第32話 異変
夜明け前。
薄紫の
太陽が昇るまでの、束の間の輝き。
儚い、と嗤うのは容易い。
しかし。
彼ら暁の星は、他所に於ける『太陽』に他ならない。我々の太陽を凌ぐ、巨大恒星だったりする。
世界の中心は、何処にでもある。
すやすや眠る娘を起こさぬように。勇者はそっと部屋を出る。娘の頭上に書き置きを残して。
『 我が最愛なる、リン・アルテミアネス・リンレイ様へ。
成すべきことを為すため。ごめんね、先に出立します。後で、アストヘアの館で。
宿の手続は済んでいるし、パコ師匠が迎えに来てくれるはずだから。ゆっくりしていてください。
昨晩の月。美しかった。
大好きです、リンちゃん 』
玄関には番頭であろうか、禿頭で背の低いじいさんが立っていた。紙袋を捧げるように持っている。じいさんはその姿に似合わぬ、低いながらも張りのある声で言った。
「朝食代わり、簡単なものながら。道中に」
勇者はじいさんに頭を下げた。
「わあっ!ありがとうございます!」
「・・星の瞬きが、強い。北辰に、流星が群がっている。・・ご武運を」
張りのある声でそれだけ言うと、じいさんはぺこりと頭を下げた。再び上げた顔は、なんだか憑き物が落ちたように柔和だった。
にこにこ微笑むじいさんに、勇者は再び頭を下げた。
「・・ありがとう。頑張ります」
じいさんは腰を折るようにして深々と頭を下げると、甲高い声を出した。
「いってらっしゃいましぃ!またのお越しを心よりお待ち申し上げますぅ!」
門を出ると、東の空が明け始めていた。
光を背に受けて、進む。
やがて、
強引ながらも温かく力強い、父親の笑みのような光。
・・払拭されていく。
迷い、恐れ、不安。先の見えぬ道を歩む限りは、当然に生ずる感情だ。
でも。見えぬものは見えぬと割り切り、一旦放っておくのも方便だろう。
眼前に、刮目せよ。
今を、注力せよ。
陽光は、莞爾として背中を押す。
空は既に高く、星々を呑み込んでいた。
ゾルディック橋に到着すると、小鳥たちが賑やかに朝の会食を楽しんでいた。
緩みそうになる気持ちを引き締めながら、勇者は『気配遮断』の
突如として現れ、橋を占領した
死骸は、見当たらない。すでに片付けられたらしい。しかし、壊れた武具や折れた旗竿等が散乱している。所々、橋の飾り石が砕け散って・・戦闘が激しいものだったことを、静かに物語っていた。
勇者は橋の周囲を隈無く見て回った。砦状になっている橋の中央部にも入り込み、つぶさに確認した。しかし、手掛かりとなりそうなものは見当たらない。
・・
魔軍の占領地である『北部』は、
そのことをご理解頂くには、この大陸の地図を頭に描いて貰うのがよい。
まず、『オウム貝』のような形をした大陸を思い浮かべて頂きたい。
その真ん中に横線を引っ張って、北半分が魔軍の地『北部』であるとご承知願いたい。
『北部』の南に帯状に広がる樹海が『イルミンスルの森』である。オウム貝が腹巻きをしていると思えば具合がよい。
腹巻きの南東(右下)には、草原の国『ドルメン王国』があり、南西(左下)には山岳の国『メンヒル王国』がある。
両国の南には峻嶺な『アルブルズ山脈』が扇のように立ち塞がる。
その扇の南に位置するのが『オンパルス王国』である。
そして。ゾルドの森は、オンパルス王国のほぼ中央に位置する。
つまり。『北部』に駐屯する魔軍正規軍がゾルドの森に至るには、『腹巻き』を越えて『草原』若しくは『山岳』を越えて、『天高く聳える扇』を乗り越えねばならない。実に長い道のりだ。
しかも、魔軍にとってイルミンスルの森以南は『敵地』なのだ。
―― 十体や二十体ならいざ知らず。
三百体を越える一団が、どうやってギルドの情報網に掛からずに南下できた? ――
メンヒルとドルメン、そしてオンパルスの三国は、魔軍に対して強固な同盟を結んでいる。加えて、大陸の津々浦々に拠点を持つ
つまり。魔軍の一団が同盟軍やギルドの目を掠めこの遠路を踏破できるとは、およそ考え難いのだ。
勇者は再び、橋の入り口に立った。異常は見当たらない。
・・いや。
風景を構成する素粒子に些細な誤謬が生じている、そんな違和感を感じた。
「あっ」
橋の正面。左右の柱にルーラント文字が刻まれている。『水神の加護を』とか『道中に多幸を』といった、どんな橋でも見かける他愛ない定型文だ。神聖文字と呼ばれるルーラント文字ではあるが、これといった効用もない。だから、見逃していた。
でも、よく見ると変だ。
「・・これは」
勇者はその妙な違和感をわりと最近、味わっていたらしいことに気がついた。
―― そうだ。 ムサの洞窟・・――
つい先日、調査で赴いた『ムサの洞窟』。ゾルドの森の西に位置する、太古から祀られる洞窟である。
ギルドから『近頃、ムサの洞窟付近に見慣れぬ魔物が徘徊するようになった』との報告を受け、従者と共に探索した。しかし、これといった収穫は得られなかった。
・・でも、今思えば。
洞窟内に設置された『
眼前の柱を見て確信した。・・同じだ。
黒々とした
ぞくりと、背中が冷える。
―― 奇妙な。・・・・
何か奇妙なことが、起こっている ――
勇者とて、常在戦場の武人だ。直感こそ、天の助けと心得ている。
腕に生じた
◇
「ムサの洞窟と、ゾルディック橋で?そらまた、なんとも意味深でさあ。彫ろうが削ろうが、傷一つ付かないルーラント文字に。・・やばい感じが、ひしひしでさあ・・」
オーラルのギルド商会。勇者の前で珈琲を淹れるのは、ギルドマスターのガストンだ。
長いまつ毛。長い顔。まるで
金色の武具を好んで身に付け、また、発する気合いが雷鳴のようだったから、ということらしい。
・・その黄土色は、贔屓目に見れば金色ともいえる。その鳴き声は、まあ雷鳴にも聞こえそうだ。
勇者は駱駝、もといガストン氏に頷く。
「うん。傷というより、
ガストン氏の言うとおり、ルーラント文字が刻まれたモノは、木柱だろうが石板だろうが、削ることも壊すこともできない。『ルーラント文字は、世界の誕生と同時に生まれたに違いない』と主張する学者すらいる。
ならば、『橋があってその柱に刻まれた』のではなく『刻まれた柱を用いて橋にした』と考えるべきなのかもしれない。
なぜ、そんな文字が存在するのかは皆目解らない。だが、あったところで何の効用も感じない。故に、この不可思議は日常に埋没していた。
そこに生じた不穏な『翳』だ。・・やばい感じがひしひしするのも頷ける。
勇者は、ガストン氏が淹れてくれた珈琲を一口啜った。
ふくよかな薫りが体内に染み入る。
・・目には見えずとも、この薫りは確かに存在する。
揺るぎなく、心強く。
見えぬ不安にざわついていた粒子が、一定の旋律を取り戻していく。
「見慣れぬ魔物たちの徘徊。
「合点承知。すぐ本部に連絡するでさあ!」
「ありがとう。教会学会や
『教会学会』は大陸各地に対魔研究施設を持つ民間最大の学術団体であり、『博士連』はオンパルスが誇る王立研究機関である。知の双璧と謳われるが、ご多分に漏れず犬猿の仲である。
「・・学者は面倒でがんすが。アルシアの教会学会本部と王都に、すぐ人を遣るでさあ」
「助かるよ!」
「・・ところで勇者さん、今日は従者様は、どうしたんでさあ?」
ガストン氏は、駱駝のような顔を更に伸ばして訊ねてきた。勇者は体を後ろに反らしつつ答えた。
「別行動。後で合流するんだ」
「連れてきて欲しいでさあ。あ、そうそう!一級品の葡萄酒を入手したんでさあ!女性好みの香り高い逸品でさあ!是非あの子にっ!と思ったけど、まだ飲めないでさぁ?」
「・・いや、喜ぶと思うけど・・」
「オーラルのギルドマスター、ガストンからの贈り物と、お伝え下さいでさあ!!」
活気ついた
勇者はリボンが崩れぬよう
―― 次に向かうのは、『セレクタン』。
媚薬。
まるで、効かなかった。
全くもって、けしからんのだっ!
ぬふふっ!
美人店主のウエアヌスさんを!
是非とも問い詰めなければ!
ぐふふっ! ――
心身は軽やかにして、跳ね飛びたいと欲するものの、芯棒が熱く硬く動きを阻む。
勇者は『くの字』になりつつ、その
つい先程。
黒い翳に蝕まれ、細っていた心は、今。
桃色の綿に包まれて、もふっと膨らむ。
どんな
個や種を超えた、存在の意義に着目したならば。
対する
この世に横たわる果てしなき闇。
恐怖の温床でも絶望の回廊でもない。
光を護る箱である。
おそらく。
世界は待っている。
開かれし時を。
故に。
生命は授かった。
探知する技を。
時空を超えて、導かれ。
故に。
我々は、ここに在る。
確かなる大地を踏み締めながら、脈打つ今を熱く感じて。
勇者は、光を求め進んだ。
(つづく)
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