第44話 発動
背中は、不言の造形だ。
その裏側が忙しく形成するのを、静かに見守っている。その裏側の表現は、発生と消滅とを刹那に繰り返す。
そこから生じ漂う粒の一部は、此処に蓄積されていく。隆起した大円筋、引き締まった広背筋。不言にして、雄弁。泰然、清廉、赳武、不屈。無駄な装飾がない分、解り易い。歩んできた道と、背負うものとが香る。
深々たる道場。荒い気と気とがぶつかり合って、永きを得た後に鎮まる場だ。
そんな神域に佇む男の背中は、確かに従者の眼を奪った。
おそらく初めて、勇者に美を見出した瞬間である。
光によって齎された真新しい色は、従者のなかで時を止めた。
「リ、リンちゃん?」
声が、従者を引き戻した。いつの間にか、困惑ぎみの勇者がすぐ近くにいた。
従者は慌てて視線を下げた。視線が交わることを恐れた。視線に運ばれ想いが吸われてしまうことを恐れた。
だが。
下げた視線の先には、彼の者が君臨していた。安眠を妨げし贄を探し出さんと、禍々しく鎌首をもたげて。
・・勇者は従者に接するに際し、肩のタオルを急ぎ腰へと巻いた。だが薄い布生地で、生の体現者を覆い隠すことは勿論不可能だ。寧ろ布生地は、その猛々しさを立体的に際立たせる装置でしかなかった。
逃げるように従者は顔を上げた。視線から奪われる羞恥より、未知なる
「リ、リンちゃん、ごめん。誰も居ないと思って、ぶらぶらしてました。いや違う、ぶらぶらというのはね、つ、つまり、お散歩といった程度の意味で」
「わっ、私こそごめんなさいっ。お食事の時間だから、お知らせに・・」
「あ、ありがとうっ、すぐに、着替えます!お腹ペコペコなんです、助かった!」
「わ、私。外で、お待ちしますからっ」
「駄目だよっ!・・いや外は暗いから。更衣室でささっと着替えるから、ここで二十秒、待っていてくれるかな?」
勇者の表情で、漸く従者の顔が綻んだ。
「わかりました。ゆっくりでいいですよ」
「ありがとう!リンちゃん!十五秒だ!」
勇者は疾風の如く更衣室に飛び込む。従者は慌てて下を向いた。目に入る臀部までが、美しく光った。
火照る頬を両手で冷やしながら、従者はじっと足元を見詰めた。
◇
出発の朝。澄んだ冷気が太陽に触れて、砕けた水晶みたいに煌めいていた。
中庭には二台の大型馬車が並べられ、それを囲うよう警備の兵らが集まっている。
勇者は少し離れた花壇のそばで、眩い空を見上げていた。
警備兵たちが、ざわめいた。
彼らに釣られ、勇者もまた館の戸口へと目を向けた。
先頭に。漆黒の装甲服に編み上げブーツ、黒いマントを颯爽と羽織るアストヘア。
続く。緑のダッフルコートに焦茶のベレー帽、牛乳瓶底眼鏡をついと上げるパコ師匠。
そして。
―― あ、あれが。
水軍式乙型制服・・・
あ、圧倒的じゃないか・・っ! ――
白いスカーフ。
濃紺のトップス。
特徴ある幅広の襟。
その襟と袖口に走る、二本の白いライン。
重厚ともいえるトップスとは逆に、軽い質感を思わせるプリーツスカート。
そのスカートから覗く、脚。
恥じらい光る脚を少しでも隠そうと、伸び上がる紺色のソックス。
足には品の良い、焦げ茶のローファー。
青く硬い実が、徐々に解けて。
甘い滴りが溢れ出るのを。
ときに隠して。
ときに、魅せて。
清楚ゆえの、妖艶。
―― も、もしや。
・・あれと、同じく。
図らずとも、達してしまった。
進化とは、そのようなものだ。
兵たちが、自然と左右に分かれて道をつくった。
微笑みながら、強い目で周囲を慰撫して進む
ときおり躓きつつ、光る瓶底眼鏡を押さえて進む
朝日にも溶けんばかりに上気して、羞じらい震え俯き進む
その景色は兵達を覚醒させた。彼らに誇りを宿らせた。・・木片も、物を載せれば皿となる。載せるものが貴重であればある程に、皿は意味を持つ。三人の女神を護る彼らは、もはや警備兵ではない。衛士だ。
アストヘアが衛士たちの前に立つ。
「手筈とおり。ゾルドの森を抜け
アストヘアの言葉に衛士たちは拳で胸を叩き応と発した。強き響きに驚く小鳥たちが、一斉に青空へと飛び立っていった。
先鋒に、勇者。
やや離れ、前衛として五人の衛士。
その後ろに、十人の衛士に守られた馬車が続く。一台目の御者台に三女神。二台目は荷車らしい。若い二人の衛士が御者台に座る。
後衛は、やはり五人の衛士。
一行は、町の者たちに見送られオーラルを出た。ゾルディック橋を渡り、森へ入る。
橋を渡るとき、勇者は柱のルーラント文字に目を遣った。・・翳は、以前より濃くなっていた。
―― ・・だが。
今は、リンちゃんと聖器だ。
眼前に、注力するしかない ――
橋を渡り切ると、圧が変わった。
勇者の気は、既に森の奥数百メートルへと達し、弱小の妖魔を祓っている。
慎重に、歩を進める。
―― 来た ――
前方より、硬く燃えた気。
勇者は足を止めた。
ややあって、後ろからドンと低い太鼓の音が上がる。パコ師匠の指示を受け、中衛の衛士が発した合図だ。太鼓の音は『出さない』の指示。即ち、『排除せよ』という意味だ。
勇者は馳せる。
前衛を引き離す。
見えた。
赤い、巨軀。
銀の鬣。・・見覚えある、個体。
そいつの赤い眼光を受け止めながら、指示の的確さに舌を巻く。
―― こいつの跳躍力は、確かに脅威だ。
・・馬車に在りながら、その気配で種の識別ができるのか?
パコ師匠。千里眼かよ?・・ ――
レッドパンサーは再び
勇者との距離、5メートル弱。
飛び越えようというのだろう、身を屈めて四肢に力を込めている。
―― やはり、コイツ。なかなかだよ。
でも、させないぜ ――
勇者の腰にあった短剣が音もなくレッドパンサーの前脚に突き刺さった。まるで杭のように掌に撃ち込まれた短剣。『居合』と『投槍』の合わせ技だ。
レッドパンサーは直ぐ悟った。・・前とは違う。変じていなくても、脅威。
彼は指が
ばしゅーっっ
血飛沫を撒き散らし、レッドパンサーは崩れた。
顎下から首元までをすっぱり裂かれたその亡骸に、勇者は手刀を捧げ深く息を吸った。
魂と魄とを分け、受け取る儀式。武者への手向けだ。
勇者は刀身を検める。血はおろか脂曇り一つない。『払暁』の凄まじい力を鎮めんと、そっと鞘に収める。
「勇者殿」
隊長のワルフが駆け寄ってきた。
「アストヘア様から、伺っておりましたが。これ程までとは・・」
「いや。この剣のお陰です。それと皆さんが背を守ってくれていたから。・・随分、気が楽でした」
「従者様は必ず。お任せください」
ワルフは、勇者に向かい深く頭を下げた。
温厚篤実な人柄で、アストヘアの信任厚く部下たちからも慕われるワルフだが、鷹のような風貌そのままに、実に気高い男だ。
その男が、深く頭を下げた。後方で伺っていた部下たちにも、その姿は焼き付いた。
勇者に続く衛士らの動きは、更に鋭く滑らかになった。ひとつの巨大な生き物のように森を進んでいった。
依然として『太鼓』の指示のまま、数頭の魔獣を屠り小休止に入ろうとしたその時。
百メートル程も先だろうか。石畳の道から逸れた樹々の中に轟轟たる土煙が上がった。ばきばきと樹々を押し倒し、何かが来る。
後ろから引き裂くような高い『笛』の音が上がった。
パコ師匠の指示、即ち『出る』だ。
勇者は相手の姿を確かめるため、回り込むようにして土煙へと近づいた。
茶と緑の、ねとりとした
小山のように肥大した体。
時折、シュッと伸びる長い舌。
重鈍だが、怪力にして貪欲。
『牛呑み蛙』。
その名のとおりに、大きな雄牛であっても容易く丸呑みにしてしまう。大蛇ですら逃げ出す恐ろしい奴だ。
―― コイツで、やるのか? ――
勇者は、
勇者は距離を測りながら、慎重に近づく。確かに重鈍であるが、その舌が厄介なのだ。飛ぶ鳥も絡めるほど、長く速い。
やがて、長槍を手にした十人程の衛士たちが駆けてきた。先頭はワルフだ。勇者とワルフたちは、充分に距離を取って蛙を囲んだ。
林立する槍衾を見て、ようやく蛙も動きを止めた。濁った眼球を動かし、獲物を物色しているようだ。
そのとき。
場がぶわっと拡張した。
平衡感覚を失い
甘い香りが、辺りを包んだ。
霧。・・ねっとりと重く、湿度を含む霧。
生暖かい風とともに、桃色の絡みつくような霧が流れてくる。
それは、牛呑み蛙に殺到した。
どんどんと、濃くなっていく。
霧は、蛙をすっぽりと覆った。
まるで、桃色の繭のように。
勇者やワルフ達は、その異様な光景に為す
やがて。
・・小鳥の囀りのような、音がしてきた。
・・繭の中から、聞こえてくるようだ。
次第に、霧が薄れていく。
繭は溶け、牛呑み蛙が姿を現す。
様子が、変だ。
蛙は。巨大な口をすぼめて、上向きながら可愛らしい音を発していた。
普段のくぐもった鳴き声とはまるで違う。
その醜悪な姿からは想像し難い、美しくも愛らしい鳴き声。
隣のワルフが、小声で言った。
「・・・あれは。求愛の囁きです・・」
(つづく)
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