タクシー

@9630

タクシー

 高村は疲れていた。ひどい疲れといっていい。会社の正面玄関から外へ出ると、初冬のひんやりとした空気が彼を包み込んだ。立ち止まって腕時計を見る。午後九時。

「今日はずいぶん早く上がれたな。奇跡だ」

 ひとり言を言うくらいの体力しか残っていない。とてもじゃないが疲れた体にムチを打って駅まで歩き、込み合った電車に揺られる気分ではなかった。高村は歩道を横切り、会社に面した大通りまで出ると、タクシーを探す。

 あたり前に電車は動いている時間だし、遊びほうけている連中が帰るにはまだまだ早い。この日は土曜日だったがタクシーもすぐつかまると思った。行き交うヘッドライトのまぶしさに目を細めながら、しばし待つ。案の定、すぐに一台のタクシーが近づいてきた。


 個人タクシーだった。しめた、と高村は思った。個人タクシーを開業するための条件の厳しさを高村は知っていた。たしか、十年を超える運転経験が必要だし、年数は忘れたが長期間の無事故無違反も開業の条件だったはずだ。

 くたくたに疲れているのにタクシー業務初心者に当たり、いちいち道案内をしたくなかったし、こっちが疲れているのにべらべらと話しかけられたくもなかった。経験年数が豊富ということはそれだけ道路事情に詳しいはずだし、疲れた客の空気を読んでくれる確率も高い。なにより、無事故無違反のそつのない運転で高村は運ばれたかった。

 高村は手を上げ、タクシーにアピールする。疲れで、手を上げるのさえ億劫だ。高村の前にブルーのラインが入り、「個人」と書かれたあんどんをのせた真っ白なタクシーがスーッと停車する。少し小ぶりなタイプだがBMWだ。悪くない、と高村は思う。スモークフィルムが貼られた後部座席の窓に、疲れ切った三十五歳の男の顔がうつる。ひどい姿だった。髪の毛はボサボサで、ワイシャツはシワだらけ。スーツに張りは無く、もう夜なのに目の下のくまをはっきりと確認できた。


 ぱかっと開いたドアから後部座席に乗り込む。

「こんばんは、お客さん。どちらまで」

 黒いパーカーを着た、五十歳前後とおぼしき男が愛想笑いで出迎える。

 行き先を告げる前に高村は気づく。タバコのにおいがする。それもついさっき吸ったばかりのような新鮮なにおいだ。時代が時代だ。タクシー会社の中には全車両禁煙をうたうところも珍しくない。個人タクシーだからと言って時代の波に逆らっていては、客足に影響するのではないか。高村はそんなことを思ったが、自身、以前は吸っていたのでにおいは気にならなかったし、もう一度タクシーを探す気力も無い。だから半ば投げやりな口調で行き先を告げる。

「松戸まで」

「あー……、ちょっと待ってくださいね」

 運転手はそう言うと、備え付けられたカーナビをいじり始めた。それを見て高村は心の中で舌打ちをした。ツイてないと思った。経験年数が最低でも十年あるはずじゃないのか? べつに珍しい地名を言った覚えはない。都心を十年も走る運転手ならカーナビなんかに頼らずとも、スッと出発できそうなものだ。それともこいつは十年の経験を東京近郊ではなく、どこかよその場所で積んだのか。そんなのインチキじゃないか。高村はただ、さっさと家まで運んでほしいだけだった。ベッドに倒れこんで泥のように眠りたいだけだったのだ。高村は少しイライラしたが、もちろん顔には出さなかった。

「すいませんね、お客さん。お待たせして。では出発します。シートベルトをお願いします」

 そんなものする気はなかった。毎日毎日終電がなくなるまで、下手をすれば始発が走り出すまで会社に縛られているのに、奇跡的に早く帰れた日にベルトなんてひも切れにまで縛られたくはなかった。事故にでも巻き込まれて“運良く”ケガでもすれば、会社を休む口実ができる。いっそのこと死んじまったほうが、あんな仕事をしているよりはましかもしれない。いや、同じに死ぬのなら過労死の方がいいか。過労死が認定されれば、会社だって色々と困るだろう。思う存分困ればいい。高村は心の中で毒づいた。


「お客さん、お仕事ですか?」

 運転手が話しかけてきた。高村はもちろん面倒くさいと思った。だが無視するわけにもいかない。

「ええ、まあ」

 高村は抑揚の無い声で返す。

「土曜日のこんな時間まで? 大変ですねえ。どんなお仕事なんです?」

 運転手はおおげさな調子で驚いて見せた。そしてまだまだ会話を続けたがっている雰囲気があった。だが高村は家に着くまでのわずかな間だけでも、何も考えずにうたた寝でもしたいと思っていた。ツイてない。ハズレだ。まあ仕方ない。個人タクシーだから言って、必ずしもこっちの空気を読んでくれるわけではない。「黙っててくれ」と言って、車内の空気を悪くするのも高村の望むところではなかった。彼はあきらめて返答する。

「コンピューター関係ですよ」

「へええ、コンピューターですか。なんか、かっこいいですねえ。私なんかそういうのはからっきしダメでしてね。コンピューター関係ってのはつまり……、どんなことをするんですか?」

 高村は勘弁してもらいたいと思った。発言の最後をいちいちこっちへの質問で締めくくりやがる。大ハズレだ。ツイてないったらありゃしない。


 そもそもあんな会社に就職した時点でツイてなかったのだと、高村は思った。

 彼は中小規模のIT企業に勤めている。職業的にはプログラマーというやつだ。「IT業界のプログラマー」と聞けば、何も知らない人間からすれば理知的で、スマートで、時代の最先端を行き、小ぎれいなオフィスでデスクに向かい、パソコンに向かって指をはじいていれば高い給料をもらえる、そんなイメージではなかろうか。実際、高村自身もそんな夢を……、いや、幻想を抱いてこの業界に飛び込んだ。それがそもそもの間違いだったのだ。

 誰もが名前の知るような大手IT企業ならいざ知らず、高村がなんとかもぐりこめる程度の会社の実情は、酷いものだった。

 日進月歩のIT業界。どれだけ世間の耳目を集めるプログラムを作れるか。要するに今の時代、どれだけおもしろいスマホのゲームやらアプリやらを、いかに素早く、それこそ矢継ぎ早に繰り出してユーザーを獲得できるかがカギだ。突然の設計変更、仕様変更は当たり前。予定調和では? と疑いたくなるほど毎度毎度の納期短縮と予算削減。「納期を延ばしてほしい? じゃあいいよ他をあたるから。お宅とはもう契約しないから」というセリフはもう聞き飽きた。IT業者など腐るほどいる。業者間の足の引っ張り合いも日常茶飯事だ。生き残るには無条件でクライアントの言い分を飲むしかない。必然的に激務になる。徹夜で済めば良いほうだ。一週間くらい家に帰っていない社員は珍しくもなんともない。みんな死んだような顔で働き、タバコと栄養ドリンク、それにカップ麺から最低限の養分は取れると信じている。喫煙所でする話と言えば、どこそこの会社のヤツが倒れたとか、あっちの会社が倒産しただとか、近くの会社で自殺騒ぎがあって労災認定が下りただの下りないだの……。そんな話ばかりだ。喫煙所に行くと肺ばかりでなく、心まで病んでくる。だったら物言わぬ液晶モニタに向かって無心で仕事をしていたほうが良い。そう思って高村はタバコをやめた。


「お客さん?」

 運転手がミラー越しにちらりとこちらを見る。ああそうだった。面倒くさい質問の最中だったのだ。高村は物思いにふけってしまっていた。

「ああ、えーと仕事内容ですか? 大したことはしてませんよ。いわゆるプログラマーってやつです。運転手さんもスマホでゲームくらいするでしょ? そういうのを作ってるんです」

 すると運転手は、しゃくにさわるほどおおげさに驚いて見せた。

「へええ! すごいなあ! 私もね、やりますよ。ゲーム。客待ちの時なんかいいヒマつぶしになりますからねえ。私なんかああいうの誰がどうやって作ってるのかまったくわからないから関心するばっかりでねえ。へええ、そうですかあ。ゲームをねえ、すごいなあ……。あ、すいませんタバコ吸ってもいいです?」

 ちょうど信号待ちで止まったタイミングで、運転手はタバコを探す仕草をしながらそう言った。やはりこいつが吸っていたのだ。どうりで車内がタバコくさいわけだ。吸うなというのも角が立つ。かと言って、「喫煙者には肩身の狭い時代だけど、俺には理解力があるぜ」という態度を示すのも気に食わない。

 結局高村は、「どうぞ」と不愛想に返すのが精一杯だった。

「すいませんね。お言葉に甘えて」

 お前が勝手に吸わせろと言ってきたんじゃないか。甘やかした覚えはない。運転手がタバコに火をつけるのを見ながら高村はそう思った。しかもそのまま見ていると、運転手はタバコの煙を盛大に鼻から噴出した。おまけに口からも煙を下向きに、つまりは車内にまき散らした。こいつは本当に十年もタクシー経験があるのか? せめて煙は窓から吐き出すのが礼儀ってものじゃないのか? それとも自分の燻製でもこしらえたいのか?

 信号が青に変わり、車は動き出す。

「でもお客さん。見た感じだいぶお疲れのようですね。その、なんでしたっけ? プ、ラ、グロマー? っていうのはそんなに大変なお仕事なんですか?」

 今日は厄日だろうか。面倒くさい。ツイてない。もちろんツッコむ気も無い。窓の外を流れていく景色を見ながら、やはり電車で帰れば良かったかと、高村はそう思った。そして深呼吸をひとつ、ゆっくりとしてから高村は言う。


「あのね運転手さん……。どんな仕事だって大変だと俺は思いますよ。だからタクシーの運転手だろうが、プログラマーだろうが、タバコ産業の人間だろうが、みんな同じようにお疲れ様だと思いますよ。だけどね、今日の俺がどれだけ疲れているかわかりますか? 土曜日のこんな時間まで大変? 冗談じゃない。うたた寝もさせてくれないタクシーに乗って家に帰るのが何日ぶりだと思いますか? 十日ですよ、と、お、か! 俺は十日間家に帰っていないんですよ。会社の近くのカプセルホテルにでも行くヒマがあればラッキーだ。シャワーを浴びれるだけでも天国だ。コンピューターって聞いてきれいなオフィスでも想像しましたか。とんでもないですよ。何日も風呂に入っていない男どもの、獣のような匂いで充満してますよ。そこにコンビニ弁当を食い散らかした匂いが混じってね、そりゃあもうくさい。くさいんだこれがまた。だけど匂いなんかそこにずっと居たら気にならなくなるしね、だいだい匂いなんか気にしているヒマは無いんですよ。IT業者なんて腐るほどいるんです。ウチみたいな弱小IT企業が生き残るのにはね、仕事を選り好みしてたらあっという間に腐っちまうんです。極端な言い方をすればね、腐った会社が潰れて路頭に迷って自殺するか。別の腐りかけの会社に行って鬱になるまで仕事をして自殺するかのどっちかですよ。そんな業界なんですよ。あーそうだ、ちなみにウチの会社のスローガン教えましょうか? 「来るもの拒まず、去るもの逃さず」ですよ。馬鹿みたいでしょ? 俺も最初は、え? て思いましたよ。でも本当にウチのスローガンなんですよ。全部引き受けちゃうんですよ。それこそ馬鹿みたいに。激務どころじゃない。家に帰ってるヒマなんかありませんよ。あー、なんか疲れた。疲れたなー。そうだ運転手さん。アメリカ。アメリカまで行ってくださいよ。行き先変更。アメリカってどっかの州で安楽死が認められてるんでしょ? そこ、そこに行ってください。もうね、疲れましたよ。俺は、つ、か、れ、ま、し、た! もう眠るように息を引き取りたい。安らかに全てを終わりにしたい。タクシー代は生命保険で払いますから。あーでも、安楽死じゃ保険下りないのかな? アメリカの保険はどうなんだろうなー? あーあ、アメリカに生まれれば良かった。ツイてない。なんで日本なんかに生まれたんだろう? ツイてない。つくづくツイてない」

 そこまで言うと、高村は急に押し黙る。ばかばかしくなってきたのだ。当然と言えば当然だが、運転手はずっと前を向いている。聞いているんだかいないんだかわからない。しかも高村がしゃべっている間、運転手は短くなったタバコを運転席の窓からポイ捨てをし、間髪入れずに次のタバコに火をつけ、豪快に自分の体を燻製にしていた。モラルというものがないのか、この燻製野郎。

「そうですかあ。お客さんも色々と大変なんですねえ」

 高村の意図が伝わったのか、それとも厄介な客だと思ったのか、運転手はひと言、妙に間延びした声でそう言うと、以降はぴたりとしゃべらなくなった。自身がぶちまけてしまった空気の重さを感じながら、高村は目を閉じてじっとしていた。とにかく早く家まで運んでくれと祈りながら。



 道路のちょっとした段差の衝撃で高村はハッ、と目を覚ます。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。腕時計に目をやる。それほど時間はたっていなかった。せいぜい十分程度か。

 今どのあたりを走っているのか。そう思って高村はふと、窓の方を向く。しかしその目に飛び込んできたのは外の景色ではなく、タクシーの窓にいくつか貼ってあるステッカーだった。外側から読めるように貼ってあるため、内側からでは文字が左右反対だ。それでも難しい内容ではない。「カードOK」や、「初乗り¥○○」など、問題なく読むことができる。そのうちの一枚に、高村の視線が釘付けになる。


『禁煙車』


 禁煙車? 確かに禁煙車と書かれている。どういうことだ? さっきから車内は運転手が吸うタバコの煙で、自家用燻製器ばりにもくもくとしている。高村は疑問に思って運転手を見る。何本目かは知らないがやはりタバコを吸っていた。運転手は吸ってもかまわないが、客は禁煙。そんなことがあるだろうか。おかしい。モラルなどという問題ではない。何かがおかしい。運転手に向けた高村の視線が偶然、次の違和感をとらえた。

 少し遠くに、照明に照らされた道路の案内看板が見えた。矢印とともに地名が書かれている。


『横浜』


 その文字に高村は困惑した。横浜だと? 松戸とまるっきり反対方向ではないか。俺は確かに行き先を松戸と告げたはずだ。いったいこのタクシーはどこに向かっているのだ? いや……、待て。そもそもこいつは、このタクシー運転手は本当に運転手なのか―。


 信号が赤に変わった。交差点の先頭でタクシーは停車する。

 高村の視線がよろよろと移動し、バックミラーの中の運転手をとらえる。こちらに気づいた運転手とミラー越しに視線がぶつかる。

「あれ? お客さんお目覚めですかあ? まだ寝てても良かったのに……。“眠るように息を引き取りたい”んじゃなかったでしたっけ?」

 やはり妙な間延びを含んでしゃべりながら運転手は振り向くと、にたあっと、気味の悪い笑顔を見せた。不格好に開いた口からのぞく不揃いで黄ばんだ歯が、よりいっそう不気味さを際立たせている。それでいて目はちっとも笑っていない。正体不明の恐怖感が煙のように忍び寄ってきて、高村は背筋が凍り付くのを感じた。

「こ……、ここで良い。運転手さんここで降ろしてくれ」

 高村は財布を取り出し、清算をしようとした。

「そんなこと言わずにお客さん、一期一会って言うでしょう。もう少しドライブを楽しみましょうよ」

 運転手はそう言うと、にたりとした笑いを顔に張り付けたまま、タバコの煙を勢いよく吐き出す。気味の悪い笑顔。立ち込める煙。得体のしれない運転手。ただならぬ雰囲気に高村はたまらず自分でドアを開けようとした。だが、開かない。ドアはロックされている。

「あ、あれ? なんで開かないんだよ! おい、どういうことだよ!」

 高村は動揺し、パニックにおちいる。ドアロックの解除スイッチも作動しないようだった。

「最近のタクシーってのは便利ですよねえ。ほら、ちかごろは物騒な世の中でしょう? 酔っ払った客にからまれたり、乗せてみたらタクシー強盗だったりねえ。どうやらそういう時のために、後部座席に客を閉じ込められるようになってるみたいなんですよねえ。ひひっ」

 何がおかしいのか運転手は気持ちの悪い笑い声をあげると、ゆっくりと顔を前方に戻した。

 高村は何が何だかわからなかった。こいつはいったい何者なんだ? 少なくとも自分を松戸まで送り届けるつもりがないのは確かだ。いや、そんなことより俺を閉じ込めてどうするつもりだ。いったいどこへ向かっているのだ。ツイてないにもほどがある。自分はこれからどうなってしまうのだ―。


 高村が答えの出ない疑問をぐるぐると巡らせていたその時、交差する道路からかなりの勢いで一台の車がこちらに向かってきて、信号待ちをしていたタクシーの進路をふさぐ形で停車した。わずかに遅れて正面の信号は青に変わったが、代わりに赤色灯の真っ赤な光が高村と、運転手の目を貫いた。続いてけたたましいサイレンの音が今度は耳を貫く。パトカーだった。神奈川県警と書かれている。

 刹那、後方からもサイレンの音が聞こえ、別のパトカーが信号待ちの車列を反対車線にはみ出してかわし、タクシーに横付けする。こちらは警視庁だ。

 高村はあっけにとられてその様子を見守っていた。さらに近づいてくるサイレンの音が、複数聞こえる。タクシーの運転手は両手をハンドルにのせたまま固まっていた。

 パトカーから警察官が降りてきてタクシーを取り囲む。そうこうしているうちにパトカーは何台も押し寄せてきて、あっという間にあたりは赤色灯だらけになる。中には覆面パトカーもいた。

 警察官の一人がタクシーの運転席の窓をたたいて言う。

「運転手さん、ちょっと降りてもらっていいですか?」

 運転手は答えない。それどころか微動だにしない。高村は警察官たちの目当てが運転手だということをなんとか飲み込むと、ものものしい雰囲気とは裏腹に、少し落ち着いてきた。この運転手がいったい何をしたのかは知らないが、これだけの人数に囲まれたらさすがにあきらめるだろう。助かった、と高村は思った。心に安堵が広がるのを感じた。


「……お客さん」

 だからさっきまでとは全然違って低く、野太い声で急に呼びかけられて、高村はどきりとしてしまった。のどが渇いている。それもあってうまく返答できない。

「運転手さん! 早くドアを開けなさい!」

 警察官が強めに窓をたたきながら声も強める。同時にドアハンドルも引っ張っている。警察官の呼びかけを完全に無視して運転手は続ける。

「ツイてませんでしたねえ。お客さん」

「え?」

 その言葉の意味がよくわからず、高村は疑問符を返すのが精いっぱいだった。運転手はこちらを振り向くと、またあの、にたりとした笑顔を見せて言う。

「だって息を引き取りたかったんでしょう? せっかく俺がぶっ殺してやろうと思ったのに。残念でしたねえ。ひひっ」


「持ち主に返す」とわけがわからないことを言って、運転手は着ていたパーカーを車内に脱ぎ捨てると、ロックを解除してドアを開けた。警察官たちに半ば引きずり出されるようなかっこうで車外に連れ出される運転手。抵抗せず、素直に拘束される彼の体が一瞬こちらを向いた。高村は、あっ、と声をあげた。

 運転手はごく普通のスラックスに白いワイシャツを着ていたが、そのワイシャツの正面、胸やおなかのあたりは白ではなくなっていた。赤く染まっている。それも絵の具のような鮮やかな赤ではない。どす黒く変色した血のりの色だった。ワイシャツを、血のりがべったりと赤く染めあげていた。高村は自分の血の気が引く音を聞いた。



 高村が事件の詳細を知ったのは、結局何日か後のことだった。それも警察から聞いたわけではなく、昼間のワイドショーで知ったのだ。

 犯人は五十歳の無職男性。若いころから職を転々としてその日暮らし。稼いだ金もギャンブルやキャバクラに消える日々。勤めていた職場をクビになりアパートも追い出された。ひいきにしていたキャバクラ嬢を頼ろうと訪ねると、あたり前だが冷たくあしらわれる。よほどひどい罵声を浴びせられたのか、その時に殺意が芽生える。

 何日かして、もう一度たのもうとキャバクラ嬢の自宅に押しかけるが、これまた罵声を浴びて逆上。持参した包丁でキャバクラ嬢をメッタ刺し。近くに停車し、休憩中だった個人タクシーの運転手を引きずり降ろしてこれもメッタ刺し。べったりと血のりがついたワイシャツを隠すために、運転手の所持品である黒のパーカーと、さらにはそのタクシーまでも奪い逃走。犯してしまった罪の重さに、犯人は逆に開き直って冷静になり、乗車拒否で目立つよりはむしろ乗せてしまえと客(高村だ)を拾って横浜方面へ走り出す。いざとなれば客は人質にもなりうる。若いころにタクシー会社に勤めていた経験があり、自然な振る舞いで客もまさか殺人犯とは思わなかったのだろう、とワイドショー。

 事実、高村はちっとも気付かなかったわけだ。なぜ横浜方面に向かったかは明らかではないが、実家があって土地勘があったからだの、以前に付き合っていた女がいたからだのとワイドショーは騒いでいた。

 ワイドショーを見ながら高村は思った。犯人がしきりにタバコを吸っていたのは、もちろん気持ちを落ち着かせるためもあっただろうが、べつの意味もあったのではないか。自分の体をやたらと燻製にしていたのは、ワイシャツにべったりとついた血のりのにおいをごまかすためではなかったのか。もう寒い時期だから、夏場ほどにおいは気にならないかもしれない。それでも車内は狭い空間だ。においは充満しやすい。暖房などつけていればなおさらだろう。だから血のりのにおいを消すために、立て続けにタバコをふかしたのではないか。まあ、高村の勝手な推理であるし、今さら確認のしようもないのだが。


 高村は被害者であったが、事件当日はすんなりと帰れたわけではなかった。犯人と同じ車に乗り合わせていたのは間違いないわけで、はじめは重要参考人扱いだった。目撃証言や防犯カメラの映像から単独犯と断定され、すぐに疑いは晴れたのだが、なんだかんだと事情を聴かれ、解放されたのは結局翌日、陽が高く昇ってからだった。

 事情を説明し、精神的に参っているということを理由に何日か休みをもらえるよう会社に電話をした。当然上司は渋ったが、もう心を決めていた高村は、まだ何か言いたそうな雰囲気の上司を無視して電話を切った。


 そして今高村は、しばらく見た記憶の無い真っ昼間のワイドショーを見ながら辞表を書いている。

 もし、あのままどこかに連れ去られて殺されていたら、それは過労死になるのだろうか。高村はふと考える。あの日、あれほど疲れていなければ普通に電車で帰宅していただろうし、そもそも土曜出勤などしていなければ、あんなことに巻き込まれていない。結果、殺されていれば一種の過労死とは言えないか。

 高村は思う。もう少しマシな仕事を探そう、何日も家に帰れないような生活の果てに過労死するにしても、理不尽な事件に巻き込まれて殺されるにしても、今のままでは命がいくつあっても足りない、と。

 高村の思いなど知るよしもなく、ワイドショーは次の話題に移っていた。

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