第36話 死地
「それは。・・・無謀じゃろう」
勇者の言葉に、ばあやは低く答えた。ゾルドの森は、level 30を超えるような魔物がうようよしている。しかも、夜だ。
勇者は、じっと昏い夜空を見上げていた。星一つ見えない。ぼんやりとしながら、全てを吸い込み捕らえてしまいそうな空だ。ばあやは、続けた。
「悔しい、という気持ちがあればな、大丈夫じゃよ。・・しかし、一足飛びにはいけぬ。何事も、一歩一歩じゃ」
空を見上げていた勇者は、
暫くして勇者はばあやに向き直った。肚に力を込めて、言った。
「・・当たり前のことをしていては、越えることができない。僕らは、越えて進まなければならない。・・足を止めてしまったら。体の震えに、耐えられなくなります」
勇者の言葉に、皺と皺とに埋もれたばあやの細い眼が少し開いた。
「・・その言や、良し。・・仕方ないのう、同行しようぞ」
ばあやの言葉に、勇者は首を横に振った。
「おばあさん」
ばあやは、勇者の言葉をはね除けるように言った。
「我が名はウラン。可憐な名じゃろ?」
「失礼しました。ウランおばあさん」
「勇者どのは耳が悪いのか?それとも
「も、申し訳ございませんっ・・あの、ウラン・・さん?」
「なんじゃな?勇者どの。夜は長いぞ?二人きりじゃ。さてさてまずは。腹ごしらえでもするかえ?」
古木のごとく幾星霜を越えてきた存在は、割れた音を吸収し和やかな響きを返すもの。
対する者は、自然、そよ風のように柔らかくなった。
決意の重さは、変わらねど。
いつしか、それを外から眺め得た。余裕が生まれた。
「僕、一人で行きます」
気負うものがない。悲壮感など全く霧散していた。ただ、生を見据えんとする誠実さだけが溢れていた。爽やかな日射しのような心持ちだった。
「・・ふん。佳き顔をする。儂があと八十も若ければ、従者どのに
「ウランさんは乙女じゃないです」
「莫迦云うでない。身も心も、
ウランの言葉に、勇者は深く頷いた。
「・・まさに。・・僕も、そうありたく」
思考は積み重ねだ。過去と今とを積み上げて、未来を眺める。
だが。ときには過去と今とを放擲し、隔絶したところに翔ぶべき夜もある。
その
「・・・良し。あい解った。・・勇者どの、此処でちと待ちなされ」
ウランはそう言うと、館の方へ歩いていった。暫くすると布袋を抱えて戻ってきた。
「手向けじゃ。・・だが、死ぬでないぞ」
ウランの差し出す布袋を、勇者は受け取った。ずっしりと重い。
「これは?」
「
「!!」
言葉を失っている勇者に、ウランは優しく言った。
「無茶を承知で飛び込むのも、ときには必要なのかもしれんな。若さゆえの
勇者は、頭を下げた。言葉にならない感情が熱となって沸き上がり、その一部が水滴となり零れた。ウランは気づかぬふりをして、ただ微笑んでいた。
◇
森は、漆黒のなかに沈んでいた。分厚い雲で月も星も消えた空と、天蓋を覆う巨木達。町の灯に慣れた目では、己の手すら見えはしない。
勇者は森の入口、ゾルディック橋の上に端坐した。目を慣らすだけではない。森と呼吸を合わせようと、息を深くし意識を広げた。
ここから先は、死地である。ほんの僅かな過ちで、全てが終わる。緊張で身体が潰れそうだ。
携える武器は二本のダガーナイフ。弓や槍では嵩張る。隠れ逃げながら闘うには、武器は軽くて小さい方がよい。
アストヘアとの試合では失敗が許された。彼女は即死せぬよう手加減してくれたし、ウランが付いてくれていた。今はそれがない。一か八かの賭けに出ることなどできない。
頼れる
勇者はイメージした。森が発する、瘴気。
奪うために生じた、生命がその内に宿す悪意。唯有るがゆえに有る、冷徹なるもの。
疑問を差し込んだ瞬間、技は綻び森は自分を殺すだろう。勇者は、瞑想に身を委ねた。
夜の森は、結構騒がしい。虫の鳴き声、風に揺れる葉擦れの音、魔物たちの囁き。耳が慣れてくると、目もまた開きはじめた。
ヒカリゴケが発する仄かな緑。樹々が吐く薄く濁った白。足元に転がる小さき石たちの灰青色。
自分がどんどんと、拡散していく。
見える聞こえるというよりも、光の粒や音の波に同調し、その発源に共振していくような感覚。拡散すればするほど、自らは薄まり同源は増えて鋭くなっていく。ピアノ線のように幾筋も、縦横に張りつめて森を覆う。
自らを棄てることで、森に溶けた。
静かに、動いた。
森に誘われ、動かされた。
・・柔らかな風に蝋燭の火が吹き消されるように、森のなかの命がぽつぽつと音もなく消えはじめた・・
時は、失われ。
自他の境も、曖昧になり。
身を包む、血の匂い。
渾然一体となり。
熱源たる命を求め、寄り添い奪う瘴気・・
どこか。どこか上の方で。
なにかが、呟く。
―― どちらが、魔物だろう。
殺戮を繰り返し。
屠ったものを葬ることもなく。
次を見つけては、殺す。
絶望的な痛みを与え。
恐怖へと突き落とし・・
殺す ――
―― だが。
死が。
生命に、不可欠なものならば・・
生の中で得られる快楽は、死に逝く中でも齎されるのだろうか?
その手前は、辛く苦しかろ。
痛く熱く。冷たく寒く・・
・・だが越えて。
戻れぬとこまで達した傷は。
甘美な悦びを与えるのだろうか? ――
―― 生きることが、殺すことなら。
死すことは。
殺すことを、やめることだ。
だが。
・・それならば何故。
生は躍動し、美しいのか?
・・死は、終えることでなく。
生を支え育む、道のりなのか?
生きるなかで、死が開き。
死すことで生が繋がれる。
故に。
死には生の滓が宿り。
生には死の粋が宿る。
殺すことも殺されることも。
喰うことも喰われることも。
二つ織り成しながら。一体に。
でも。どうして。
・・消えるのに。
『己』などというものが、
あるのだろう?・・・・ ――
頭上の響きは突如として消えた。身体が動かない。巨大な
疲労困憊した身体を引き摺る。重い。あちこち怪我だらけだが、
勇者は、橋の中央にある楼閣の階段を四つん這いになって登った。てっぺんにある見張り台。半畳ほどの狭い空間だが、分厚い壁に囲まれ安心感がある。ほっとするのと同時に身体が崩れた。胎児のように丸まる。冷たい石畳を頬に感じる間もなく、意識は闇へと沈んでいった。
◇
目覚めると、陽は中天にあった。どうやら四、五時間、寝てしまったようだ。
胃が満ちた余韻に浸りつつ森を眺めていると、面白い場面に遭遇した。魔物同士の諍いである。一体の『悪魔の
魔王指揮下の『魔軍』内においては、魔物同士が内輪揉めをすることは滅多にない。魔王が圧倒的な恐怖で支配しているからだ。
だが、魔王の統率下にない『在野』の魔物たちは、
今回は、level 25の『悪魔の鎧』にlevel 14の『オーク』四体が挑む形だ。どんな展開になるのだろうか、勇者は茂みに伏せて眼を凝らす。
悪魔の鎧は、
対するオークは獣人系の魔物であり、集団での狩りを得意とする。回復魔法を用いる奴もいるため、一体一体は貧弱でも連携するとなかなか強靭だ。
両者は睨み合っていたが、
三角陣を作った三体のオークは、その輪を狭めたり広げたりしながら執拗かつ丁寧に攻撃を繰り返す。対する悪魔の鎧は、ゆらゆら踊るように身を
均衡は、唐突に崩れた。
ひときわ巨体のオークが、突如雄叫びを上げて突進した。両刃の斧を渾身の力で振り回す。悪魔の鎧はすっと下がってこれを避け、同時に頭上から剣を振り落とした。巨体のオークは頭から二つに割れ、どさりと地に崩れる。なんと『
槍を突き刺された悪魔の鎧は、突き刺されたままの状態で剣をぐるんと一閃し、二体のオークの首を撥ね飛ばした。その首が地に落ちるよりも早く足元に転がる両刃の斧を術者の顔面に投げつけた。顔に斧を生やした術者は、ゆっくりと後ろに倒れた。
際どい勝利を得た悪魔の鎧ではあるが、彼もまた相当の深傷を負っていた。片膝をついてぜいぜいと喘いでいる。
勇者は、その背後に忍び寄った。
急所であろう鎧の隙間に、ナイフをすっと突き刺した。
・・うおおおーーーんっっっ・・・・・
悪魔の鎧は、悲哀に満ちたような唸り声を響かせながら、ばらばらと崩れ落ちた。
―― ごめん、な・・ ――
勇者は五体の屍に深々と
(つづく)
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