第20話 欺誑
『道具』は須く無垢だ。
使う者の想像力と、覚悟。
それを用いたならば。どのような未来が出現し得るのか。
想定したものも、し得なかったものも。
ありとあらゆる可能性。
それら凡てを正面から受け止める、覚悟。
勇者は未熟である。自らの世界で完結していた。
華やかで可憐なる姿。
魅惑的な赤に濡れる唇。
保護欲を誘う装い。
色情を掻き立てる力。
矛盾なく、両立させてみせた。
柔らかく微笑む娘を前に勇者は動けない。
―― こ、恋に溺れさせるつもりがっ
・・こっちこそっ
あっぷあっぷじゃないかっ! ――
道具の使い方に根本的な差異があるのだ。
勇者は道具で、娘を変えようとした。
娘は道具で、自らを変えてみせた。
勇者は世界を、自らに寄せようとした。
娘は世界に、自らが寄ってみせた。
生命の偉大さは、その広がりと深さとを創造していくことにある。
もし。幾多の個々が外界を変えようと励むなら、この世は千千に別れて虚しくなろう。
偉大なる生命の目論見は。内なる世界を以て外界との接合を計り、その膜を破って融合し絡合していくことにあるのだと思う。
個としての生命がその膜を超えて、大いなる生命そのものとなっていく。
それが。生命の進むべき道だと思う。
娘の、在り様。
見事なまでの、体現。
まさに、愛の女神に
・・だが。
たとえ打ち負かされても。
敵わぬと知りつつも。
今ある全てを出し尽くし、やり抜かんと励む姿もまた生命の本質だ。
無駄に無駄を重ねた先に、あるいは変化の糸口が見えることもあるだろう。
◇
黒髪を品佳く纏めるカチューシャ。
左右の耳の上に咲く黄色いリボン。
愛らしい耳に揺れる銀筒のイヤリング。
娘は恥ずかしそうな表情を浮かべつつ、白く細い指でイヤリングに触れてみせた。
「・・あの・・変、でしょうか・・」
勇者はあんぐりと口を開いたまま、微動だにしない。
娘は不安そうな顔つきで勇者を見詰める。ルージュの引かれた唇が、少し震える。
「・・いい・・」
「えっ、あの・・変じゃないですかっ?」
「食べちゃいたいくらいに、いい・・」
「え?・・あっ、勇者様、殆んど食べてないから!ごめんなさいっ、他へ行きましょう!何が食べたいですか?」
「リンちゃん!」
「はい?」
「リンちゃんを食べたいっ!!」
「・・なっ、ばっバカっ!何言ってるの!」
真っ赤な顔して睨む娘を前に、勇者はハッと我に返った。
―― まずいまずいっ ・・完全に嵌まり込んでいたぞっ
・・落ち着け。落ち着くんだ。
今は心を鎮め。
為すべきことを、為せ。
・・紅茶。紅茶だ。
よし。
・・紅茶。飲んで、頂きましょうっ ――
勇者は眼を閉じながら、ふうーっと長く息を吐いた。瞳にきりきりっと力を込めつつ、柔らかな顔を作ることに努める。
「すまない、リンちゃん。・・あんまり綺麗だったから、妙なことを口走ってしまったようだ。ごめんね。・・本当に、綺麗だ」
低く静かな声音で、ゆっくりと語った。
娘は猫のように表情を変え、くすぐったそうな笑みを浮かべた。
「ほ、本当・・ですか・・っ」
「眼が眩むほどに、・・綺麗だ」
「もうっ・・大げさですよっ」
「リンちゃん。僕の眼を見て。・・嘘を言っているように、見えるかい?」
「えっ・・・あ、ありがとう・・」
勇者の射抜くような眼差しに、思わず娘は俯く。
美しく飾った娘の。
湯立つような。
朱に、染まりし姿・・
それは。勇者をして、野獣に変革させんばかりの濃密な妖しさを放出した。思わず勇者は眼を
染まったままに、娘は静々という。
「あ、あの。・・勇者さま、お腹空いてらっしゃいますよね?・・他のお店に、行きましょうか?」
ごくりと生唾を呑む勇者。自重するよう、ゆっくりと顔を振る。
「・・飲まねば」
「え?」
「いや。・・リンちゃん。このコース料理は如何でしたか?」
「え、はい!とても素晴らしかったですっ」
「うん、そうだね。だから、敬意を表そう」
「敬意、ですか?」
「そう。料理人は、食べるという行為を実に多面的に表現してくれる。食材の美しさと、そこに宿る根源的な力。食べて生きることの甘美と感謝。やがては終焉を迎える儚さと、足ることを知るという生命の要諦。一皿一皿に、コースという流れのなかに、実に見事に物語られている」
「・・はいっ」
娘は瞳を輝かす。勇者は頷く。
「そしてこの、カフェ・プティフール」
「カフェ・プティフール?」
「うん。お茶と、小さな焼き菓子。僕らは、料理人が精魂込めた物語を旅してきました。いま、その終焉に臨もうとしている。ほんのり甘くサクサクした焼き菓子に心を委ねて。ゆっくりと紅茶を口に含む。豊かな香りが、脳裏に宿る記憶を今一度呼び覚まして。最初の一皿から物語を
「・・それが、敬意・・」
「そのとおりです」
言葉は道具だ。道具は無垢だ。
・・道具には、罪はないのだ。
瞳をきらきらさせた娘は、ティーカップを取りながら言った。
「私、もうお腹いっぱいで。・・勇者さまが教えてくれなかったら。私、とっても失礼なことをしちゃうところでしたっ! 最後の一滴まで、残さずちゃんと頂きますっ」
・・娘よ、許せ。
勇者は、大いなる罪を体内に宿そうとするかのように、長く長く息を吸った。そして、その覚悟を示さんばかりに、娘に対して深々と
しかし。瞳から煌めく光を発する娘には、自分の言葉に肯首してくれる勇者が見えるばかりだった。
こくこく・・
白い喉が。
その液体を嚥下するとともに、微かながらも上下に動く。
勇者は、食い入るように見詰める。
ルージュの引かれた愛らしい唇。
薄く開かれ、その口内へ喉奥へ。
思わず勇者は、沸き上がる唾液をごくりと呑み込んだ。
―― お、同じものが。
いまリンちゃんのお口に吸い込まれ・・
その喉へ体内へと飲み込まれていく ――
眩暈がするような快感。
愛おしいひとに、呑み込まれていく。
自分の体液が。自分の分身が。
その喉をとおり、胃を満たし。
分解されて、腸で吸収されて。
愛おしいひとの、一部となって。
この想像が。我々に興奮を与えるのは当然のことである。生物の進化を知れば、自明の理だ。
動物の祖は『腔腸動物』だ。極簡単にいってしまうと、入口としての口腔と、出口としての肛門、その間の胃腸により構成された、実にシンプルな生き物である。動物の器官として脳や心臓が造られたのは、生物史的にはずっと後のことなのだ。
栄養素を口腔から取り込み胃腸で吸収し、不要物を肛門から排泄する。それが彼らの生命活動であった。故に、彼らを祖とする動物に於いて、食欲と排泄欲が第一次欲求に上がるのは当然のことなのだ。
彼らは進化のなかで、様々な能力を獲得していった。だが、身体器官の中心は、長きに渡って口腔と胃腸と肛門だった。いわば、口腔と胃腸と肛門に、様々な機能が付加されていったのだ。
彼らが雄雌異体の生殖能力を得るに至ったとき、雌体と雄体は互いに体細胞の交換を行うようになった。交換の場は、それぞれの胃腸に於いてだ。初期の腔腸動物は、口腔と肛門が生殖器を兼ねた。
つまり、彼らは口腔と肛門とを用いて相手の体細胞を胃腸の中に取り込み、また、自らの体細胞を相手の胃腸に注入することで生殖を行ったのだ。
腔腸動物は、我々の祖先だ。進化の下流にある我々が、相手の体液を口腔や肛門を用いて胃腸に取り込むことを望み、また自らの体液を相手の胃腸に注ぎ込みたいと欲することは、生物として当然の理なのだ。
愛おしき娘に、自らの体液を嚥下させし勇者。眩暈を覚える程の快感に襲われるのも無理はない。
娘は、その白い喉元を勇者に凝視されていることも知らずに。こくこくとその全てを飲み干した・・
ふぅと息を吐き、カップを置いた。
「ご馳走様でした!美味しかったですっ!」
娘はテーブルに向かって一礼した。美しい黒髪がさらさらと流れた。
顔を上げた娘は、またふぅと息を吐いた。柳眉を寄せて眼を閉じて。長い睫毛を震わせて、喘ぐように言った。
「ああっ、・・もうだめですっ 苦しいっ お腹が一杯過ぎて、・・もぉ、だめぇっ」
苦しげな表情のなかに。
満たされて。
恍惚に漂うような色合いが混じり。
・・得も言われぬ、色っぽさ。
淫靡とも表現したくなる表情に。
心、奪われ。
再びごくりと生唾を呑み込んで。
―― リンちゃんを苦しめつつも。
溶けて吸われて養分となって。
恍惚のなかで、取り込まれていく ――
「勇者さま?」
「・・えっ?は、はいっ?」
「どうしました?ぼーっとしちゃって。・・勇者さまは珈琲、飲まないのですか?」
「あ、ああ。も、もちろん飲むよ!」
勇者は慌てて珈琲を流し込む。その香りと苦味が、彼の脳を活性化させた。
―― そうだ。唾液ばかりじゃない。
・・惚れ薬だ。
リンちゃんの体内へと侵入した、媚薬。
効き始めるのは、二時間後・・――
勇者はちらりと壁時計を確認した。
そして。
娘の瞳の奥まで探るように見詰めながら、ゆっくりと言った。
「美味しかったね、リンちゃん。・・食後の運動を兼ねて。・・少し歩きませんか?」
(つづく)
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