第19話 道具

 生きることは、実に悩ましい。


 この世は光に満ち、すべての存在が目映まばゆく奇跡のようにきらめいている。

 同時に。

 この世は無情と矛盾に溢れ、愚行は繰り返され慟哭がやむことはない。

 その度に、闇は広がり深くなる。


 世情に心を浸せば浸すほど、その美しさに心は踊り、その理不尽さに心は凍える。喜びや楽しみに包まれながらも、怒りや哀しみと無縁ではいられない。

 怒りや哀しみは御免被ろうと一歩下がって離れたなら、なるほどぶ厚い膜に遮られ、その明暗振動は届かぬだろう。だが同時に、薫り立つような艶美も吐息のような愛憐も、その肌に感じることは叶うまい。


 生きることは、抱えていくことだ。

 葛藤を抱き締めながら歩むものだ。


 喜怒哀楽を呑み込んで、割り切れぬものを引き摺りながら、光を求めて彷徨うものだ。

 たとえその先が闇に閉ざされようとも。

 心震わす光を感じ得る限り、進まん。


 そこに、麗しきものがあるというなら。

 その時、愛しきものに触れ得るなら。

 全てを捧げ、その身で包め。

 やがてその身が朽ち果てるとき。

 包みしその身は、雫となろう。


 行く手を阻む闇は、岩石のように堅牢だ。

 だが。

 滴る雫に、穿うがたれぬ岩などあろうか。

 久遠の時が。幾多の雫が。

 暗黒なる岩をも穿たん。

 


 生きることだけが、闇を穿つ。

 永劫の先へと、光を届けよう。






 勇者の手を引く従者は、通り沿いの小洒落た店に入った。淡いピンクとすみれ色を基調とした、乙女チックなカフェである。得も言えぬ、甘い香りが充満する。

 ピンク色のメイド服を着た店員さんに案内され、二人は席に着いた。


「リンちゃん。ここは?」

「ふふ、パンケーキ屋さんですよ」

「パンケーキ?・・ランチじゃないの?」

「ランチですよ」

「パンケーキは、デザートでしょ?」

「違いますよ。チーズと蜂蜜、ジャムやクリーム、フルーツも盛り沢山なんですっ!」

「・・だから。デザート、でしょ?」

「違いますってば!」

 頬を膨らませて言い張る従者。困り顔の勇者は辺りを見回すが、女の子ばかりだ。

 ・・ここでは、従者の意見が正解だろう。常識とは、集団が持つ雰囲気により醸成されるものだ。

「・・それにしても。女の子ばかりだね」

「ふふ。・・恥ずかしい?」

「へ?」


 ちょっと悪戯っぽく微笑む娘。

 間の抜けた返事をする勇者。


「女の子に大人気のお店なんです。一度来てみたかったの!・・でも。男の人には居心地悪いでしょうか・・?あの・・、恥ずかしかったり、しちゃいます?」


 やや頬を染め、上目遣いに尋ねる従者。

 ふー、と息を吐く勇者。


―― どこまで。・・どこまで可愛らしい思考をしているんだ?

 これが、報復的な策だというのか?

 これで、僕が羞恥に震えるとでも?

 リンちゃん、君という子は本当に。・・舐め回したくなるだろっ!甘ちゃんめっ!


 ・・だが。ここはしっかり恥ずかしがてみせねばなるまい。たとえ見せ掛けでも、均衡は重要だ。

 ・・さて。恥ずかしいって、どんな感じに振る舞えばいいんだっけ? ――


 勇者は頭をボリボリ掻いた。

「参った。・・うん、恥ずかしい」

「本当ですかっ!」

「うん。・・なんか、むずむず、する」

「ふふ。・・でも、ごめんなさい。お茶だけ頂いて、他へ行きましょう」

 涼やかに微笑して従者は言う。勇者はペロリと唇を舐め、たまらぬという顔付きで息を吐き出しながら言う。

「だ、大丈夫だよ。せっかく来たんだから、ここでランチを頂こうよ」

「・・ごめんなさい。・・わたし、勇者さまにいじわる、したくなっちゃって」

「ははっ!こんな可愛いいじわるなら大歓迎だ。僕が羞恥にまみれよう!」

「・・ばか」

「さあ、注文しよう。・・肉はあるの?」

「え?お肉ですか?うーん、ハムサラダならあるみたいですけど・・」

「ハム?仕方ない、僕はそれで」

「コースの方がお得みたいですよ?単品で取るのと、お値段もあまり変わらないみたい」

「不思議な料金設定だね。じゃあ、それで」

「はい!」


 従者はいつもよりもリラックスしている様子だ。酒場とは違って、ここには従者を不躾に眺めるような輩は一人しかいない。

 勇者ぶしつけは深く頭を下げた。

「ごめんね。・・いつも苦労を掛けて」

「え?なんです、急に?」

「いや、僕が連れ回すばかっりに。ここにだってお友達と来たかったろうに。すまない」

「そんな。・・私、勇者さまと・・あの、楽しいですからっ」

「ありがとう。リンちゃんは優しいな」

「そ、そんなんじゃないわっ」

 娘は顔を赤らめ、怒ったように見上げた。

 勇者は眼を細め、柔らかく見詰めた。

 静かに微笑する勇者を見て、娘は尋ねた。

「・・勇者様。いま何を、考えてます?」

「え?リンちゃん可愛いなあと、思ってた」

「しーっ!そ、そういうのダメっ!」

 勇者は日頃から声が大きい。開けっ広げな大音声に娘は慌てる。人差し指を艶やかな唇に当て、きっと勇者を睨んだ。

 心なしか、周囲のお客さんがくすくすと笑っている感じがする。少なくとも娘にはそう感じる。勇者は感じないのだろう、ぽかんとしている。恨めしそうに、ますます娘は勇者を睨み付ける。だが、勇者にとってはその姿も、脳内保存版の愛らしさだ。

 均衡とは難しい。こと娘と勇者の間では、羞恥は娘のみが担うものらしい。

 漸くそのことに気付いた勇者は、慌てて頭を下げながら言った。

「ご、ごめんなさい。つい、その。恥ずかしさと緊張で、本音が溢れました」

「・・本当に緊張、してるんですか?」

「してますしてますっ!ガチガチですっ」

 ・・何処どこが、だ?

「もうっ!全然緊張してなさそうだしっ!恥ずかしそうにも見えませんっ」

 娘はぷんぷんと怒ってみせたが、耐えきれないように笑みをこぼした。

「本当に困ったひと。・・でも、いつも楽しそうで、幸せですね」

「いつも楽しいわけじゃない。リンちゃんといる時が楽しいんだ!今こそ幸せっ!」

「しーっ!!もうっ!・・・ばか」

 そんな会話を咲かせていると、テーブルに料理が並び始めた。



 花壇に咲く花々のように、色彩豊かな皿が並ぶ。なるほど、料理とはまず眼で楽しむものだ。

 多様な色は脳に多大な刺激を与える。刺激を受けた脳は、返礼として幸福感を与える。

 『幸せ』と感じ得る物質を放出するのだ。

 それを受けた肉体は、いま在る環境が平安無事だと認識し、生命活動を促進させる。即ち欲情が高まる。まずは個体維持のための食欲、続いて種族繁栄のための性欲。当然の連鎖だ。

 色彩の多様性を見出だしたのは、植物だ。彼らは昆虫類をして、自分達の受粉にこれを利用した。様々な色彩の美しい花を開かせ、様々な虫たちの欲情を喚起し、以て自分達の性欲を満たした。

 進化の下流にいる人間は、これらの反応を受け継いでいる。

 男女が睦まじくなるための前儀として、見目麗しき食を共にすることは自然の理だ。


 もっとも。勇者に於いては、一足とびに次なる欲求に身を焦がしている。ハムサラダを突っつくばかりで、殆んどの皿を娘に押し付けている。

「あーんもう、無理ですよーっ」などと言いながら、娘は嬉しそうにパクついている。

 そんな娘を幸せそうに眺めながら、勇者はどこか思案げだ。


―― 使うか。否か。 ――


 散々悩んだはずではあるが、いざとなればまた悩むもの。手段は目的を達成するためにあるものだが、手段は世界そのものを変え得るものでもある。

 勇者はそれを重々承知だ。 



―― だが。・・ 是が非でも。――


 勇者は腹をくくった。

 道具はすべからく無垢だ。使う者の想像力と、覚悟。それに掛かっている。


 料理は進み、最後に飲み物のオーダーを取られた。店員が去ると「ちょっと、ごめんなさい」と娘は席を立った。お化粧直しであろう。

 勇者はきらりと光る眼を隠しつつ、池に映る月を眺めるように、静かに頷いた。


 娘が店の奥に隠れる。勇者は素早く背負袋を引き寄せる。娘のための紅茶と勇者のための珈琲が来る。店の奥を確かめる。握る瓶から素早く注ぐ。ピンク色の液体が紅茶に溶ける。スプーンに自らの唾液をたっぷり盛る。そのスプーンで紅茶を丁寧にかき回す。

 流れるような動作。脳内で何十回と繰り返してきた。当たり前の行為を当たり前に成し遂げるように。

 瓶を背負袋に仕舞った勇者は、ふうと息を吐く。椅子に沈み込む。しかし、脱力しかけた体を再起動させんばかりに、太い眉毛をごしごしと擦り上げて座り直す。


―― 大切なのは、ここから。

  全てを、見届けねば。

  ・・頼むぞ 【恋に溺れてショッキング・ピンク】っ!――



 ややあり。

 ふうわりと、甘く薫った。

 見上げれば。

 柔らかく微笑む娘が立っていた。

 麗しい唇には、ルージュが引かれていた。

 息が止まる。

 その鮮明な赤に、時を盗まれる。

 

 娘は滑るように席に着いた。

 ルージュばかりではなかった。

 頭には落ち着きある茶色のカチューシャ。豊かな黒髪をより艶やかに魅せて。

 左右の耳の上には、黄色い紐状のリボンが咲く。

 その愛らしい耳には、筒状の銀のイヤリングが煌めいて。

 女の子然とした可憐さと。

 熟成した女の色っぽさ。

 ほんの数分で、娘は『道具』を駆使して変身してみせた。持てる魅力を、存分に引き出してきた。


 ルージュの引かれた唇が柔らかく綻ぶ。

 世界は、がらりと変容した。


 勇者はその艶やかな潤いの虜となりて、身動ぐことすら出来なかった。

(つづく)

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