塩の道
ホップティー
「……っぷしん!」
湯気に鼻をくすぐられ、ニーニャはちっちゃくくしゃみした。
顔を覆っていた手を放すと、水っぱながでろっと垂れた。
「うあー、ヴィータぁ」
「はい姫ぴ、ちーんして」
ヴィータはハンカチを取り出し、ニーニャの鼻に当てた。
「ちーん……っぷしん!」
「うおっきったなっ! ねー姫ぴ、めちゃ飛び散ってんだけど」
「うー」
「お疲れですね、殿下」
ノブローが麦色のお茶をガラスのカップに注ぎ、はちみつを垂らした。カップの底で、はちみつが陽炎みたいにもやもやした。
「ホップティーです。このところ、よくお眠りになれていないでしょう?」
「……っぷしん! うー、はい、なんで分かるんですか」
「お鼻の具合がよくないようですから」
ニーニャは疲れが鼻粘膜に出るタイプだ。こないだモッタ村から帰ったときも、寝ながらずっと鼻をぴすぴす鳴らしていた。
「んー、いいなあホップティー。しみじみ苦いわ。香りもねえ、いいよねえ」
俺は茶をすすり、しんしんと染みる苦みを楽しんだ。ホップはビール醸造が主用途だが、メディカルハーブとしても愛されている。効果は不眠解消や鎮静作用というが……
「ビール飲みたくなっちゃうなあこれは」
「だねー」
「いやまったく、肉とチーズで
この通り、苦味と華やかな香りが、どうしてもビールを想起させてしまう。鎮静どころではない。
「にが、にが……」
ホップティーを、ニーニャは鳥が水を飲むみたいにちまちま呑んだ。
「殿下、お茶請けにこちらをどうぞ。くるみ入りのヌガーです」
「あま、あま……ねち、ねち……」
味の感想に知性のカケラもない。これは、だいぶ弱ってるなあ。
「ニーニャさん、しんどいこと考えてる?」
俺がそう聞くと、ニーニャは「べっつにぃー?」みたいな感じであらぬ方向を見た。あらぬ方向すぎて白目むいたみたいになっちゃってるよ。
「当てようか。南部の豪族のことでしょ」
「うっぐっ」
ニーニャはうめいた。当たりだったらしい。やったね。
「なんで? 待っ……ミカドさん、なんで?」
「こないだやった机上演習、地形的にシュメーダン川だったでしょ? 南部で一戦あることを想定してるんだよね、ニーニャさん」
「うごごごごご」
うごごごごご?
「で、ジリー・シッスイがモッタ村を荒らしに来ちゃった。大量の飢えた連中が、今後もどばどば押し寄せてくるかもしれない」
農民が死ぬ時期っていうのは決まっていて、だいたい初夏の端境期だ。食べのばしてきた食糧が尽きて、収穫もまだ先で、ばたばた飢え死にしてしまう。
当然、死ぬぐらいなら略奪するだろう。戦死してくれれば口減らしにもなる。
「……いつか来るとは思っていたんです。モッタ村は、豪族の支配領域に近いですから」
「とうとう出会っちゃったわけだ」
「とうとう出会っちゃいましたね。でも、それだけじゃありません」
ニーニャはため息をつき、カップを置いた。
「南部が荒れているのは、王家のせいなんです」
南朝征伐。三十年前、国を二つに割った内戦だ。
南アルヴァティア帝国を建国したのは、幽閉王ハンビット。この男は、ニーニャの叔父に当たる。
内戦で荒れ果てた南部を立て直す余裕は、アルヴァティアになかった。地方の有力者は三十年かけてじわじわ住民の支持を集め、豪族化していったのだろう。
「そか。ニーニャさんは責任を感じてるんだね」
「感じているというか……当然、王家の負うべき責ですから」
そんな必要、どこにもないとは思うけどな。
まあ王族でもなんでもない、ただの子ども部屋おじさんがどうこう言えるわけじゃなし。
いっしょに解決方法を検討するのが建設的だろう。
「
「そうですね。武力でどうこうするには、数が足りません。それに、あんまりやりたくないです」
「姫ぴなら、そだよね」
「ディベートとして言っただけなのは分かってますよ、ヴィータ。有効なら、採り得る選択肢ではありますが」
「じゃーやっぱ、顔合わせしかないじゃんね」
武力制圧ができないなら、まずは有力者と接触するしかない。ニーニャ自身が、モッタ村のリッケン村長に説明していた通りだ。
「うーん、これはしんどいわ。寝不足にもなるよなあ。ノブローさんは――あれ?」
なんか、ノブローがいなかった。
「ノブぴ? 醸造所の方歩いてったけど」
「ええ? もしかしてビール取りに行ったのかな? 気を利かせすぎでしょ」
「おじぴも分かってきたっしょ? ノブぴの前でうかつに願い言ったらだめだし」
「引き換えに魂取ってく悪魔みたいに言うじゃん」
俺たちはそれでちょっと笑い、しばらくノブローをイジった。
そしてその日から、ノブローは姿を消した。
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