ノブロー・コッデス
「十五年前のことです。ルッツェン
「ほお、そりゃあ……優秀だったんじゃのう、ノブローさんは」
「どうでしょうね。たまさかの幸運というものが人生にはあるものです。
ノブローはお茶のお代わりを注ぎ、懐から包みを取り出した。
「まあ私は、良くも悪くも凡庸な代官でした。ついつい賄賂を受け取って、豪商を減免したり。小作人の恨み節を、見て見ぬふりしたり。不作が起きれば減税して、足りない税収を私財で埋め合わせたり。どうぞジリーさん、お茶請けに。くるみのヌガーです」
「こりゃあどうも……ううん、美味いのう」
「ありがとうございます、私の手製ですよ。それで、湖水地方のゾートーンは、西部と言っても気風が穏やかですからね。さしたる問題も起きず、このまま生きていくのだろうなと思っていました。妻を迎えて、子どもを作って、運が良ければその子が
「……そうはいかなかったんじゃなあ」
「そうはいかなかったんですね、これが」
二人は苦笑を浮かべた。
「冬戦争の気配が濃くなったある日、王宮に呼び出されましてね。何事かと参じてみれば、南部の天領を、ニーニャ殿下に
「分かる! 分かりますぞ、貧乏くじを引かされる感覚! なんでワシなんじゃあ! 分かっとる、他におらんかったことは分かっとる! じゃがそれでも、なんでと言いたい! 声を大にして! ぐううぅ! ノブローさん、ご苦労……ご苦労なさって!」
ジリーは男泣きに泣いた。
「そんなわけで、私は豊かな湖水地方に別れを告げて、天領あらためブラドーにやってきたのです。そして今、こうしてあなたとお茶をしています」
「くうう! なんという……なんという人生じゃあ! 本当に、わしゃ、他人事とは思えんわい!」
「ありがとうございます」
頭を下げ、カップを置き、ノブローはゆっくりと息を吐いた。
「ところで、ジリーさん。あなたの問いにまだ答えていませんでしたね」
「え? ああー、つまりその、どうして親切にしてくれるかっていう……いやそれは、わしの人生に同情してくれたからでは」
「人間が平常でいられるときというのは、およそどんな場合でしょう、ジリーさん。それはね、期待していないときですよ」
ノブローの謎めいた言葉を噛みしめながら、ジリーの顔はどんどん蒼白になっていった。
「そりゃあ、あんた、つまり、どぐされ廃王女は……違う違う、殿下は、あんたを助けに来んというのか?」
「助けには来ないでしょう」
「うううっ!」
ジリーは腹を抑えた。腸に鋭い痛みが走っているのだ。
「なんじゃその、意味深な……ちょうどいい大義を得て、わしらを滅ぼしにでも来るみたいな!」
「どぐされ廃王女ですからね。それとも、ぼんくらあほんだら廃王女でしたか」
「そ、それはそのっ、言葉、そう、言葉の間違いで!」
「いえ、ジリー・シッスイ。あなたたちが王家に抱く憎悪は、正当なものでしょう。どんな理由であれ、この地は棄てられたのですから。棄て子に、親の正しさを信じる義理はありませんよ」
ジリーは、口をあんぐり開けた。人の好さそうなこの男が奥深くに隠す、なにか底知れないものの一端に触れたような思いだった。
「しかし殿下にも、あなたを許す義理はありません」
思わず、ジリーは息を呑んだ。ようやくジリーは理解したのだ。この男は、ガードを下げさせてから強い一撃を叩き込むため、身の上話を披露してみせたのだと。
「どんな……どんな悪魔なんじゃ、ニーニャ・ブラドーは」
ノブローは、かすかに笑った。
「天使のようにかわいらしい子ですよ。復讐も王権も、似合わないような」
◇
「こどばばじゃはだびずがどばだだいぅでずお!」
水っぱなを垂らしながら四阿にやって来るなり、ニーニャは叫んだ。
「え? ニーニャさんなんて?」
「こどばばじゃはだびずがどばだだいぅでずお!」
「きれいに一字一句揃えて繰り返したじゃん。そうだね、ノブローさんがいないと、このままじゃ鼻水が止まんないよね」
「っぷしん!」
「うわっ冷たっ」
「はい姫ぴ、ちーんしてちーん」
「ちーん!」
「……姫ぴさー、手まで染みてきたんだけど」
ノブロー誘拐から五日。未だに賊からの要求は無し。ニーニャの鼻粘膜もそろそろ限界だ。
パールはバーレイ荷駄部隊と村人を総動員し、いくつかの手がかりを見つけていた。
「我々は、畦道に五つの足跡を発見しました。足跡の深さが代わる代わる深くなっているのは、重たい荷物を交代で運んでいたからだと考えられます」
とは、パールの弁だ。
つまり賊は、徒歩でのこのこやってきてノブローを攫い、パスしあいながら移動したわけだ。
「この足跡はモッタ村周辺で途切れましたが、野営の痕跡を発見しました。そこに、これが」
パールが見せてくれたのは、刻んだホップの欠片だった。どうやらノブローは、誘拐犯相手にお茶を淹れたらしい。
「筋金入りだなあノブローさん」
俺は感心して言った。
「以上から、サー・ノブローの身はジリー・シッスイの元にあると考えられます」
「ばぢがどう、ばーぅ」
ニーニャは椅子から飛び降りた。
ちーんと鼻を一かみし、水っぱなはぴたっと収まっていた。
「決めました。シッスイ氏のもとに赴き、直接交渉します。ミカドさん、いっしょに来てくれますか?」
「もちろん」
「ヴィータ、パール、二人はお屋敷に残ってください。大人数で行って、シッスイ氏を刺激したくありません」
「おけまるっ」
「はっ」
決まっちゃえば話は早い。おしゃべりして、円満解決するならよし。しないならぶっとばすだけだ。
こうして俺とニーニャは、豪族の領域に踏み込むことになった。
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