第31話 響明

 浴衣の二人は手を取り合い、豪奢な廊下をゆるゆる進む。敷かれたぶ厚い絨毯は歩くたびに沈み込み、動きも音も吸い込んでいく。

 夜の底のような静寂に、ただ二人。

 現実感は遠退いて、夢の谷間を歩むよう。


 ・・いや。

 繋がる手と手の、温もり。

 柔らかく、あたたかい。

 感覚は、広がる。

 注がれて、深まる。


 波動は共鳴し、同調していく。

 無秩序なる粒子の流れは収斂し、場に溝を刻みゆく。流れは益々勢いを得て、定まる。

 春の嵐に種たちが舞うように、場に生じた流れは感情を吹き上げていく。

 運ばれて。促され。

 花の開きも間近と知る。

 


 仲居さんが点けてくれたのであろう。居室に点々と配されたランプの灯が柔らかく迎えてくれた。窓の外は陽が落ちて、星が満ちていた。


 二人、どちらからともなく窓際に並んだ。

 沈黙を恐れるように、従者が言った。

「・・星、・・綺麗ですね」

 受けた勇者も急いで返す。

「うん・・たくさん・・輝いているね」

「・・どれ程の星が・・あるのかしら」

「おそらく。僕らにとっては、無限の」

「・・・僕らにとって?」

「時の流れに支配され、くうの表層を漂う限りは。僕らにとって、宇宙は果てしない」


 勇者の言葉に従者はきょとんとする。そして、なんとも嬉しそうに微笑んだ。

「全然、わかんない」 

「え?・・つまりね」

「いいの。・・・勇者さまは、どうして私が笑ったか、・・解ります?」

「え?・・・僕、変だった?」

「違うわ。・・・解らない。・・解らないから、気になってしまうのかしら・・」

「え?・・・・えっ?」


 そのとき。入口から仲居さんの声が聞こえた。夕食の支度に来てくれたようだ。


 並べられる豪華な皿たち。色彩も豊かに、魅惑的な香りを鼻腔に届ける。しかし、その華々しいまでの景観は、緊張を和らげるどころか寧ろ強くした。

「リ、リンちゃん、あの。・・ちょっとワインでも、頼んでみましょうか?」

「ワイン?」

「あっ、でもごめんっ!・・リンちゃん、まだ、十七?十八?」

「歳ですか?・・もうっ!失礼ですねっ、私二十歳はたちですから!」

「え?ホントっ?・・良かったっ!十七にも成ってなかったらと、心配しちゃった」

「えーっ!・・私、そんなに幼いですか?」

「いやその。・・そうじゃないときも、・・あるけれど・・」

「そうじゃない?」

「ああ。つまり、色っぽい・・」

「・・ばか」


 従者は赤い顔をして下を向いたが、ややあって、囁くように言った。

「・・ちょっとだけでしたら、・・飲んでもいいですよ」

「ありがとう!じゃあ、頼んでみよう!」

 直ぐに仲居さんが赤ワインのボトルを届けてくれた。

 とぷとぷと濃紅こいくれないの果酒をグラスに注ぐ。

 途端に、ふくよかな香りが立ち昇る。現れた酒精たちは空に遊び、陽気な歓声を上げて飛び跳ねる。

「リンちゃんの美しさに、乾杯!」

「・・勇者さまなんだから。世界平和を祈願すべきじゃないのですか?」

「うーむ。・・じゃあ、リンちゃんの美貌と世界平和に、乾杯っ!」

「・・乾杯っ」


 二人は互いにグラスを掲げ、酒精を宿す濃紅こいくれないを口に運んだ。

「これはまた。ずいぶんと旨いワインだな」

「はい、美味しいですっ」

「しかしリンちゃん。このようなワインは気を付けないと。飲み過ぎ注意だね」

「はーい。…勇者さま、自分ばかりずるいですよ?私にも、ください」

「うん?・・リンちゃん、くいくい飲んでるけど、お酒大丈夫なの?」

「・・お酒飲むの、初めてなんです。もっと恐ろしい飲み物だと思ってました」

「ははっ!確かに飲みすぎると、次の日が恐ろしいよ。でもね、節度をもって接すれば、これ程楽しい飲み物はないのかも」

「楽しい飲み物、ですか?」

「この中にはね、精霊ちいさきものが宿っている。彼らは体に入ると、あちこちの扉を開け放っていくんだ。鍵が掛かっていても駄目。彼らには通用しない。ぜーんぶ開けちゃう」

「・・扉?」

「そうさ。だから、風通しがよくなってね。時には、自分でも知らなかった部屋を見つけだしてくれるんだ。そして、その部屋の窓をぱあっと開け放つ。・・忘れていた景色を、見させてくれるのさ」

「・・・素敵・・」

「うん。・・でもね、無理は禁物さ。ぶっ倒れてしまうよ」

「はい!節度をもって、ですね!」

 従者は嬉しそうに応えた。場はすっかりとほぐれた。ワインボトルは空っぽになった。

「うーん。・・・でも、これ以上は・・」

 勇者が空になったボトルを手にぼそぼそ言うと、従者は陽気に応えた。

「ワインって、不思議ですね。美味しいお料理が、更に美味しく感じられます。・・これも、精霊さんのお陰かしら?」

「うん。感性の扉が全開になるからね、美味さも快楽も倍増さ。・・でも、リンちゃん、大丈夫かい?飲みすぎちゃいないかい?」

「え?大丈夫ですよ。ちょっとほっぺが熱くなりました。勇者さまも、お顔が赤くなりましたね!・・私も、赤いのでしょうか?」

 従者はにこにこしながら、そんなことを言っている。勇者は心配そうに、従者の顔を見詰めた。

「・・もう、やめておこうか?」

「え?・・そうですね。・・ただこのお肉、ワインとよく合いそうですね・・」

 従者は丁度運ばれてきた牛肉を見詰めた。それは、鉄板の上でじゅうじゅうと香ばしい音を立てていた。

「・・・もう一本だけ、頼んじゃおうか?」

「はいっ!賛成ですっ」

 給仕をしてくれていた仲居さんが、すぐにボトルを届けてくれた。仲居さんは「後程デザートをお持ちします」と頭を下げ、すすっと襖を閉めた。

 和やかな空気に、しっとりとした間が現れた。とぷとぷ注がれるワインのかなでが、心地好く響いた。


 従者はにこにこ笑って、日中の買い物について話した。そして、ぱくぱく食べてすいすい飲んだ。勇者は求められるまま、とぷとぷ注いだ。

 従者がボトルを掲げると、勇者は慌てて手を振った。

「いや、もう降参だ。僕はもう、飲めない。これ以上飲むと、眠くなってしまうよ」

「え?・・ワインって、飲むと眠くなるんですか?」

「うん。飲みすぎると、頭が痛くなることもあるし。・・気をつけて」

 勇者の言葉が理解しにくいのか、従者はきょとんとしていた。


―― リンちゃん・・もしや、酒豪か? ――


 結局。従者は終始楽しそうに料理を平らげて、三本目のワインもデザートを肴にやっつけてしまった。

「ああっ、美味しかった!私、もうお腹いっぱいですっ!」

「・・飲みすぎていない?大丈夫?」

「ちょっとおなかがくるしいです。飲みすぎというより、食べすぎです~っ!」

「頭とか、くらくらしない?」

「え?頭は関係ないですよ?おなかがどっしりと重たいんですっ」


―― ・・酒豪。間違えなく酒豪だっ ――


「・・ワイン、もうおしまいだけど。・・大丈夫?足りた?」

「はいっ!お食事も丁度なくなりましたし。美味しかったです!」


――・・助かった。・・ がんがん飲みたい酒乱タイプじゃないみたい・・ ――



 勇者はゆるゆると首を回した。鈍った頭をすっきりさせたくなり、夜風を求めて窓を開けた。



 大きな満月が。

 煌々と光っていた。



 窓から顔を付き出して、眺めた。

 遠く。ピジョンの草原が、月光に照らされ浮かび上がっていた。風が渡るのだろうか、ゆらゆら囁くようだった。

 魅入っていると、近くに熱を感じた。


「風、・・気持ちいいですね・・」


 背後から、娘が同じように顔を付き出していた。

 顔と顔。触れんばかりに。熱を感じた。

 勇者はゆっくり振り向き、娘を見詰めた。


 ごく間近。

 月光の下の、かんばせ

 ・・この世のものかと、疑いたくなるくらいに・・

 

 喉に引っ付く舌を、懸命に動かして。

 渾身の力をもって吐き出すように、勇者は言葉を送り出した。




「・・リンちゃん。・・つ、月が、・・き、綺麗ですねっ・・!」




 はっと瞳を見開いた娘は。

 恥じらう花のように、下を向いた。


 風が、流れた。

 太陰はますます青く光った。

 ・・勇者には、永劫のような時であった。


 娘は、俯きつつも。

 勇者に向かって、言葉を送った。



「・・・は、はい・・。い、いつまでも・・見て、いたい・・ですね・・」




 言葉と言葉

 熱と熱


 絡み 響き合い

 高次へと 渡っていく・・

 




「少し、風に当たり過ぎたようです。・・リンちゃん、・・寒くはないですか?」

「・・はい、・・少しだけ・・」

 娘は、自分の手で肩を抱くようにして首を縮めた。

 勇者は窓を閉めた。優しく、娘の背中を擦った。窓から射す光が、娘のうなじを白く照らした。

 少し冷たくなった手を取って、ゆっくりと次の間にいざなった。


 橙色だいだいいろに灯る角行灯。

 柔らかな肢体を抱き上げて。

 真っ白なる布団へと。

 そっと。丁重に横たえる。

 その背後に、すっと滑り込み。

 掛け布団で、ふうわり覆った。

 後ろから。抱き締めるように。

 二人。

 同じ布団の中に、あった。

 布団は温く柔らかく。

 甘く、甘く香った。

 どくどくと、疼いた。

 ・・・しかし。


「ゆ、勇者さま・・・い、いまは。・・そのまま、・・抱いていて、くれませんか・・」


 其の儘に。

 変わることなく、ただ有りて。


 ・・いや。

 有りしものは、変わりゆく。


 現に、娘は。

 科白セリフとは裏腹に、踏み出していた。

 その歩みは、朝を待つ蕾のようにゆっくりであっても。確実に、進んでいた。

 勇者は娘の首もとに顔を埋めながら。

 黎明を知る旅人のように、頷いた。



 我々という現象は

 想い育む波動なり

 引き合いぶつかり重なって

 森羅万象敷衍する

 我々という存在は

 あしたを越えて翔ぶ種の

 時空の果ての玄淵へ

 やがて逝きつき色なさん

 我々という物質は

 我々という熱源は

 ・・・・

 

(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る