第45話 筐体

 どのような状態を以て『身体の死』というべきか。生体と死体との科学的な境界線は、実は結構難しい。

 肺や心臓が止まると血流も止まり、脳は数分で機能を失う。しかし、例えば小腸や肝臓は12時間以上、腎臓は24時間以上、心肺停止後もその機能を維持する。血流の停止後、臓器のうちのあるモノは死ぬが、あるモノは存続するという状況が一定期間続くのだ。

 つまり、人体という運命共同体としての機構が崩壊すると、『臓器は個々の生命体に移行する』と言えなくもないだろう。

 ところで個々の臓器らは、互いに協力するために『言語』を用いている。『情報伝達物質』、すなわちホルモンだ。この情報伝達物質は、『体外』で作用する際にはフェロモンと呼ばれる。

 ホルモンが臓器間で作用する言語であるのに対して、フェロモンは別個体に作用する言語である。

 ホルモンとフェロモンとは、元々は同じ物質であったと考えられている。その左証に、体内ではホルモン、体外ではフェロモンとして作用する物質が、ある種の魚から見つかっている。

 『』で『の個体(臓器)』に作用するホルモン。『』で『の個体』に作用するフェロモン。どちらが、より原初的であるかは解らない。(体内で作用するホルモンの方が、より原初ではないかと空想している。)

 この情報伝達物質を用いる言語体系が、進化の過程で新たな能力を獲得していったと考えるのであれば。『』で『の個体』に作用する力をも、必ずや獲得しているはずだろう。




 あまりにも奇妙に過ぎる姿で、求愛を囁く牛呑み蛙。いや、同種の牛呑み蛙が見たら、この姿は魅力的に映るのかもしれない。人間と牛呑み蛙とでは、種として離れすぎているのだ。故に、それは奇妙醜悪に映る。

 ・・では、この蛙。一体誰に求愛を囁いているのだろうか。むろん、近くに他の牛呑み蛙は存在しない。


「まさか。 これが・・混惑魔法テンティーン・・・」

 勇者は、喘ぐように言った。息をすることさえ忘れていたことに気づく。ワルフも慎重に頷く。

 体外で異種の個体に用いられる、『言語』。


 そう。牛呑み蛙は、


 牛呑み蛙には、周囲を取り巻く勇者や衛士の姿は映っていない。おそらく、意識すらしていない。目を閉じ唇をすぼめて、奇怪な美しい歌を囁き続けている。この蛙にとって、今は囁き合う相手と自分しか、この世に存在しないのだ。

 その牛呑み蛙が、ゆっくりと眼を開いた。勇者たちの後方、ただ一点だけをじっと見据えて。そして、その巨体をゆっくりと前進させ始めた。樹々の中から石畳の道へと、ずるずると這い出てくる。

「・・こいつ、リンちゃんの方へ向かおうとしている」

「前方密形、槍衾、構え。勇者殿は遊撃願います」

 ワルフの号令で、衛士たちが牛呑み蛙の前方に穂先を並べる。

「目標、眼下」

 歴戦のワルフは、魔獣らの弱点も熟知しているらしい。落ち着きあるワルフの声に促され、衛士たちは次々と槍を蛙の眼の下に突き出していく。


 ドゥグワァッフウッッッ!


 急所を槍で突かれた牛呑み蛙は、苦しげに口を開け唾液を撒き散らした。

 ・・だが。前進を止めない。

 左右の眼下にそれぞれ数本ずつの槍を突き立てたまま、牛呑み蛙は巨体を揺らしてずるずる進む。

「皆、下がれ。俺がやる」

 ワルフは一際太くて長い槍を構えた。牛呑み蛙は、狂ったように舌を振り回しながら進んでくる。ワルフは槍で器用にその舌を軽く弾きながら、蛙の顎下にまで入り込む。間髪なく太い槍を突き上げる。槍は、蛙の眼の下に深く吸い込まれた。穂先が脳にまで達したのだろう、牛呑み蛙は電気を流されたみたいにぶるぶると震えた。

 ワルフは、蛙が動きを止めるのを確認した上で槍を引き抜いた。抜いた穴から赤黒い体液がどぷどぷと流れ出る。石畳が黒く染まっていく。牛呑み蛙の瞳が、急速に光を失っていく。

 済んだとばかりに、ワルフが蛙から離れようとしたそのとき。突如、長い舌がワルフの顔面目掛けて飛んできた。咄嗟に槍を立てて顔を守るワルフ。巻き付く舌が瞬時に槍を粉砕した。


 ウルルゥゥゥーンッ


 消えかけていた光が。

 より強く、より煌やいて。

 牛呑み蛙は、爛々と瞳を煌やかせて、再び高く鳴いた。


 ウゥールル・・ウルルゥゥゥーンッ


 高く強く、美しい鳴き声。

 誇らしげに、響く音。

 その声は、勇者を戦慄させた。

 恐怖、ではない。

 理解してしまった、からだ。


―― こいつ・・。

 歓喜、だ・・ ――


 障壁は、越えるための。達したときの歓びを増幅させる、舞台装置。

 受ける痛みの強さは。想う心の強さに比例すると信じて。

 この世界の全ては。全ての存在がその為にあると、確信しきれる美しさを持って。



―― こいつ。

 ・・僕と、同じなんだ・・・ ――

 



 そのとき。

 背後から柔らかな風が流れた。


 甘く爽やかな、風。 

 思わず、皆が振り向いた。

 女神。


 両の瞳から溢れる涙。しかし、あくまでも優しく麗しい笑みを湛えて。汎ゆる痛みが解けていくような、総てを包み愛おしむ光。


 従者は静かに。静かに蛙に歩み寄る。

 蛙は静かに。静かにこうべを垂れた。


 勇者もワルフ達も、誰も動けなかった。

 時の流れが止まったかのようだった。


 従者は涙を流しながらも笑みを湛えて、懸命に体を伸ばし、その鼻先を両手で包んだ。

 牛呑み蛙の両眼から、涙が零れた。

 ゆっくりと、口をすぼめた。


 透き通った音の、一筋。

 遥かな高みに、昇っていった。


 包まれ発して、満ち満ちて。

 牛呑み蛙は、口を閉じた。

 徐々に、その色彩が褪せて単調になっていく。解け分かれて、散じていく。個体は液体に。液体は気体に。もっと広く大きな函を求めて。そこに参じようと、流れて馳せて散っていく。瞳であった水晶体は白濁し、去った光はもはや再び宿らない。



 従者は、蛙だったものの前に立ち尽くす。嗚咽すら漏らすことなく、ただ涙が溢れるままに、立ち尽くした。

(つづく)

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