第15話 呉呉
町は器だ。我々同様、中身により顔が変わり、顔によって中身が変わる。
この国には四つの大きな町がある。行政の中心である王都エゴ、かつての首都であり文化の集積地たる古都アルシア、港湾都市として栄えるピリグム、そして経済の中心を担う民都オーラル。
この国のほぼ中央に位置し交通の要衝でもあるオーラルには人・物・情報が集まり、大陸随一の学術都市にして最大の歓楽街というやや相反する顔が形成されてきた。これはオーラルが辿った歴史が関係している。
この町はエルフが造った町だ。深い叡知と高度の技術を有するエルフたちは、この町を瞬く間に発展させた。しかし、ゾルドの森に巣食う
ある日、玄い雌犬に乗った老婆が現れた。
老婆は密かに忍び入り、隙を見つけては女たち一人一人に言葉を掛けた。世を説いた。その上で、青い手をかざし安楽なる終焉の術を示した。赤い手をかざし悪鬼を屠り誇りを取り戻す策を示した。女たちは一様に赤い手を取った。
老婆は女たちに特殊な魔法と技を授けた。相手を誘惑し快楽の絶頂に誘う魔法。相手を淫靡なる俘囚へと導く性技。
老婆は説いた。この法と技とで悪鬼を素早く果たさせたまえ。悪鬼鎮まれば身を守れん。この法と技とで昼夜問わず悪鬼絡めたまえ。悪鬼堕落せすば時を得よう。
魔法を得意とし手先の器用なエルフらは、すぐに授けられた法と技とを自らのものとした。
赤き上弦の三日月が睥睨する夜更け。老婆率いる一団が音もなく殺到した。膾のように切り捨てられていく
老婆は玄い雌犬に乗って町を去った。授けられた魔法と技は町の宝となった。魔法は研究され、医療系魔法の権威者らを排出した。技もまた研鑽され、街の経済に大きく貢献した。
大陸随一の学術都市にして最大の歓楽街はこうして生まれた。
未だにその魔法とその技は研究され続け、発展し続けているという。
石造りの巨大な門。門には赤い旗が掲げられ棚引いている。門のすぐ近くに『穢れ塚』という小さな塚がある。門を潜る前に、この塚の前で手を叩くのが習わしだ。
従者をお姫様抱っこした勇者は、抱っこしたまま手を叩こうと片膝上げたりモゾモゾしている。
「ありがとうございます。もう、下ろしてください」
「なに大丈夫さ。掴まっていて」
「大丈夫じゃないの。下ろして」
「大丈夫だって。手を叩くくらい」
「違うのっ・・恥ずかしいから、下ろして」
「へ?」
草原のなかで柔らかく笑い抱かれていた従者は門前で顔を赤らめ眉を吊り上げていた。
草原に魔物は現れず、ゆるゆるしたときが二人を包んでいた。
むろん門前にも魔物はおらず、しかし分厚い膜が急に二人を隔てるようだった。
勇者は宿まで、宿の長椅子に至るまで従者を丁寧に抱き運びたい。朗らかな笑顔に尽くしていたい。
しかし、従者は恥ずかしさに
勇者には、従者の恥じらいが解らない。
従者は、勇者がどうして恥ずかしくないのかが理解できない。
接合しながら世界に接していても、そもそも世界が異なることがある。相違を認識した途端、膜により隔てられる。再び膜を越えて同一し、また膜ができ、また越えようと欲する。その繰り返し。まるで回し車の中で走るネズミのように、不毛な運動を懸命にこなしているかのように見える。
だが。
膜を越えた瞬間の歓喜は、代え難い。
接合を捉えた時の喜びは、魂の至福。
繰り返し繰り返し。この世界は。
それを、与えてくれるものなのだろうか。
勇者は、悟った。
従者の恥じらいのメカニズムを。
だから、嬉しくなって従者をゆっくりと下ろして立たせた。
「済まない、リンちゃん。僕はまるで気が付かなかったよ。ごめんね」
あまりに素直な勇者の言動に、却って従者は戸惑う。何か思い違いをしているのではないかと勘ぐる。それでも従者は丁寧にお辞儀をした。
「いえ。ここまでありがとうございました」
従者が頭を下げると、艶々光る黒髪がさらさらとこぼれた。勇者は息をするのも忘れて見蕩れた。
二人は『穢れ塚』の前で手を叩き、それから手を繋いで大きな門を潜った。
薄暗いトンネルのような門を抜けると大きな広場に出た。午後の光が眩しい。広場の先に東風様式の立派な建物が見えた。オーラルで最も高級な旅館だ。
王族や高名な学者が定宿とする旅館だが、篦棒に高い宿泊費さえ支払えば、どんな素性の者でも泊まることができる。この町には、身分という概念は存在しない。娼婦が大学に通って花魁となり、引退後に医師として活躍するのが当たり前の町だ。
勇者の懐は人食い熊が吐き出したルビーのお蔭で暖かい。勇者の足は迷わず進む。
旅館の広大な敷地内に足を踏み入れた時、勇者の手は抵抗を感じた。抵抗の発現場所は従者だった。
「勇者様!どこへ行くつもりですかっ」
「何処って、宿だよ?」
「宿って。こんな高いところ、駄目です!」
「大丈夫だよ。お金はあるんだ」
「だめ!お金があったとしても、無駄遣いはいけません。計画的に使わないと」
従者は勇者の手を両手で引っ張り踏ん張っている。キッと
「リンちゃんのそういうとこ、僕好きだよ。真面目な委員長さんみたいでね。だけどね、リンちゃんは間違えている」
従者は赤く染まった頬を膨らませた。
「・・なにが、間違ってるのよっ」
「僕らの使命について」
「・・使命?」
「そうさ。僕らの使命は魔王成敗だ」
「そのとおりよ!だから無駄遣いなんかしている場合じゃないでしょ!」
「そこが間違えなんだよ。いいかいリンちゃん、身に付けるべきは戦略眼だ」
「・・戦略眼?」
「俯瞰力といってもいい。高みから遠くまで見渡すことが重要だ」
「・・はあ」
「人間の最大の能力はね、連携力だ。個々の膂力は魔物の方が優れるだろう。一部の冒険者を別として、人間たち一人一人は非力だ。しかし、人間は連携することで巨大な力を発揮する。それが社会であり経済だ。個々の戦力で人間を圧倒する魔軍が、ここに来て攻めあぐねている。彼らの連携力の弱さ、経済の脆弱性が原因だ。集団が大きくなればなるほど、その脆弱性の為に軋轢が生じる。連携は更に弱まる。経済は低迷する。相対的に人間社会が強くなる。僅かなことの繰り返しで、大きな効果が生じ得る。俯瞰することでそれが解る」
「・・そのことと、無駄遣いはどう繋がるんですか」
「そこさ。経済とは、人の活動の繋がりを意味するわけだから。つまり、無駄遣いなんてものはないのさ」
「・・解りません」
「生きることに、無駄などないんだ」
「は?」
「どんな生き方であっても、それを無駄などと断ずることはできない。だって、正しい生き方なんて、誰にも解らないのだから」
「・・はあ」
「活動とは、生きることの状態であり人との繋がりのことだ。生きることに無駄がない以上、どんな活動も無駄になり得ない。使う先に誰かいて、その先にも誰かがいる。ずっと繋がっている。使えば使うほどに人々は活動し、その活動は人から人へ繋がっていく。活動する
「でも。なにも旅館に使わなくても・・」
「だから俯瞰さ。世界を見渡し、あらゆる方策を採っていくべきなんだ。無関係に思える行為が、本質を見極めるための道に繋がっている。無用の用さ。近視眼的になると、袋小路に嵌まってしまう」
「・・なんだか、騙されています」
「騙してないよ。よし、ならば最上階の部屋を借りよう!そこから、外界を俯瞰してみようじゃないかっ!」
「ああんっ!なんだか騙されてますよーっ」
困惑顔の従者を、ずるずると引き摺っていく勇者。しかしその手と手は、しっかり握られ繋がっている。
二人が案内されたのは、最上階の角部屋。
飴色の木材と白い手漉きの紙材が用いられた室内は、静かな落ち着きの中に得も言われぬ色香を醸した。
南の窓からピジョンの草原が眺望できた。草原は、夕日に輝き金色に光っていた。
豪奢な造りにそわそわしていた従者も、その眺めに目を細めて喜んでいる。
そんな従者を見詰めた勇者は、拳をぎゅっと固めると太い眉を吊り上げ叫んだ。
「リンちゃん!」
「は、はいっ?」
「お風呂に行こう!」
「え?・・ええ、いいですね。私、お風呂大好きです」
「個室風呂があるんだ!」
「個室風呂?一人で入るのですか?」
「違う!二人だよ!」
「・・誰と、誰?」
「もちろん僕とリンちゃん!」
勇者の顔に飛ぶ枕。旅館で欠かせぬお約束。
枕がぶつかっても、勇者の瞳の強い光は衰えない。曇りなき眼で、従者を射抜く。
「だめなの?」
「だ、だめに決まっているでしょ!」
「何故、だめなの?」
「なぜって!当たり前じゃない!」
「どうして?」
「・・男の人とお風呂なんて入れません!」
「リンちゃん、お父さんとお風呂に入ったことないの?」
「それは小さな頃の話ですっ」
「小さな頃は大丈夫だったのに、今はだめになってしまった。何故だろう?」
「当たり前じゃない!」
「僕には解らないんだ。理由を教えて貰えないだろうか?」
「恥ずかしいからに決まっているでしょ!」
「・・恥ずかしい・・」
「勇者様だって、・・裸見られたら、恥ずかしいでしょ?」
「いや。全然」
「・・・勇者様に聞いた私がばかでした。普通の人は、異性に裸を見られるのが恥ずかしいのよ?」
「大好きな女の子に裸を見られたって全然構わない。いや、見てほしい。そして、大好きなリンちゃんの裸を、僕は見たいっ!」
「っ!・・」
「愛する人の全てを見たい。・・当然の欲求であろうと、思うのだが」
「・・・・」
「ただ、お風呂に入るだけ。何をするわけでもない。・・だけど。いつもより少しだけ、リンちゃんに近づける気がするんだ」
従者は顔を真っ赤にして目を見開いている。硬直している。想定不能な事態に直面し思考停止に陥っている。
勇者は従者の手首を掴んだ。
「ひゃんっ!」
勇者に手首を掴まれた娘は、肩をびくびくさせ口をわなわなさせた。
勇者は澄みきった瞳で従者を見詰める。
従者は自分の鼓動でますます動転する。
何が当たり前で、何が普通でないのか。
普通でないはずの勇者の瞳は真っ直ぐだ。
二人でいると、分からなくなってくる。
呑み込まれそうになる。
従者のなかで勇者の言葉が木霊する。
その振動で、何かが破れる。
勇者の瞳から発せられる、光。
まるで、従者の全てを剥ぎ取り赤裸々にせんばかりの強さだ。
身が
しかし。身体の芯に、何かが灯る。
娘は、目をぎゅっと瞑りながら。砕けそうになる膝を必死に抑えながら。震える唇を、懸命に動かした。
「ゆ、・・勇者さま・・っ」
「リンちゃん」
「・・わ、わたし・・」
「うん」
「わたしっ・・まだっ・・・お願い・・す、少し、・・待って・・くださいっ・・」
勇者を見上げるその
天女のごとき色合いの
汗滴りし肌の
瞳の
淫に誘いて
聖を保たん、その姿
官能、至極・・
強き眼光も。
優しき抱擁に変ずるのみ。
・・待たん。
だが。
勇者の吶喊は。その響きは。
またひとつ、世界を進めた。
(つづく)
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