第28話 開闢

 新たな世界が開かれる瞬間。

 ひとは、それを振動のなかに知る。


 多元にして多層な世界が、自己の知覚において繋がる。それは、振動から始まるのだ。

 重ね合わせの状態にあった物質が、外界との干渉によって場を形成していく。その過程が振動である。


 今まさに新たな世界が展開することを、振動が教えてくれる。それが喜怒哀楽に通じていくことを、人は経験のなかで知っている。


 さわさわと揺れて、世界が開く。

 その一連を、『感動』と呼ぶ。

 まさに、勇者は感動のなかに居た。


 望み得る最高の世界が開かれる瞬間を、勇者は体感した。全細胞が震え、あらゆる部位から歓喜が放出される。

 勇者が発する情報物質若しくはエネルギーは、従者の身体にもぶつかり浸透し、彼女をますます困惑させた。故に、複雑なる心理はその表層に羞恥を以て充てた。


 勇者が勇んで「お風呂の鍵っ、フロントで借りてきます!」と走り出そうとするのを、従者はぱっと手で制して止めた。

「ま、待ってっ!」

「うん?」

「・・ま、待って、くださいっ・・・」

「・・う、うん」

 苦しげなる眼差しは、むしろ艶然なる色をこぼした。熟れて濡れ光る果実のようなかんばせを、俯き隠さんとする娘。

 勇者は、勇む心を鎮めんと細く息を吐く。その戸惑いを汲まんとし、長く息を吸った。

 眼光を留めるためそっと眼を閉じ、欲求オーラを発しないよう丹田に力を込める。そして、風を待つおおとりのようにゆったりほどいた。


 気が変じれば場も変ずる。娘はおずおずと言葉を紡いだ。


「・・・・か、鍵は。・・わ、私が・・」

「あ、・・うん」

 熱帯びし言の葉は、聴者にもまた伝わる。

 柄にもなく、勇者の頬に朱が差した。鼓動が強くなった。思わず、ごくりと唾を飲む。その音が、娘の色香を更に濃くする。


「・・ゆ、勇者さま、は。・・大浴場で・・お、お体、洗ってから・・・・・よ、四十分くらい、・・して、から・・」


 俯き、流れる黒髪に顔を隠しつつ。羞恥に震える声を必死に抑えながら、喘ぐように娘は言った。


 懸命に言ってみせた娘に対し、勇者は礼を以て応えた。床に膝をつき、娘の手をそっと取った。

 手は、震えていた。

 震えに共鳴せんことを欲するように、勇者はその手を胸に当てた。娘の震えが勇者の心臓に伝わり、勇者の鼓動が娘に伝わった。

 勇者の口から。自然と言葉が溢れた。


「誠に。・・有り難う」


 有り、難し。

 瞬間瞬間が、奇跡なのだ。

 ほんの少しの差異により、この今は恐らく生じなかった。・・生命も、世界も。

 有り難きを知ることが、生きることに他ならない。





 ぱぱっと浴衣に着替える勇者。タオルを一枚、ぱんと肩に打ち掛けて。従者に深く頭を下げると「後程参上つかまつる」と言葉を置いて、振り返りもせず、馳せた。

 疾きこと風のごとし。

 鉄は、熱いうちに打たねばならない。




 まだ夕刻過ぎのためか。大浴場は他に誰も居らず、がらんとしていた。勇者は入口近くの大時計を確認する。

 あと、三十八分。


 待つには長く。

 策を巡らすには、短い。

 いや。もはや策など無用。なすべきことをただ為すのみだ。

 勇者は丹念に身体を洗った。磨き上げるばかりに、丹念に洗った。


 それは。起立していた。

 天に向かって、真っ直ぐに起立している。

 恥じることなど何も無いと、雄弁なくらいに起立していた。

 浮き上がる血管も荒々しく。しかし、つるりと丸みを帯びた登頂は、妙な滑稽さを醸していた。

 勇者は、かの者をも丹念に洗った。だか、あまり刺激すると溢れそうになるのには閉口した。かの者は、最も近しく頼りとなる分身ながら、意思の疎通に不便を感じることが少なからずある。

 もしかしたら、と勇者は思う。もしかしたら、かの者が本体で自分が分身かしらん?

 ・・いや。かの者は本体の直属で、自分は支隊の長だろうか?


 愚にも付かない考えで気を逸らしつつ、勇者は無事にかの者を洗い上げた。いきり立つそれは、赤黒くも艶やかに輝いた。

 ざぶんと湯を体に掛けると、勇者は大時計を見上げた。あと、三分。


 ・・頃は、よし!

 いざ、征かんっ!

 ・・ヨーソロっ!





 閉ざされし扉の前に、立つ。

 かの者も立っている。見ぬこととする。

 念のため、扉に手を掛ける。鍵はしっかりと掛かっていた。

 勇者は扉を丁寧にノックする。強すぎず、弱すぎず。高まる鼓動に連動せぬように、柔らかくゆっくりと。

 一息置いてから「リンちゃん僕です、勇者です」と、扉に向かって声を掛けた。


 ・・扉のうちに、何があるのか?

 勇者のノックは声は。扉のうちに何を生じさせたのであろうか?

 扉の前に立つ勇者には、扉のうちに生じた何かを認知し得ない。扉が開かねば、扉のうちを見ることができないからだ。

 ・・いや。

 ノックが声が、すなわち『波動』が。扉のうちに、何かを生じさせたなら。

 勇者もまた。うちより生じた波動により、何らかの変容が生じるはず・・

 論より証拠。

 かの者は。

 先とは比ぶべくもなき程に。隆々と高まりごつごつと脈立ち、登頂をてらてらと光らせんばかりに。荒々しき、孤峰のごとし。

 ・・時来ることを。かの者は、知っているかのようであった。


 刹那。


「・・ゆっくりと、百を数えて。・・・それから、・・・お入り下さい・・」


 厳粛なまでの声音で。

 扉のうちは、応えた。


 その後、かちゃりと。

 鍵は解かれた。



 勇者の鼓動は爆裂寸前に至りしが、勇者はその奥の心を見据えようと、半眼を用いて空を求めた。


 そして。ゆっくりと数を数える。



「いち。・・に。・・さん。・・し。・・」



 一と二との間には、無限の数がある。

 数える先にも、無限の数がある。

 それでもひとは数えることで、この世界に区切りを見つけ、次なる世界を見出だすことができる。


 虚実は、同じものだから。

 永劫のなかに。

 今を見出だすのが、命だ。



「・・きゅうじゅうきゅう、・・ひゃく。」


 百に至れば、神異も生ず。


 儀式である。虚なるものが実と成る、そんな儀式が古来より伝わる。


 勇者は慎重に扉に手を掛けた。

 するすると扉は横に滑った。

 何故だか。音を立ててはならぬと感じ、爪先立って中に滑り込む。

 扉を背にして閉める。鍵を掛ける。


 がちゃり


 思わぬくらいに、大きな音。

 ひやりとした。

 企てが、露見したかのような気分。

 

 ・・けれども既に。

 鍵は、掛かってしまったのである。



 密室だ。




 脱衣所で浴衣を脱ぎ捨てる。手拭いを腰に巻こうと試みるも、起立のせいで上手く巻けない。諦めて、手拭いで押さえるに留めた。びくびくと、唸る。気が逸る。いよいよと、体が燃えんばかりに熱くなる。どくどくと、巡る血潮に顔は火照る。


 浴槽しんいきへと至る、最後のさい

 ひのきの内扉。この一枚が、勇者と娘とを隔てている。



 薄布、一枚ばかりを張り付けて。

 しっとりと。湯に浸かりし濡れた女神。

 白き艶肌つやはだ朱に染まり。

 流れる汗も香しく。

 ほつれた髪の悩ましく。

 

 隔てるものは。

 容易く開く、この扉のみ。



 から。からからから・・・



 軽い音とともに。苦もなく扉は、開く。

 中は、白きもや


 世界が確定する前の。

 飛び交う素粒子の渦のように。

 白き靄が、立ち込める。

 始まりの、景色。



 ・・だか。

 最奥に。



 香しき。

 女神の姿、朧げに見えん・・

(つづく)

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