棚の一つが、あからさまに幻影だった。触れると、表面が波打つ。俺はそのまま、一歩踏み込んだ。


 黒い沼があった。


 ぬちゃぬちゃと、ぬめった体をこすり合わせるような音。水に息を吹き込むような、ごぼごぼという音。


「あ、やば」


 振り返ると、戻る通路は消えていた。


 沼に、かすかな光が灯った。

 水面が揺れた。


 鋭い痛み。


 左胸に、湾曲した棘が突き刺さっていた。

 棘は引きずり出された腸のような触手に続き、触手は沼に続いていた。


 血管に、冷たくぬるりとした液体が流れ込んでくるような感覚。力が、魂に触れようとしている。


「うそだろ」


 俺は、むしろ笑った。


「罠じゃんこれ」

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