心囚われて

その後、良司は浮き足立った様なフラフラとした足取りで家へと戻ってきた。

玄関先では、妻の架帆が着替えを用意して待っていた。良司はそれを受け取ると、脱衣場へと向かう。

廊下で彼の様子を伺う妻は、戻ってきた夫のいつもと違った様子に首を傾げた。


「お昼はもう食べるの? 」


架帆の問いかけに、良司はああと生返事をする。リビングのソファーに腰掛け、尚も惚けきっている旦那に、彼女は不振そうに再度声をかける。


「ねえ、さっきからどうしたの?ぼーっとしちゃって 」


「あー、うん。天使がきたから…」


「えっ?何?」


よく分からない事を言う良司に、架帆は聞き返す。


「私の教会に、天使が来てたんだ」


夏の暑さで頭がやられたのかと思う程に、意味不明な事をうわ言のように喋る良司を、呆れた様に見つめる架帆は溜息をつきながら「救急車呼ぶ?」と尋ねた。

しかし、返ってくるのは「はは、呼んだ方がいいかもな 」と明らかに適当な返事だけだ。


「……ねぇ、貴方まさか天使みたいに可愛い女の子が来たとか言わないわよね。変な気おこさないでよ?子供達もいるのに…」


妻の睨みを利かせた冷たい一言に、良司はハッと我に返ったように慌てて答える。


「違うよ、男の子だよ。大学生の! 」


動揺を見せた良司に、妻は一瞬不振な目を向けたが、良司が脱いだ修道服をテキパキと袋に詰めていく。


「へ~。はいはい、良かったわね~」


もう妻はこの話題に興味が無いのだろう。袋を抱えると、パタパタとキッチンへ早足に去っていってしまった。

良司はその後ろ姿をぼーっと見つめる。


その場に取り残された良司の目の前には、いつもの日常光景が広がっている。

塗り絵を楽しむ娘。双子の息子の片割れはテレビに齧り付いている。もう一人は最近通い始めた絵画教室だろうか。


絵画と言えば、あの有名な児童文学の少年は、ルーベンスが描いたキリストの絵を見る事に、生きる希望を見出していた。それが彼が苦しい生活の中で生きるための唯一の救いだったのだろうか。


人間は脆い。一遍の夢、希望、幸せに縋り生きている。そんな中で、一瞬でも奇跡とも思われるモノに触れると、どうしようも無くそれが頭から離れなくなるものだ。

自分は主を信仰しているのは間違いないのだが、実際に今も信仰対象の神は存在しているのかは分からない。ただ、姿無くともその教えを伝える事で人々を救いたいと思っていた。

しかしあの青年を見た時に、やはり神は存在すると確信を得た様な、そんな気持ちになってしまったのだ。

あの天から降り注いだ光を一身に纏う青年を思い浮かべ、良司はポツリを言葉を漏らす。


「本当に…彼は天からの使いだったのではないだろうか」


良司の呟きは誰にも聞こえず、大音量で流れるアニメーションの音声に掻き消えていった。

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