南朝征伐
「ハァーッ……ハァッ、ハァッ……んッぐッ」
「お嬢、大丈夫ですかい?」
胸を押さえて苦しむパールに声をかけたのは、バーレイ家臣団の最古参、黒ひげのドゥームだった。
「問題ない」
輜重車に手をかけ、よたよた歩きながらパールは答えた。
「問題ないって、脂汗で池ができちまいそうですぜ、お嬢」
「だったら魚でも棲ませておけ」
ドゥームは儀礼的に笑った。
「まあ、お嬢の気持ちは分かりやすがね。なんたってミカド・ストロースだ」
「みかっ――すとっ――あがッ」
「こりゃだめだ」
「はぁー……よし、問題ない。大丈夫だ。私は戻る。ここは頼んだぞ、ドゥーム」
パールは輜重車から離れてちゃきちゃき歩き、自分の足を蹴とばしてすっころんだ。ドゥームはため息をついた。
「要らん! 一人で立てる! 私はパール・バーレイだぞ!」
手を差し伸べる部下に怒鳴り散らし、輜重車につかまって立ち上がろうとし、
「あががががが!」
当たり前だが荷車は動いているので、パールはそのまま引きずられていった。
「要らんっがががが! 一人で! 立てぁがががががががーレイだぞ!」
ドゥームはけっこう戦慄し、遠ざかっていくパールを見送った。
「ドゥームさん、ありゃなんすか? お嬢、どうしちゃったんすか? いや、どんくせえのはいつものことですが」
若い男が、ドゥームにひそひそ声でたずねた。
「おまえさん、冬戦争の頃はまだ七つにもなんねえか。そんなら、ミカド・ストロースのことも知らんだろうな」
「俺はタガチの生まれですし。端っこの寒村っすよ。でも、それ言ったらお嬢もですよね? 五歳とかそんぐらいのころの話でしょう?」
「フェーヴの旦那よ」
ドゥームはあごひげをしごき、パールの父の名を口にした。
「旦那とミカド殿は、戦場を共にしたことがある。んでなあ、旦那はミカド殿の戦いぶりにえらく感銘を受けちまって、お嬢にあれこれ吹き込んだんだな。あることねえこと」
「
「あっちの湖はミカドが作っただの、そっちの谷もミカドが作っただの、剣の一振りで三万人殺しただのな」
「神話じゃないすか」
若者は笑った。
「フェーヴの旦那が最後まで反帝国派をやれたのも、救国の英雄に心底惚れこんじまったからだろうなあ。ま、ミカド殿にとっちゃあ迷惑な話よ」
「そうでしょうね。おれだったらごめんだな」
「ローヌ陛下を死なせちまって、むざむざ生き残っちまって、そのうえまだ英雄をやれなんて言われるのはなあ」
「んで、お嬢はフェーヴ様の話を真に受けちまったわけですね」
「私も湖を作るんだ! って、その日から剣一筋よ」
二人の家臣は大笑いしてから、戻れない日々への追憶にちょっとしんみりした。
「事情はな、ニーニャ姫もそうだろうな」
ドゥームはぽつりと言った。
「わしらみてえなどうでもいい連中が自由に生きられて、才ある英雄だの姫さまだのは、人の夢を引き受けなきゃなんねえ。やりきれねえ話じゃねえか」
「ほんと、そうっすね。ブラドー領の俗悪廃王女、か」
ニーニャがいるはずの先頭に、二人は目を向けた。バーレイ荷駄部隊は森を大きく迂回しながら進軍しており、ニーニャの姿は見えない。
かわりに二人の眼に映ったのは、まだ輜重車に引きずられているパールの姿だった。
「あがっあがががっがっ」
声もだんだん弱くなっていた。
「いけねえ! お嬢を助けねえと! 行くぞ!」
「へい!」
大荷物を抱えたまま、二人は主人救出のため走り出した。
◇
丸一日かけて、俺たちはモッタ村に辿りついた。
ニーニャはバーレイ荷駄部隊をトウヒの林に忍ばせ、俺とヴィータを連れて入村した。
モッタ村は、森の端っこにある殺風景な寒村だった。
製材所では壊れかけの水車がのろのろと回り、鋸は絞め殺されてる最中みたいな音で丸太を挽いている。
ぱっさぱさの土に植わった甜菜はひどく痩せ、葉っぱがしおれている。
わずかなとうもろこし畑は、ずたぼろになっている。賊が刈り倒していったらしい。
苔むした板葺き屋根の建物が畑の合間にぽつぽつ並んでいる。
人気は、あんまり感じられない。
要するに、ひどいありさまだった。
それと同時に、違和感があった。
なにもかもが今すぐ自然に還りそうな雰囲気なのだ。
「ニーニャさん、何年前からこんなことやってたの?」
「ヴィータが来てくれてからだから、五年前ですね。見た目はこうですけど、モッタ村はもう利益を産んでますよ」
だったら、色んなものがもう少しぴかぴかしててもいいはずだ。
と、そこまで考えて俺は原因に思い至った。
「
ニーニャはうなずいた。
「たくさんの村人が、アルヴァティア南部から逃げ出しました。そうして放棄された村や耕地に、人を流して開発しているんです」
「モッタ村はまだましだし。荒れ地になってるとこばっかっしょ南部は」
「そうだろうね、ヴィータさん。俺が生まれる前の話だよ、南朝征伐なんて」
三十年ぐらい前に、内戦があった。
アールヴ王とローヌ王妃は轡を並べて親征し、自らの手でハンビットを捕えた。
王宮地下牢にぶちこまれたハンビットは今、カルタン伯国の離間工作の一環として玉座に座っている。
「南アルヴァティア帝国だった土地がブラドーになって、
ニーニャは拳を固く握り、ぎりっと音が鳴るぐらい奥歯を噛みしめた。
“幽閉王”ハンビットは、ニーニャにとって討つべき敵なんだな。
この廃王女はクーデターをもくろんでるんだから、当然っちゃ当然なんだけど。
「今はモッタ村のことです。先触れを出しましたから、みなさん広場に集まっているはずですよ。ヴィータ、ミカドさん、行きましょう」
「おけまるっ」
木立を抜けると、河岸段丘の涙ぐましい平面にほそぼそと家が立ち並ぶ、小さな集落だった。
広場というのは、比較的平たく、比較的地面が均された場所のことを言うらしい。そこに百人ほどの村人が集まっていた。
「ニーニャ様!」
木々の合間から現れたニーニャを見つけ、村人がわあっと叫んだ。
「ニーニャ様が来てくれた!」「ああ、姫殿下! 姫殿下のご
こないだ戦ったグールよりもなお汚い服を着て、みんな、ぬかづいている。
ニーニャは俺たちを立たせ、村人の方に歩いて行った。俺と村人の中間ぐらいのところに立って、ひれ伏す村人に向き合った。
「んくくくくくっ」
そして、嗤った。
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