第21話 聖力

 リビドー(libido)とは、なにか。


 深淵から衝き上がる力。身体の何処から発するものかも分からぬ、全くもって得体の知れない力がある。これは、『振動させる力』らしい。

 身体を構成する細胞は、これに振動させられて熱を帯びる。熱を帯びれば物理に則り活性化しエネルギーを生み出す。生じたエネルギーは体内に渦巻き、その発散先を求めたくなる・・

 つまり、リビドーとはこの『発散欲求』のことをいうのである。


 発散の対象は個々によって異なるが、多くはその個体が『最も満足を得られる』と信じているモノに注がれる。ゆえに『リビドーとは性欲である』と解される向きが強い。あながち間違っているともいえない。

 我々は。なにより性的欲求への追究に心を砕き、それを詩歌や絵画にまで昇華し愛でてきた稀有な種族だ。

 ・・いや。

 他種族も。我々には解せぬ体現表現で、多少なりとこれを謳歌しているのかもしれず。

 身体の何処から発するのかも分からぬ、全くもって得体の知れない力。

 これが生命の根源的な力であるなら・・

 なるほど、そのように考えた方が辻褄が合いそうだ。



 秋晴れの昼下がり。

 陽射し柔らかくして、空澄み渡り。

 勇者は従者の手を取って、ゆっくりと歩を進めて。従者は勇者に手を引かれて、苦しそうな、でも幸せそうな笑みを浮かべて。


 さーっと、爽やかな風が吹き抜ける。

 勇者は従者を気遣うように振り返る。

 従者の黒髪が、広がり浮かんだ。

 慌てて髪を押さえる従者。

 そんな従者にじゃれつくように、風は執拗に吹き上がる。艶やかな黒髪を、白い肌を隠したる服を、下から持ち上げては喜んでいる。


「もうっ!いやな風っ・・勇者さまっ!そんなにじっと、見ないでくださいっ!」

 従者は目を見開いている勇者を叱責しながら、片手で髪を押さえ服を押さえと忙しい。もう一方の手は。勇者に柔らかくもしっかりと握られていた。勇者は繋ぐ手を優しく引き寄せ、自分の陰に従者を入れた。そして、その黒髪を腕で覆うようにした。

「風が、収まるまで・・」

「・・あ、ありがとう・・」

 風は嬉しげに、吹き巻いていた。

 震わすような香りを、鼻腔に届けた。





 石造りの大きな服屋『ルシャノワ』。オーラル有数の老舗店だが、若い女性にも人気らしい。伝統を守りつつ、時の伊吹を取り入れる。それがこの店のスタイルだ。

 勇者が従者に「行きたい場所は?」と尋ねたら、従者はおずおずとこの店を指定した。


「あ、あの。別に買わなくとも。見るだけでよくて」

「僕もリンちゃんに洋服をプレゼントしたくてね、うずうずしていたところなんだ。・・でも、その店でないと駄目?」

「え?あの、『ルシャノワ風』という言葉があって。ルシャノワは、お洒落の最前線で発信地、ということみたいで。・・でも。お客さんは女の子ばかりですよね。やっぱり、やめにします」

「ぬぬっ・・行こう!」

「・・あ、ありがとう。・・でも勇者さま、先にお食事されては?」

「もう胸がいっぱい。いや、お腹いっぱい」

「?」


 勇者は従者のためにルシャノワの扉を押し開いた。「いらっしゃいませ」と品のある、女性にしてはやや低めの声が迎えた。その声に、勇者はびくりと肩を震わす。

 アストヘア。この店のあるじにして勇者の幼馴染みが、立っていた。

 青みがかった銀色のショートヘアーに、ダークグレーの瞳。張りのある小麦色の肌は、眩しいような健康美を発散する。豹のようにすらりとしたスタイルはアスリートの様だ。

 ルシャノワが若い女性に人気なのは、この男装が似合いそうな麗人のお陰とも聞く。

 麗人は、勇者を認めると柔らかな微笑を急に引っ込め鋭く睨んだ。


「勇者。何しに来たのよ」

 突慳貪つっけんどんな言葉を浴びせられても、勇者は平然としている。

「随分なご挨拶だなアストヘア。僕の記憶に間違いがなければ、此処は服屋のはずだが」

「あんたが買うような服はないわ」

「ふん、相変わらず刺々しいな。お前、今日もまた欲求不満か?」

「あんたねっ!ぶっ飛ばすわよっ!」

「最後に泣くのは、お前だけどなっ」

 麗人は麗人の膜を破って小娘のように喚き始め、勇者も普段と異なり悪餓鬼ハナタレの様だ。

 従者は、目を丸くして固まっている。

 麗人は漸く従者の存在に気づいたらしい。

「あら、お連れ様?・・勇者、あんたね。冗談じゃ済まされないわよ」

「・・何が、だ?」

「こんな可愛い子を。・・騙したの?かどわかしたの?さあ、あなた!もう大丈夫よ!こっちにいらっしゃい」

「おい待て。僕は人攫いか?」

「あんたなら有り得る」

 麗人アストヘアは子猫を保護するかのように従者を抱き締めた。子猫は固まっている。

「おい待て、アストヘア。その子は、僕の従者だぞ」

 保護した子猫を優しく連れ去ろうとしていたアストヘアの肩が、ぴくんと跳ねた。驚愕を張り付けた顔で、麗人は叫ぶ。

「嘘つくんじゃないわよっ!こ、こんなに綺麗で可愛らしい子がっ・・あ、あんたの?」

「従者だ」

 彫りの深い美人が憎悪を込めて睨み付けると、なかなかに凶悪な顔つきとなる。

 しかし、勇者は平然と頷き返す。

「僕の従者だ。連れ去るな」

 アストヘアの顔がぴくぴくと痙攣する。空気はぴんと張り詰める。子猫は更に固まる。

 はっとアストヘアが従者の様子に気づく。顔つきは一気に蕩けて、抱き締めた従者に優しい声で囁くように言った。

「ごめんなさい、言い合いなんかして。驚いたでしょう、・・このバカとは幼馴染みで」

「幼馴染みじゃない、腐れ縁だ」

「黙れバカっ!」

「語彙力不足の粗忽者めっ」

「ソコツ?それはあんたでしょうがっ!」


「あ、あの・・」

 再開されそうな口喧嘩じゃれあいに、従者がそっと割り込んだ。アストヘアが腕を解くと、従者は背筋を伸ばした。

「あのっ、申し遅れましたっ・・わたくし、勇者様の従者を務めさせて頂いております、リン・アルテミアネス・リンレイと申します。どうぞ、お見知りおき願います」

 娘は両手でスカートの裾すそをつまみ、頭を深々と下げた。

 その可憐な挨拶を受け、麗人も優美を以て応じる。

「これはご丁寧に。わたくし、アストヘア・ルアン・ガネーザと申します。よろしければアストヘアとお呼びください」

 娘は微笑む麗人に微笑みを返す。

「アストヘア様は、勇者様のお知り合いなのですか?」

「ただの、・・腐れ縁なの」

「そうだ、単なる腐れ縁さ」

「あんたは黙っていてっ」

「仮にも勇者だ。尊敬しろ」

「ふん。ただの変態でしょ!」

「誉め言葉だ。お前はただの痴しれ者か?」

「あ、あの・・」

「なあに?リンさま?」

「どうした?リンちゃん!」

 麗人と勇者の打ち合いに、娘は弱々しく介入した。

「あの、ごめんなさい。・・アストヘア様と勇者様、とっても仲がよろしいんですね。えっと、久々にお会いになられたのでしたら、積るお話もお有りでしょうから。・・私、少し外しますね」

「ダメよっ!」

「馬鹿なっ!」

 娘の申し出に、アストヘアと勇者は同時に叫ぶ。

「リン様のお召し物をお探しでしょ?」

「リンちゃんのために来たんだから!」


 勇者が娘の手を引こうとするとアストヘアが手刀でスパンコンと勇者の手首を打つ。

「イテテっ!・・何をするっ!」

 アストヘアは娘の前に立ち塞がり、びしっと勇者を指差して言う。

「勇者。リン様のお召し物は私に任せよ。あんたは此処に留まり扉を守れ」

 まるで指揮官のような威圧ある言葉に、一瞬勇者の身体が応じてしまう。その隙にアストヘアは娘を連れ去ろうとする。

「まっ、待てっ!」

「女人の衣装棚を探るような無粋はよせ。紳士たるの嗜みだろう」

「ぬぬ・・」

 そんな二人を取り成すように娘が言った。

「あ、あの・・アストヘア様。私、勇者様にも見てもらった方がいいかな・・と」

 その言葉は勇者の身体を震わせる。勇者は歓喜に舞い上がる。これに冷たい視線を浴びせた麗人は、娘に向かって優しく言った。

「リン様は、本当にお優しい。こんなの放っておいても構わないのですが。・・しかし、リン様が仰るならば。試着もありますから、いろいろお試し頂き、最後にコヤツに見せましょう。それで、宜しいでしょうか?」

「はい!」

 『試着』という言葉に勇者の目がきらりと光る。アストヘアは見逃さない。

「勇者、お前。不埒な真似をしたら、マジで許さん」

 アストヘアがずいっと前に出た。服屋の店主らしからぬ物凄い殺気オーラだ。

 これには勇者も肝を冷やしたらしく、大人しく視線を下げて答えた。

「・・わかった。リンちゃんを、頼む。・・リンちゃん!後でねっ!」

「はいっ!」


 アストヘアは、嬉しそうに笑っている娘の腰に手をまわし、店の奥へと誘う。勇者は扉の前に佇み、その後ろ姿を見送る。

 敗北と屈辱にまみれたか。さに、あらず。我らが勇者は、破れても破れてもへこたれる暇もなくその欲望に身を投じ、成すべきことを成さんと欲する。常々『振動』せられしその身体には、膨大なるエネルギーが渦巻いているからだ。その最重要なる誘引因子が一時的に隔離されたとしても、その脳裏に刻まれし様々なる艶態が変わることなく力を滾滾こんこんと引き出すのだ。咲きこぼれるような笑顔と、凛とした眼差し。押し倒したくなる困惑の、搦め捕り責め上げたくなる羞恥の。


 勇者の視線は、上階に続く階段へと飛ぶ。

 勝手知ったるなんとやら。目指す『下着売場』は最上階に、あり。

 その瞳には。リビドーから生じた聖光が、輝くばかりに再び宿った。

(つづく)

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