第16話 存在
華やかな浴衣に身を包み、恥じらい微笑む従者の可憐。
襟をぴたりと合わせても。湯に蒸されし芳醇なる果実の、溢れし甘美な香りは隠せるわけもなく。滴るように麗しく。搾り取られしときを畏れ待つような佇まい。
堪えても堪えても。
勇者は既に忘我の心地。
湯の後は、贅を尽くせし豪奢な晩餐。その品数に目が回りそうだ。
そんな従者が愛おしくて堪らない勇者は、従者が勧めるままに箸を動かす。皿が空けば従者は取り分け、椀が空けば従者は装う。気が付けば、勇者は腹がくちくて動けない。
食事の間の奥に、次の間が見える。開いた襖から、ふっくら柔らかそうな布団がぴっとり並ぶのが見える。枕の上には仄かな灯りを揺らす
従者は、背後の寝室を一切見ない。見てはならぬと戒めるかのように、ぴんと背筋を伸ばし強張っている。
勇者は従者の背後にどうしても目がいってしまう。従者の愛らしい姿と、魅惑な間とを交互に見てしまう。しかし、腹がくちくて頭が回らない。いつものように理屈を捏ねる力もない。
「だ、だめだ!リンちゃん!さすがにお腹がいっぱいだ!もうどうにもならないっ!・・悔しいがっ、少し休ませてくださいっ!」
「あっ、大丈夫ですかっ」
従者は心配そうな顔をして、ふらつく勇者の手を取ってあげる。恐れていた寝室も、勇者を介抱するためならすんなり入れた。
従者は。勇者が何に悔しがっているのか、全く理解できていない。勇者は食べ過ぎたことを悔やむような男ではない。最上なるものを食べる手管を喪失させた己に、激しい怒りと深い絶望を感じている。まあ、理解せずともよい。
勇者は従者に手を取られ、布団に沈む。
それは。もはや布団を越えていた。
温かく。微かに漂う香が染み入り。
だが。自我を保ちてその
可憐なる姿を自我の箱に入れておきたい。
混沌たる渦の前で留まろうとする。
だが。
境界は曖昧となり、混沌に呑まれてゆく。
手を。・・手を取りたいと、欲する。
ゆったり見おろす柔らかな笑顔。
慈愛に満ちたような眼差しで。
娘はそっと、手を包んだ。
解けて。
全て解けて。
すうっと。
吸い込まれていった。
◇
生と性とを司り、支配する町。もちろん、その主役は女たちだ。女たちが颯爽と歩くこの町は、とても活力があり小気味良い。
従者は巫女的素養が高いのか、町の活気を取り込み溌剌としていた。陰気な顔つきの勇者とは真逆である。
「勇者様?・・大丈夫ですか?」
朝食を終え、旅館を出た二人。部屋に荷を置いてきたため軽装だ。
「もう一泊しよう」と鬼気迫る勢いで訴える勇者に、思わず従者は折れた。珍しく、勇者は朝から鬱ぎ込んでいた。心配そうな顔で勇者を見上げる従者。
「・・おなか、大丈夫ですか?」
いや、大丈夫なはずだ。憂鬱な顔つきながらも、朝食をもしゃもしゃと食べ尽くしていたのだから。
気遣う従者に、勇者は窶れたような笑顔を向けた。
「全然、大丈夫。元気一杯」
「元気、ありませんよね?」
従者には、分からない。勇者の憂鬱を。
策を破られようとも。
企てが阻まれようとも。
生きている限り次はある。
壁は高ければ高いほど越えたとき世界が変わる。だから、奮起できる。
ところが。無策のままに何もせず、流れるままに時過ぎゆかば。・・身を蝕む空虚感。これを脱するのは実に厳しい。心は冷え、燃やすべき気概が見当たらない。勇者は無残に冷えた虚ろの底にいた。
意志を以て世に挑まんとする気概。最も重要だといってよい。
だが一方で。勇者は、無為の為をまだ知らない。存在の力を、だ。
その存在がアフォードしていることに、無自覚なのだ。
外界を
この妙を知ってこそ、意志の創世は補完される。
・・どうやら。
火種が零れ落ちたらしい。
漸く、彼の瞳に光が灯った。
「リンちゃん。折角のオーラルだ。お買い物にいってらっしゃい」
「お買い物?」
「うん。武器や防具は、後で一緒に探しに行くとして。お洋服とかアクセサリーだとか。身に付けるものを、探していらっしゃい」
「でも」
「無駄遣いなんてものは存在しない。後は優先順位の問題だろうけど、リンちゃんが綺麗に着飾ってくれると僕はわくわくする。力が沸き上がる。戦力増強に直結する。リンちゃんが喜んでくれても、同じ効果が生じる。重要なことです。・・でも、このお買い物には同行しません。後で、びっくりしたいから。オーラルは治安が頗る良いので一人歩きでも心配ない。僕は
「私もギルドに行きます」
「ううん、大丈夫さ。報告するだけだから。いや、白状するとね。人混みが苦手なんだ。出来ればギルドマスターの淹れる珈琲でも飲みながら、のんびりしたいなぁと」
「あっ。そういうことでしたら」
にこやかに笑う従者に、勇者は金貨が入った革袋を手渡した。
「っ!こんなにっ!だめですっ!」
「大丈夫。我々の戦力増強のためにも、人間世界の経済を回すためにも。しっかりと使うことがリンちゃんの任務だ。頼んだよ」
「・・ありがとうございます・・」
従者は何度も振り返りながら、ショッピングストリートへと走っていった。
勇者は
ムサの洞窟とは、ゾルドの森の西に位置する太古から続く洞窟である。
ギルドマスターの話では、ゾルディック橋の
何故、ゾルディック橋に
どうにも、きな臭い。日常が少しずつ侵蝕され、綻びが広がっていくような違和感。世界は、性急に動いているのかもしれない。
勇者はギルドマスターの淹れる珈琲を飲み干すと、そそくさとその場を後にした。
辺りを警戒するように見渡し、素早く裏通りへ入っていく勇者。
迷路みたいな細道を、右へ左へと折れては折れて。似たような小路ばかりが溢れる通りを進んでいくと、方向感覚はすっかり失わている。
歩いても歩いても同じところを繰り返し進んでいるように思えてくる。
そんな不安が沸き上がってきた頃。漸くあの扉が見えてきた。
重厚な扉だ。
厳めしい
覚悟なきものは、去れ。
そう、告げている。
勇者は扉を真っ直ぐに見据えた。
そして手を掛け、ぐっと力を込めた。
分厚い扉はくぐもったような音を上げ、闇へと続く口をぽっかりと開いた。
勇者は脚を踏みしめながら、飛び込んでいった。
(つづく)
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