かなしく見えたよ。
「殿下に不敬を働いてしまいましたからね。ほとぼりが冷めるまでは隠れていますよ」
「どうぞお好きなだけ。攫っといて言うことじゃないですけど」
「あぶぶぶぶぶ」
「しかしまあ、サー・ノブロー。こんなにみっともなく取り乱すことまで、当然にしちゃっていいもんですかね?」
「恨みつらみに理屈をぶつけても、だれの気も休まりませんよ、ヤコブさん」
「そりゃあ、そうでしょうが」
「そうそう、ジリーさん。私の身の上話が、まだ途中でしたね」
ジリーは根深い疑惑の目線をノブローに向けた。
「そう長い話にはなりませんよ。私が、たっぷりの不安と将来への絶望を抱え、天領あらためブラドーに向かったところからです」
「どうせまた、わしの気持ちをいいように弄ぶつもりじゃろうが」
「もちろん、そのつもりです」
「うぐぅううう……」
ヤコブはげらげら笑った。
「負け戦を見届けるよりすこし早く、私は王都を発ちました。ほんのわずか遅れていれば、きっと処刑されていたでしょうね。ハンビット陛下は、文字通りの大なたを振るわれましたから。つまり、行政官や宮中貴族の首を物理的に落としたのですよ」
「こわー……」
「私は、人生の袋小路めがけて突き進む馬車の中で、いっそ死にたいぐらいの虚しい気持ちでいました。生涯に大それた夢などなくとも、大づかみの計画ぐらいはあるものです。ジリーさんはどうでしたか?」
「わしはそりゃあ、父上の財産を引き継いで、うまいめしといい女じゃよ。死ぬまで続く最上の享楽じゃ! けひひひ!」
あっさり乗せられて、ジリーは俗っぽい笑い声をあげた。
「それが一挙に絶たれて、もうどうしても回復の見込みがないわけです。王都には愚王ハンビットとその蒙昧な臣下がのさばり……失礼! 上天の妙なる祝福に満ちた、いと麗しき古き
「ええぞ、ノブローさん! もっと腹を割るのじゃ! ハンビットはくそあほでくのぼうと言ってやれ!」
ジリーは天に拳を突き上げて叫んだ。ヤコブはさすがに笑えなくなってきたのか、眼のすぐ下をひきつらせた。
「いくらでも言ってやりますよ。かつて内乱で南部を荒らし、今はカルタン伯国の手先となってアルヴァティア全土を収奪する完璧な国賊、とでもね」
「そうじゃそうじゃ! くうぅー! うすのろ! ばか! 汚いどじょう! ぽこちん野郎!」
「ジリー様、そのへんにしときましょうや。あほの上塗りですよ」
ヤコブは、興奮しはじめたジリーの肩をかなり強めに揺さぶった。
「ブラドーの代官を、アールヴ陛下も王妃ローヌ陛下も、ほとんどくじ引き同然に決められたのでしょう。戦争にも戦後処理にも役立たずで、人の好さだけはよく、たいした野心もない、使い潰せる下等官。私は自身のそういう立場を、まざまざと突きつけられたわけです」
「ぐうう! 分かる、分かりすぎる……!」
「暗澹のどん底にいる思いで、私はお屋敷にたどり着きました。とても感じのいい荘館で、庭に
「うん、うんうん、うんうんうんうん! 実際、ノブローさんのおっしゃる通りで……貧乏はなあ、友も伴侶も得られないということなんじゃなあ!」
ジリーはさめざめと泣いた。
「そこに、殿下がおいでになったんです」
ノブローは追慕の笑みを笑った。
「青ざめた顔で後を追う乳母を振り切ろうと、二歳の小さな体で、一生懸命に走っていました。そのころから、いかに人を困らせるか腐心するようなところはお変わりないんです」
「雰囲気で流されたけど、俺ら小ばかにされましたしね殿下に」
「とんだご迷惑をおかけしました」
ノブローはおどけた調子で頭を下げ、ヤコブは笑って謝罪を受け入れた。
「私のすぐ前まで走ってきて、殿下は、だしぬけに転びました。顔から、石畳に突っ込んだんです。ぱっと顔を上げて、おでこと鼻をすりむいていて、私と目が合いました。私は――私は、駆け寄って、膝をついていました。本当に思いがけず、体が動いたのです。大丈夫? とたずねると、殿下はちょっとぽかんとしたあと、湖畔まで届くような声で大泣きしはじめました」
ヤコブもジリーも、同じように笑った。容易に想像できる情景だった。
「なんでしょうねえ。そういうときって、それまで考えたこともないような言葉をかけてさしあげたくなるんですよ。だいじょうぶだよとか、すぐ痛くなくなるよとか、この世界はおおむね平和でやさしくて、なんの心配もないんだよとか。そして実際に、私は口走ったわけです」
――あなたの生は祝福されていて、たくさんの喜びに満ちています。ひとときの痛みはきっとすぐに癒されて、これからずっと、平和で穏やかな暮らしを送れるんですよ。
「殿下のご身上を思えば、恥知らずもいいところの嘘八百でした。実際、反帝国派はあの手この手で殿下を取り込もうとしているのですからね」
ノブローは眉根をかすかにひそめ、唇の端を自嘲に持ち上げた。
「殿下は……殿下は泣きやんで、とつぜん、私に抱き着きました。いえ、あれは私を抱きしめてくださったのです。だって殿下は、狼狽する私に、こう仰ったのですから」
――かなしく見えたよ。
「あわれんでくださったのですよ。私のことなど、何もご存じないのに。私は、私のことばかり考えて、殿下にすこしも思いを巡らせなかったのに」
ジリーもヤコブもすっかり押し黙って、ノブローの話を聞いていた。
「ですから、両陛下の企まれた通りにことが運んだのでしょう。人の好さだけはよく、たいした野心もない、使い潰せる下等官は、適任だったわけです」
ノブローは苦笑を浮かべた。
「小さな
話を終えたノブローは、おどけた表情を浮かべて髪をかきあげた。
ニーニャは、泣いていた。
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