第27話 変移

 人々が行き交う、雑踏のなか。

 突如として、抱き締められた。

「むうっ!」


 あまりにも急で。

 潰されるような力強さ。

 胸板と腕とで包まれてしまった娘は、くぐもった呻き声を上げるばかりだ。


 身動ぎもできず。

 男の匂いと体温が、娘の心拍数をぐんと引き上げる。訳も分からず汗ばんでくる。

 がっしりした胸にうずめ込まれた顔を、何とかして横にずらす。僅かに出来た隙間から、娘はかすれた声を上げた。

「ゆ、勇者さま?ど、どうしたの?」


 しかし。

 勇者は無言だ。代わりにぎゅっと締め付けてきた。


「むむっ・・く、くるしいですよ?・・」



 動揺しつつも。娘は、勇者あるいは自身を抑えようとするかのように、囁くばかりに静かに言った。

 だが。あろうことに勇者は・・


 長く延びた蛸のような唇で迫ってきたのである!







 どぐしゃ





「・・変だな」

 跪く勇者がぼそりと言った。

 従者は肩を怒らせて叫ぶ。

「へ、変なのはあなたですっ!道の真ん中で一体なんなのっ!」

 蛸唇クトゥルフが迫る寸前、従者の肘鉄が勇者の鳩尾をえぐった。アストヘアが撃ち抜いたのと寸分変わらぬ箇所。二度目は、きつい。

 しかし。勇者は肉体的な痛みよりも、心中の疑問に苦悶しているようであった。

「なぜだろう?・・なぜかしら?・・リンちゃん、妙だね?」

「奇妙過ぎるのは勇者さまです!うずくまったまま変なこと言ってるの怖いですからっ!早く起き上がって!」

 勇者の奇妙を、従者は知らない。

 従者の奇妙は、勇者には伝わらない。


 でも。

 勇者が憔悴したその顔を上げると。

 二人の視線は、交わった。


「・・ちょっと、言い過ぎました。・・ごめんなさい」

「いやそんな、僕こそ。大変失礼なことを。本当に、ごめんなさい・・」


 勇者は立ち上がる。途端、ぐらりと揺れた。

「・・あははっ!リンちゃん、凄い肘鉄だ!アストヘアのよりも余程効いたよ!うまく歩けないくらいさ!」

 努めて明るく振る舞おうとしている。だけど、やけにしおらしい。そんな勇者を見るとなんだか申し訳なくも思えてくる。

 不埒な行いをした勇者がいけない。でも、少々やり過ぎてしまった・・介抱すべきか?そんな理屈が従者を身軽にした。

「・・大丈夫ですか?・・ほら、しっかり」

 従者は勇者の脇の下に体を入れ、その腰に手を回した。

「歩けます?」

「うん、ごめん。ありがとう」

「・・もうっ」

 従者は桜色の頬を膨らます。

 勇者は、その瞳を覗き込む。

「・・ところで、・・リンちゃん?」

「はい?」

「あの・・いつもと、違う?」

「え?・・言われてみれば、いつもとおりの変な勇者さまですね」

「いや、僕でなく。・・リンちゃん、なんかこう、いつもと違う感覚とか、ある?」

「え?」

「つまり。僕といるとドキドキするとか」

「勇者さま変だから。いつだって、どきどきしっぱなしですよ」

「・・僕の瞳に吸い込まれそう、とか」

「勇者さま、大丈夫ですか?瞳は物を吸い込みませんよ?」

「・・・・」

「さあ、早く行きましょ?お店で装備品を買い整えるのですよね?」

 従者は、いつもとおりの従者であった。なんら変わらぬ、いつもとおりの従者だ。

 従者の言葉に、虚ろな目をした勇者は力なく頷くばかりだった。





 策は、まず破れる。そう知るべきだ。

 大切なことは、何をしたかではない。

 何をしようと欲するか、だ。

 意志である。


 意志さえ揺らがねば。

 道は、必ず開かれよう。





 宿の豪奢な門をくぐると、女中さんが出迎えにきてくれた。明日のチェックアウトの手続は済んでいる、しかし明日の昼まではゆっくり寛いでほしい、などと話す。アストヘアの使いの者が来たらしい。勇者の『すっとぼけて連泊しちゃえ』の策は封じられた。



―― 万策、尽きたか・・


 いや、違うっ

 僕は『男』だ。『男』じゃないかっ!


 ・・男が、唯一優る『突破力』。


 ここで使わず、いつ使うっ!! ――



 部屋に荷を下ろすと、勇者は従者に向かって言った。

「・・明日は、アストヘアの館で泊まることになりそうですね・・」

「はいっ!楽しみですねっ!」

「あいつのことだから。・・僕は物置部屋に押し込まれることでしょう・・」

「ふふ、そんなぁ」

「アストヘアのやつ、僕らのlevel アップを手伝うつもりらしい。・・そうすると、滞在は数日に及ぶでしょう・・」

「え?それはご迷惑になっちゃいますよ?」

「やつは迷惑だなんて思わないよ。むしろ、強引にも引き留めるだろう。・・妙に、リンちゃんのことを気に入っていたし」

「そうでしょうか・・?」

「うん。・・問題は、離ればなれになってしまうことなんだ・・」

「え?」

「明日から・・僕はリンちゃんと、離ればなれになってしまう・・」

「もう、大袈裟ですよぉ」

 ころころ笑っていた従者であったが。絶望そのものような悲壮感をどんより纏う勇者に気付き、慌てて言った。

「あ、あの?・・勇者さま?」


 勇者は従者を見詰めた。突き抜けるような視線が、従者の瞳に飛び込んできた。

「リンちゃんっ!」

 一言叫ぶと勇者はがばっと平伏した。

「は、はい?」

「リンちゃん!一生のお願いですっ ぼっ、僕とっ」

「は、はいっ」

 勇者は顔を上げ、瞳を真っ直ぐに向けて強く言い放った。

「僕と一緒にっ!こっ、個室風呂に入ってくださいっ!」

「・・・えっ」


 聞き間違えだろうか、と娘は思った。何故なら娘の感覚に則れば、このシチュエーションでその言葉はあり得ないからだ。

 「付き合って下さい」だとか「デートして下さい」ならば。ひょっとしてひょっとすると有り得るかもしれないと、娘も思う。

 しかし。・・「個室風呂」とは一体なんのつもりだろう?

 まるで、発音はそっくりなのに意味がまるで異なる外国語を耳にした気分だ。

 思考が、止まる。


 ・・冗談?からかわれている?

 いや、たぶん違う。勇者からは鬼気迫るような決意オーラが痛いくらいに飛んでくる。まるで、断ったならその場で命を滅してしまうのではないか?と疑いたくなるほどの気迫だ。

 昨日は言葉で誘われた。今回は違う。勇者の発する言葉は娘には理解不能だったのだ。まるで噛み合わない。そのため、思考に空白が生じた。そこに。勇者の放つ身を焦がすような想いが轟々と流入してきた。勇者の貫くような視線が娘の空白を染めた。

 焦燥、不安。しかし一縷の望みがある限りは諦めないという、不退転の決意。

 娘は混乱した。


 ・・『共鳴するような感覚』に。


 それらは。元々自身の中にあったものだろうかと、不思議な思いが沸き上がる。

 まさか。そんな訳は。・・しかし。


 そんな混乱する娘に対して。

 平伏した勇者がぬっと手を伸ばしてきた。

 『応ずるならばこの手を取って欲しい』、切実なる想いがひしひしと伝わる。

 娘は圧迫される。余計に空白が生じる。その分だけ、流入してくる・・

 混乱は極まる。悲壮なまでの光に心が激しく揺さぶられる。


「僕は。・・リンちゃんと共に在りたい」

「・・・・」

「リンちゃんと、全ての時を共有したい」

「・・・・」

「いま一歩、・・リンちゃんに近づくことをお許しくださいっ!」


 生じた振動は収斂し、エネルギーとなる。エネルギーは、場を変容させる。


「・・うっ・・うう」

 窮した娘は唸るしかない。決意はその一穴を見逃さない。

「お願いですっ!リンちゃんっ!ぼ、僕と、一緒にお風呂に入ってくださいっ!!」

 勇者は手をシャキンと伸ばしたまま、再び頭を下げた。


「・・で・・でもっ・・」



「・・・・あのっ・・・」



「・・・・・た、タオル・・」

「・・?」



「・・た、タオル巻いたまま、ですからっ」

「・・!!・・はっ、はいっ!!」



 場は、揺らぎ。

 そして確定した。



 形成された場に引きずられるように。

 しずしずと。

 娘はその手に、ぴとりと指をあてた。



 勇者の輝くような瞳を、娘は恥ずかしくて見ていられない。急ぎ俯く。そして、慌てて付け足す。


「ゆ、勇者さまもっ・・た、タオル、巻いたままですからっ・・!」



 自身が発した言葉に益々赤くなる娘。

 門は開き。見えた道に勇者は歓喜溢れて、力強く頷いた。

「もちろんっ!もちろんですっ!もちろんですともっ!!ありがとうっ!ありがとうっ!リンちゃんっ!!ありがとうっ!!」



 有り得ぬようなことが生じてしまう。

 それが、この世だ。


 何故なら。有りとあらゆる可能性が並存するのが、この世であるからだ。



 波動の靄の中に我々は、ある。

 確定したとき、我々は居ることを知る。


 知ることで意志を得るのか。

 意志が知覚を生むのか。

 それは、解らない。

 しかし。


 意志が並行世界の選択に関与している可能性は、おそらく拭えない。いや。現状において我々は、越界のための道具を意志以外には持ち得ていない、というべきなのか。


 ならば、意志を以て。

 意志を以て、揺らぎ得るこの世界を越えていくべきだろう。



 ・・世界は開かれることを。

 切に待ち望んでいるはずだからだ。

(つづく)

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