第20話 欺誑

 『道具』は須く無垢だ。

 使


 それを用いたならば。どのような未来が出現し得るのか。

 想定したものも、し得なかったものも。

 ありとあらゆる可能性。

 それら凡てを正面から受け止める、覚悟。


 勇者は未熟である。自らの世界で完結していた。


 華やかで可憐なる姿。

 魅惑的な赤に濡れる唇。

 保護欲を誘う装い。

 色情を掻き立てる力。

 矛盾なく、両立させてみせた。


 柔らかく微笑む娘を前に勇者は動けない。



―― こ、恋に溺れさせるつもりがっ

 ・・こっちこそっ

 あっぷあっぷじゃないかっ! ――


 

 道具の使い方に根本的な差異があるのだ。


 勇者は道具で、娘を変えようとした。

 娘は道具で、自らを変えてみせた。

 勇者は世界を、自らに寄せようとした。

 娘は世界に、自らが寄ってみせた。

 

 生命の偉大さは、その広がりと深さとを創造していくことにある。

 もし。幾多の個々が外界を変えようと励むなら、この世は千千に別れて虚しくなろう。

 偉大なる生命の目論見は。内なる世界を以て外界との接合を計り、その膜を破って融合し絡合していくことにあるのだと思う。

 個としての生命がその膜を超えて、大いなる生命そのものとなっていく。

 それが。生命の進むべき道だと思う。


 娘の、在り様。

 見事なまでの、体現。

 まさに、愛の女神に相応ふさわしい。



 ・・だが。

 たとえ打ち負かされても。

 敵わぬと知りつつも。

 今ある全てを出し尽くし、やり抜かんと励む姿もまた生命の本質だ。

 無駄に無駄を重ねた先に、あるいは変化の糸口が見えることもあるだろう。



 


 黒髪を品佳く纏めるカチューシャ。

 左右の耳の上に咲く黄色いリボン。

 愛らしい耳に揺れる銀筒のイヤリング。

 娘は恥ずかしそうな表情を浮かべつつ、白く細い指でイヤリングに触れてみせた。

「・・あの・・変、でしょうか・・」

 勇者はあんぐりと口を開いたまま、微動だにしない。

 娘は不安そうな顔つきで勇者を見詰める。ルージュの引かれた唇が、少し震える。

「・・いい・・」

「えっ、あの・・変じゃないですかっ?」

「食べちゃいたいくらいに、いい・・」

「え?・・あっ、勇者様、殆んど食べてないから!ごめんなさいっ、他へ行きましょう!何が食べたいですか?」

「リンちゃん!」

「はい?」

「リンちゃんを食べたいっ!!」

「・・なっ、ばっバカっ!何言ってるの!」

 真っ赤な顔して睨む娘を前に、勇者はハッと我に返った。


―― まずいまずいっ ・・完全に嵌まり込んでいたぞっ

 ・・落ち着け。落ち着くんだ。


 今は心を鎮め。

 為すべきことを、為せ。


 ・・紅茶。紅茶だ。

 よし。

 ・・紅茶。飲んで、頂きましょうっ ――



 勇者は眼を閉じながら、ふうーっと長く息を吐いた。瞳にきりきりっと力を込めつつ、柔らかな顔を作ることに努める。

「すまない、リンちゃん。・・あんまり綺麗だったから、妙なことを口走ってしまったようだ。ごめんね。・・本当に、綺麗だ」

 低く静かな声音で、ゆっくりと語った。

 娘は猫のように表情を変え、くすぐったそうな笑みを浮かべた。

「ほ、本当・・ですか・・っ」

「眼が眩むほどに、・・綺麗だ」

「もうっ・・大げさですよっ」

「リンちゃん。僕の眼を見て。・・嘘を言っているように、見えるかい?」

「えっ・・・あ、ありがとう・・」

 勇者の射抜くような眼差しに、思わず娘は俯く。

 美しく飾った娘の。

 湯立つような。

 朱に、染まりし姿・・


 それは。勇者をして、野獣に変革させんばかりの濃密な妖しさを放出した。思わず勇者は眼をつぶる。

 染まったままに、娘は静々という。

「あ、あの。・・勇者さま、お腹空いてらっしゃいますよね?・・他のお店に、行きましょうか?」

 ごくりと生唾を呑む勇者。自重するよう、ゆっくりと顔を振る。

「・・飲まねば」

「え?」

「いや。・・リンちゃん。このコース料理は如何でしたか?」

「え、はい!とても素晴らしかったですっ」

「うん、そうだね。だから、敬意を表そう」

「敬意、ですか?」

「そう。料理人は、食べるという行為を実に多面的に表現してくれる。食材の美しさと、そこに宿る根源的な力。食べて生きることの甘美と感謝。やがては終焉を迎える儚さと、足ることを知るという生命の要諦。一皿一皿に、コースという流れのなかに、実に見事に物語られている」

「・・はいっ」

 娘は瞳を輝かす。勇者は頷く。

「そしてこの、カフェ・プティフール」

「カフェ・プティフール?」

「うん。お茶と、小さな焼き菓子。僕らは、料理人が精魂込めた物語を旅してきました。いま、その終焉に臨もうとしている。ほんのり甘くサクサクした焼き菓子に心を委ねて。ゆっくりと紅茶を口に含む。豊かな香りが、脳裏に宿る記憶を今一度呼び覚まして。最初の一皿から物語をなぞり。今際いまわきわに、人生を振り返るように。・・最後の一滴までを飲み干すことで、その世界を全うする」

「・・それが、敬意・・」

「そのとおりです」


 言葉は道具だ。道具は無垢だ。

 ・・道具には、罪はないのだ。


 瞳をきらきらさせた娘は、ティーカップを取りながら言った。

「私、もうお腹いっぱいで。・・勇者さまが教えてくれなかったら。私、とっても失礼なことをしちゃうところでしたっ! 最後の一滴まで、残さずちゃんと頂きますっ」


 ・・娘よ、許せ。

 勇者は、大いなる罪を体内に宿そうとするかのように、長く長く息を吸った。そして、その覚悟を示さんばかりに、娘に対して深々とこうべを垂れた。

 しかし。瞳から煌めく光を発する娘には、自分の言葉に肯首してくれる勇者が見えるばかりだった。



 こくこく・・


 白い喉が。

 その液体を嚥下するとともに、微かながらも上下に動く。

 勇者は、食い入るように見詰める。

 ルージュの引かれた愛らしい唇。

 薄く開かれ、その口内へ喉奥へ。

 思わず勇者は、沸き上がる唾液をごくりと呑み込んだ。


―― お、同じものが。

 いまリンちゃんのお口に吸い込まれ・・

 その喉へ体内へと飲み込まれていく ――



 眩暈がするような快感。


 愛おしいひとに、呑み込まれていく。

 自分の体液が。自分の分身が。

 その喉をとおり、胃を満たし。

 分解されて、腸で吸収されて。

 愛おしいひとの、一部となって。


 この想像が。我々に興奮を与えるのは当然のことである。生物の進化を知れば、自明の理だ。

 動物の祖は『腔腸動物』だ。極簡単にいってしまうと、入口としての口腔と、出口としての肛門、その間の胃腸により構成された、実にシンプルな生き物である。動物の器官として脳や心臓が造られたのは、生物史的にはずっと後のことなのだ。

 栄養素を口腔から取り込み胃腸で吸収し、不要物を肛門から排泄する。それが彼らの生命活動であった。故に、彼らを祖とする動物に於いて、食欲と排泄欲が第一次欲求に上がるのは当然のことなのだ。

 彼らは進化のなかで、様々な能力を獲得していった。だが、身体器官の中心は、長きに渡って口腔と胃腸と肛門だった。いわば、口腔と胃腸と肛門に、様々な機能が付加されていったのだ。

 彼らが雄雌異体の生殖能力を得るに至ったとき、雌体と雄体は互いに体細胞の交換を行うようになった。交換の場は、それぞれの胃腸に於いてだ。初期の腔腸動物は、口腔と肛門が生殖器を兼ねた。

 つまり、彼らは口腔と肛門とを用いて相手の体細胞を胃腸の中に取り込み、また、自らの体細胞を相手の胃腸に注入することで生殖を行ったのだ。

 腔腸動物は、我々の祖先だ。進化の下流にある我々が、相手の体液を口腔や肛門を用いて胃腸に取り込むことを望み、また自らの体液を相手の胃腸に注ぎ込みたいと欲することは、生物として当然の理なのだ。


 愛おしき娘に、自らの体液を嚥下させし勇者。眩暈を覚える程の快感に襲われるのも無理はない。


 娘は、その白い喉元を勇者に凝視されていることも知らずに。こくこくとその全てを飲み干した・・


 ふぅと息を吐き、カップを置いた。

「ご馳走様でした!美味しかったですっ!」

 娘はテーブルに向かって一礼した。美しい黒髪がさらさらと流れた。

 顔を上げた娘は、またふぅと息を吐いた。柳眉を寄せて眼を閉じて。長い睫毛を震わせて、喘ぐように言った。

「ああっ、・・もうだめですっ 苦しいっ  お腹が一杯過ぎて、・・もぉ、だめぇっ」


 苦しげな表情のなかに。

 満たされて。

 恍惚に漂うような色合いが混じり。

 ・・得も言われぬ、色っぽさ。


 淫靡とも表現したくなる表情に。

 心、奪われ。

 再びごくりと生唾を呑み込んで。


―― リンちゃんを苦しめつつも。

 溶けて吸われて養分となって。

 恍惚のなかで、取り込まれていく ――


「勇者さま?」

「・・えっ?は、はいっ?」

「どうしました?ぼーっとしちゃって。・・勇者さまは珈琲、飲まないのですか?」

「あ、ああ。も、もちろん飲むよ!」

 勇者は慌てて珈琲を流し込む。その香りと苦味が、彼の脳を活性化させた。



―― そうだ。唾液ばかりじゃない。

 ・・惚れ薬だ。

 リンちゃんの体内へと侵入した、媚薬。


 効き始めるのは、二時間後・・――



 勇者はちらりと壁時計を確認した。

 そして。

 娘の瞳の奥まで探るように見詰めながら、ゆっくりと言った。


「美味しかったね、リンちゃん。・・食後の運動を兼ねて。・・少し歩きませんか?」

(つづく)

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