第9話 邂逅
全ての光を奪う白の一極。
圧倒する光に微睡みを破られ、同時に、世界を揺らがす振動とともに闇へ回帰した。
終始、色も音もなく。
安寧なる揺らぎの中で分散して拡散して。
やがて。静寂なる宙空へ。
全ての光を呑む、闇そのものに。
一粒の命の、果てである。
やはり、強い。
発光とともに飛翔すること
瞬時に頭蓋を潰し屠ること
勇者は握った『それ』を再び鼻に充てた。
・・やはり、強い。
濃く熟した、柔らかな甘味・・
―― 仮説は、立証された。
対極する属性の、相乗なんだ。
・・迷うことなく。突き進もう。
必ずや。握り締めてみせる ――
勇者は
相克に対峙するとはいえ、このモノが従者の扉を開く契機となってくれたことは確か。勇者はその七魄を祀るように、潰れた顔に黙祷した。
頭を潰され舌を出した
―― おや? ――
勇者は熊の口に手を突っ込んだ。
ごりっ
硬い石のようなもの・・違う。
「
曇りなく光る真っ赤な貴鉱石。しかも、鶏の卵くらいもある。極上品である。
おそらくこの
そして、従者の元へ馳せゆく。
・・・・・・・
野に在りて咲く花は。
誰在らずとも可憐に開き。
自らの香りに羞じらい揺れて。
溢れる蜜をば花弁の奥へひた隠し・・
深々たる森の中。
紅に色づき雫をこぼし、それでも健気に
周囲を震わす、麗しさ。
憂いのなかに何かが混じる。諦観などではない。凛とした香気だ。深淵を覗きし者だけが身につけていくもの。・・従者は、歩を進めたのである。
心奪われし勇者は夢中のままに娘を抱き締めた。柔らかい身体が其の中に収まった。「むうっ」と娘が
慌てて力を弛める。
「ごめんっ!あまりにそのっ・・ついっ!」
「ちょっと、・・痛いです・・」
「ごめんっ!」
娘はその腕の裾をぴとっと掴む。そして、俯きながら微かに言った。
「・・す、・・少しだけ優しく・・さっき、みたいに・・お願い・・できますか・・」
柄にもなく硬直する勇者。ぎこちない動きで
忍びて。啜り上げ。
熱い吐息と熱い涙。
こくこくと溢れては、流れゆく。
枯れることなく漏れ続ける、潤い。
身体の奥深く。深淵より沸き上がりて。
身体の穴々から共に濡れゆく。
根源的な快楽を伴って。
そう。
・・涙は体液は、溢れ出て楔を押し流す。
心と身体を、解き放つ。
力を得れば、安全弁もまた一つ、失う。
喪失と獲得とは、同義だ。
・・第一次解放が、いま、完了した。
◇
荒れた石畳を南下していくと、オピニクスの石橋が見えた。ゾルドの森の南、ピィピー川に架かる橋だ。
遥か昔に架けられた橋で、以前はゾルディック橋を凌ぐ、壮麗な姿をしていたらしい。今は、大きいばかりの朽ちかけた橋だ。所々崩れ落ち、蔦と苔とにまみれていた。
この橋の先にはチピリという小さな町があり、その更に南にはオシリス神殿がある。しかし、オシリス神殿が廃れて以降、この道を歩くものは少ない。故に、オピニクス橋には衛士もいない。
勇者と従者は木立に身を隠し、窺う。
・・
勇者は従者の手を取り、ゆっくりと橋を進んでいった。
四頭立ての馬車が二台並走できるだけの幅がある。しかし、端の方は石が割れ今にも崩れそうである。勇者と従者は手をしっかりと繋ぎながら、橋の真ん中を進んだ。
勇者は歩きながら、妙なことを従者に囁いては喜んでいる。
端へ行ってはならない。簡単に崩れるよ。下を流れるピィピー川は激流だから落ちるとかなり厄介だ。運良く溺れずに済んでもね、河には魔物が少なくない。しかも、妙なことに厭らしい魔物が多くてね。太い触手を無数に持つ
まったく。この男は何を目論んでいるものやら・・。吊り橋効果か?
勇者の猥談、いや怪談は一定の効果を生じさせたらしい。怖がる娘のふんわり可愛らしい手のひらに、じんわり滲む甘い汗。その汁気を味わって、にんまり悦ぶこの
「ほら危ないんだから。大人しくなさい」
「・・大丈夫ですから、・・放して」
「駄目だよ。放さない」
「お願いっ!ちょっとだけでいいからっ!」
「・・僕、汗ばむリンちゃんが、大好き」
「っ!・・やめてっ」
勇者の言葉に余計熱した従者は、真っ赤な顔して手をぶるんぶるんと振り回す。勇者はさせるままにさせながら、それでも手は放さない。振り回す力が少し弱まったところで、勇者は静かに言った。
「ねえ頼むから。手を握らせていて欲しい。僕から離れないで、居て欲しいから」
振り回す従者の力が緩む。
「・・変なこと言うの、・・嫌です」
「悪かった、ごめんなさい。・・リンちゃんの全てが愛おし過ぎて、つい。・・ごめん」
勇者が謝ると、従者は顔を背けながら呟くように言った。
「一度、手を離して?・・・拭かせて欲しいの・・・・そのあとで、・・また繋げばいいじゃない・・」
従者の頬は、火照って真っ赤だ。
生き物は、平常というものを求めたがる。経験則から割り出された戦略か。
むろん、この世に常なるものなど有りはしない。平均値など、母数を知り得ぬ以上解りっこない。
だから、その場にあるものを平常だとみたくなる。よく目にするものが平常となり、その場に自らを合わせていくことが平常だと。
従者にとって、勇者の在る世界が平常か。
勇者の言動が、勇者そのものが、従者の平常になろうというのか。
認め難いが。従者は勇者を、受け止めつつあるようだった。
従者はポケットからハンカチを取り出す。
勇者はそれを眺めつつ。
―― リンちゃん。
緊張すると、汗一杯かいちゃうタイプだ。
どこまでも可愛らしい体質だなあ。
・・身体中、ぐっしょり汗まみれにさせちゃいたいっ・・ ――
勇者は涼やかな目元に温かい微笑みを浮かべながら、そんなことを考える。
途端に、従者が勇者を睨む。
「今、いやらしいこと考えたっ!」
「えっ?い、いや、そんなっ・・」
「じゃあ、何考えてました?」
「えっ?その・・リンちゃん可愛いなあと」
「うそっ!!」
「ほ、本当だよっ・・リンちゃんの可愛らしい姿をね・・」
「どんな姿よっ!」
「・・そ、それは・・・」
「もうっ!!」
具体的な妄想までは伝わらずとも、渦巻く妄念はお見通し。
・・それでも。
赤い顔をして従者は手を差し出した。
勇者はハッとした顔で姿勢を正すと、恭しくその手を受け取った。
◇
勇者が従者の手を取りながら橋の真ん中くらいまで来ると、老人が一人、橋の端に佇んでいた。川に糸を垂らしている。釣りをしているようだ。
従者は老人を見ると、ぱっと手を離して駆け寄った。
「おじいさまっ!端は危ないですっ」
従者が声を掛けると、老人が振り向いた。灰色のローブに身を包み、フードを深く被っている。
「あのっ!端の方は崩れるのでは?」
再び従者が声を掛けると、フードの中の双眸がきらりと光った。しかし同時に好好爺然とした笑いが響いた。
「ふぉっふぉっふぉっ。・・お嬢ちゃん、大丈夫じゃよ。わしは毎日、ここで釣りをしておってなあ。この橋、こう見えて頑丈でな。崩れておるのは、飾り石だけだ」
「あ、そうなのですね?・・ごめんなさい」
従者は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
勇者は心のなかで、ちぇっと舌打ちする。
―― じいさんめ。
・・僕のささやかな悦びを ――
勇者が心の中で悪態をつくと、まるで見透かしたように老人がじろりと睨む。
その眼光の鋭いことといったら。グングニルの槍のように、勇者のいじけた心を過たずに突き刺した。ひっと勇者が仰け反るのに被せるように、地響きのような声を発する。
「小僧。・・ふん、そうか。・・まあ、よかろう。・・おい、小僧。袋を、よこせ」
先程の、従者に対するのとは明らかに違う声音。地底から轟く雷鳴のようだ。
この老人、只者ではない。勇者も気付いたようだ。雷に打たれたような顔でぴんと背を伸ばし、そして恐々と問う。
「・・袋、ですか・・?」
老人はフードの奥深くで光る双眸を少し細くすると、凶悪なまでの重低音を響かせた。
「ああ。布バケツを落としてな。ほれ今丁度、大きな魚が掛かったが。袋がなくては、魚を家まで運べん。困っておる」
老人は、全く困って無さなそうな声音を轟かせた。
勇者はじりじりと前に出て、従者と老人との間に体を滑り込ませると、脂汗を滲ませながらニッカリ笑った。
「それは災難で、袋は無いですご免なさい、ではご機嫌よう」
「・・待てや」
従者の手を引き、そそくさ立ち去ろうという作戦は、老人の重低音に破られた。
体は勇者よりも低くて小さいのに。勇者は老人に見下ろされているような圧を感じた。ずぶずぶと体が地面にめり込みそうだ。
「・・袋は、つくるものだろうが・・おい、小僧。服脱げ」
「ひゃ?」
「ふん、違うわい。贄ならぴちぴちの美少年を貰うじゃろ。・・そちらはアレの、手付きだしな」
老人はちらりとリンちゃんを見ながら妙なことを呟いた。
「えっ?」
リンちゃんが首を傾げると、老人は例の好好爺然とした声でリンちゃんに言った。
「ふぉっふぉっふぉっ。・・お嬢ちゃん、こちらの話でな。気にしなくてよいのじゃ」
そして再び、勇者を見据えての重低音。
「・・おい、さっさと服脱げ。随分草臥れた服じゃが、上手く縛れば袋になるじゃろ」
なんとも強引だが、勇者は
昼間とはいえ、秋も深まり風は冷たい。上半身裸のまま、勇者は畳んだ服を老人に差し出した。ぴゅうと風が吹く。その二の腕に鳥肌が立つ。
しかし老人は罵倒する。
「たわけ。そのまま渡すものがあるか。首元と袖口を縛れと言っておろうが」
まるで暴君のような物言い。だが勇者は逆らいもせず、
頭下げ嵐過ぎるを待つが吉、か。
老人は勇者の服を指で摘まむと、ふんと鼻を鳴らした。
「まあ、よかろう。これ持ってけ」
老人は勇者に小箱を放ると、従者に向かって優しく微笑んだ。
「お嬢ちゃん、ありがとなあ」
従者は老人の勇者との遣り取りを、目を点にして眺めていたが、声を掛けられ夢から覚めたような表情をした。
「あ、はいっ!おじいさまもお気をつけて」
従者が笑顔を向けると、フードの中の双眸が、きらりと光った。
◇
へっくしゅんっっ
勇者が盛大にくしゃみをする。
やはり上半身裸は寒いらしい。
「大丈夫、ですか?」
「あのじいさん。まるで追い剥ぎだ」
勇者の言葉に従者はくすりと笑う。
「でも勇者様、お優しいのですね。わたし、やっぱり誤解してました。・・ご免なさい」
「・・え?」
従者は尊敬するかのような眼差しを勇者に向けていた。・・ゲインロス効果。当初マイナス印象だった者が好印象を見せると、その好印象がひどく強調されるという心理現象。
どうやら従者は。偏屈なる老人を憐れんだ勇者が、真心尽くして誠心誠意に接したものと、あの遣り取りを捉えたらしい。
ひとは、自らの心を以て他者を測るもの。
従者は、哀しみを以て老人を看たらしい。
どちらにせよ、勇者は運が良い。
おそらく。潮目が変わった。
はっくしょんっっ!
またも、勇者のくしゃみ。
しかし心なしか。そのくしゃみには歓喜に湧くような明るさがあった。勢いを以て切り開くような強さがあった。
勇者の咆哮を空高く響かせるようだった。
(つづく)
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