第7話 嗅覚

 東の森が少し明るくなる。夜明けまでもう暫くだ。勇者は棍棒を地面に投げ出し、大きく伸びをした。そのまま腕を交差し、空に向かって身体をうんと伸ばす。

 筋トレ、素振り、ストレッチ。暗いうちから起き出し鍛練し、従者が起きる前にテントに潜る。従者は夜明けとともに起き出すから猶予は余りない。

 ストレッチを済ませた勇者は、手早く裸になると湖の水筒レイク・ボトルの蓋を取って頭から注いだ。

 深まる秋。日の出前は寒いくらいだ。しかし、筋トレと素振りで熱した筋肉には、その冷水が心地良い。勇者の身体から薄く湯気が上がった。

 さっと身体を拭いた勇者は、音も立てずにテントに戻る。暫くすると、隣のテントがもぞもぞと動いた。従者がお着替えを始めたのであろう。鳥たちが嬉しそうに鳴き始めた。森に光が射した。今日の日が始まり出した。勇者は、もう鼾をかいていた。

 鍛練を怠らず、清潔を保つ。紳士としての最低限の作法。その所作はご婦人の目に触れさせるものでもない。それくらいは勇者も心得ている。



「恐い魔物が出て来ないといいですね」

 まるで麗しの森に棲む妖精みたいな顔をして、娘は愛らしい瞳をきょろきょろさせる。

「いや、じゃんじゃん出て来てほしい」

「・・でも」

「そしたら沢山嗅げますっ!」

「やめてっ!」

 従者は振り返り、腰に手を当てた。

 勇者は「ご、ごめんなさいっ」と頭を下げたが、すぐに続ける。

「しかしねリンちゃん、僕らは冒険者です。魔物を退治すればする程、人々の安全が確保されるわけで」

「そうだけどっ、言い方があるでしょ!」

「リンちゃんの香りを堪能すればする程」

「ばかあっ!!」

 思わず、といった風に従者は勇者の顔をはたいた。バチンと派手な音がする。

「あっ!・・ごめんなさいっ・・」

 自分の咄嗟の行動に狼狽し謝る従者。勇者は顔に赤い跡を付けながら、構うことなく従者の手を取った。

「リンちゃんっ!手首は大丈夫かっ!捻挫とかしてないかっ!」

 勇者は従者の白く細い手首を包むように優しく掴んだ。

「だ、大丈夫よ・・」

「よかった・・念のため、冷やそうか?」

「だから大丈夫だってばっ!・・・それよりほっぺ・・冷やさないと・・」

「え?・・ああ、ありがとう!では遠慮なく手を借りるよ」

「えっ、なにっ?」

 勇者は掌に包んでいた従者の手を自分の頬に運び、ぴたりと当てた。

「!」

「ああ、気持ちいい・・ヒリヒリするのが溶けていくようだよ。・・手の温度と心の温度は反比例するんだ」

「え?」

「リンちゃんは優しく心温かだ。だからね、掌はひんやりとして清涼さ。反比例なんだ」

「・・うそ。・・・・反比例なんて・・」

 従者は顔を赤らめ、潤んだ瞳で睨むように勇者を見上げた。勇者は、呆けた顔して聞き返す。

「え?嘘?なんでさ?」

「・・だって・・勇者様の手、温かい・・」

「・・へ?・・」

「・・・ばかっ」

 目を丸くしてぬぼうと見詰める勇者。途端に従者はぷんぷんし始め、勇者の頬から手を引き剥がした。そして、ポケットから桃色の可愛らしいハンカチを取り出し言った。

「ほら、早く湖の水筒レイク・ボトルを出して下さいっ!」

「えっ?は、はいっ」

 突然のカミナリに慌てながら、勇者は背負袋バックパックから湖の水筒レイク・ボトルを取り出した。従者は赤い顔して引ったくると、ハンカチを水で浸してべちょんと勇者の顔に貼っつけた。

「もうっ!自業自得なんですからっ!それで冷して下さいっ!」

「あ、ありがとう!リンちゃんっ!」

「・・・早く、行きますよっ」

「リンちゃんっ!」

「・・なんです?」

「このハンカチ、とっても佳い香りだっ」

「だ、黙りなさいっ!」

「はいっ!」


 この二人。仲良しで何よりだ。





「変態変態と言いますがね」

「だってそうじゃないっ」

「どうして嗅ぐのが変態だと?」

「やめて!・・嗅ぐとか、ヘンだからっ」

「・・うーむ。・・五感のうち、嗅覚だけは特別だとご存じですか?」

「・・知りませんけど」

「視覚、聴覚、味覚、触覚はね。理性を司る大脳新皮質に繋がっていてね」

「・・はあ」

「ところが嗅覚だけは、本能の脳と呼ばれる大脳辺縁系に繋がっています」

「・・・はぁ」

「つまりね、他の感覚は論理的思考の素材と成り易いのだけど、嗅覚は違う。嗅覚だけは本能の使者なのです」

「・・本能の使者?」

「嗅覚は本能に訴えかけるものであり、また本能を曝け出すもの。他の感覚は理性である程度制御可能なんだけど、嗅覚だけは本能をダイレクトに刺激するんだ」

「・・・」

「匂いはね、嘘をつかない」

「・・・」


「あとね。匂いは記憶を呼び覚ますことが往々にしてある。これは記憶機能に関係する海馬という器官が、大脳辺縁系に有るためと謂われています」

「はあ」

「記憶に関しては、まだまだ分からないことが多いのです。・・ただ。人の記憶は、人以前の生命の記憶を内在している可能性が指摘されています。爬虫類や魚類、更にそれ以前の。・・つまり、匂いはそれら太古の記憶にリンクする可能性がある」

「・・・はあ」

「匂いは。封じられた記憶を解く鍵となるかもしれないんだ。凄いでしょ?嗅ぐって」

「・・嗅ぐなんて、動物みたいで厭です」

「そこさ。まさに動物的なんだよ。人間お得意の、『理性』という誤魔化しが効かない。だからこそ、生命の真理に近い」

「・・よく分かりません」


「佳い匂い、厭な匂い。この判別は、本能に基づいている。生命の、いわば思惑だね」

「・・生命の、思惑?」

「匂いを使って導こうとしている。・・だがね、面白いことにその思惑も一枚岩じゃなくてさ。複雑的、というのかな」

「・・どういう意味?」

「うん。生命は個々の生体に命令、いや指令かな?そんなものを与えている。それが本能というわけだ。ところがその本能というものが厄介でね、なんというのか一定じゃない。相反し、矛盾を抱えていたりする」

「矛盾?」

「うーん、いや矛盾ではなく揺らぎかなあ。つまり、生命が本能という形で生体に与えるメッセージは、統一感なくばらばらだったりするんだ」

「・・・ふふっ」

「どうしたの?可笑しかった?」

「違うんです。・・母を、思い出しちゃて。うちの母、言ってるそばから真逆のことを言い出したりするの。本人は大まじめなんだけど、全然一貫してなくて。・・でも、一生懸命に良かれと思って言うから、そうなっちゃうのかしら」

「おおっ!素晴らしい喩えだね!なるほど、母たる生命も何が正しいのかは分からない。最善と思えることを提言し、ひっこめて、修正し、また言って。なるほどねえ」

「うちの母と母なる生命を一緒にするのはちょっと・・」

「いや。正鵠だ。・・ところで匂いは、恋愛対象の選別にも関わっている」

「え?・・恋愛?」


「うん。基本的に、自分とは異なる匂いをつ異性を好きになるんだ。これは本能レベルの要請と謂える」

「・・異なる匂い・・?」

「そう。異なる匂いは異なる遺伝子を保有している可能性が高い。自分と異なる遺伝子を取り込むことで、多様性が生じる。生命の最も重要な戦略だよ。・・嗅ぐことで、それが明らかになる」

「・・・」

「リンちゃん、僕に嗅がれるのは恥ずかしいですか?」

「あ、当たり前ですっ!」

「よかったっ!」

「なんでっ!」

「じゃあさ、赤ちゃんに嗅がれるとしたら?犬や猫なら?例えば、トンボがリンちゃんの『あれ』に止まったら、恥ずかしい?」

「えっ・・」

「うん。『恥ずかしさ』は性的対象を測るバロメーターなんだよ。羅針盤コンパスといってもいい。性的対象となり得ないものに対しては、恥ずかしさを感じないんだ」

「・・・」

「僕ね、もしもリンちゃんにくんくんと嗅がれたら。もう恥ずかしくってドキドキだっ」

「嗅ぎませんっ!」

「先ほど言ったようにね、『匂い』は恋愛対象の選定に関わる。『羞恥心』は性的対象の羅針盤コンパスだ。つまり。匂いを嗅ぎ嗅がれ、そこで羞恥を感じるか否かを知ることは、パートナー選びに欠くことが出来ない行為なんだ」

「・・・」

「僕がリンちゃんの香りを嗅ぎ、興奮と幸福を見出だすのは当然の帰結だよ」

「・・わ、私の・・香りで、興奮・・・」

「当然だっ!リンちゃんは僕の至高の存在にして僕の女神だっ!その香りが僕を爆発させるんだっ!興奮の渦のなかで、圧倒的な幸福感に包まれ真っ白に燃えて拡散するんだっ!それが、僕の物質構成変革クラスチェンジなんだよっ」

「・・・」

「・・そうか、なるほど。たしかに『変態』するわけだ。つまり、嗅ぐことは『変態』を促す行為だから、あながちリンちゃんの言うことは間違ってない。嗅ぐから変態する」

「・・はあ」


「リンちゃん。・・変態は、深化するんだ」

「深化?」

「より濃く、より深く。そして変態は、性的衝動と結び付いているものだ。性的衝動とはつまり本能だよ。変態は、本能に向かって進む力なんだ。変態の先には必ず本能がある。変態を究めれば、本能の深淵へと辿り着く」

「・・全然分かりません」

「分けるんじゃない、潜るのさ。・・本能、匂い、深化、太古の記憶。全てが、繋がる。変態こそが、鍵なんだ」

「・・・」

「僕の物質構成変革クラスチェンジが匂いに起因するのは偶然じゃない。おそらく、生命が有する技、太古の記憶に繋がっているんだ」

「・・・」

「深化し、生命の深淵を求めることこそが我々人間の定めかもしれない。でもね、僕らにはもっと喫緊の課題もある」

「なんです?」

「level up と物質構成変革クラスチェンジの強化だ」

「あっ!・・はいっ」

「level up については考えがあるから、また今度話そう。一方の物質構成変革クラスチェンジの強化だけど、これは解るね?」

「えっ?・・解りませんよ」

「解っているよ、リンちゃんは。・・僕の物質構成変革クラスチェンジはどのようにして起こるの?」

「えっ・・」

「答えて。大切なことなんだ」

「・・私のを、・・か・・・・匂いを」

「リンちゃんの匂いを、どうするの?」

「・・・」

「・・リンちゃん。僕らには、使命がある。強化しなければならない。ごめんね、本当に申し訳ないのだが。・・遠回りを繰り返すことは、避けなくては」

「・・・は、はいっ・・・あ、あの・・・に、匂いを、・・か、・・・嗅いで・・」

「そうだ。・・リンちゃん、恥ずかしい?」

「・・・あ、当たり前ですっ・・」

「先程、話したよね。恥ずかしさは性的対象を測るバロメーターだと」

「っ・・・」

「対象だけじゃない。恥ずかしさは性的深化のバロメーターでもあるんだ。より変態的なことは、より恥ずかしい。そうだろ?リンちゃん」

「・・・」

「どうなんだい?変態的なことは、恥ずかしい?恥ずかしくない?」

「・・恥ずかしいに、決まってますっ」

「つまり、より恥ずかしいことは、より変態的だともいえる。そして、より変態的に深化していくことで、生命の深淵へと導かれる。物質構成変革クラスチェンジとは深淵に宿る生命の技。深淵へと近付けば近付くほど、その技を深めることが出来るはずだ。ならば、物質構成変革クラスチェンジを強化するには、・・解るね?」

「・・・」

「・・より変態的なことに身を委ね、深淵を目指すことだ。・・ならば、より変態的なこととは何にかな?答えてごらん」

「わ、分かりませんよっ」 

「簡単だよ。確かに変態とは多様だから等級を付けにくい。だからね、羅針盤コンパスが有用なのさ。・・変態的なことは、恥ずかしい。より恥ずかしいことは、より変態的だ。これらをくるめて考えると『より恥ずかしいことをしていけば、のより変態的な行為が僕らを深淵へと導き、やがては物質構成変革クラスチェンジが強化され得る』、というわけだ」

「・・・」

「変態である僕と、恥ずかしがり屋のリンちゃん。僕らは、最高のパートナーなんだよ。僕の変態性が推進力となり、リンちゃんの羞恥心が羅針盤コンパスとなる。リンちゃんの恥じらいの向こうには、生命の深淵が待ち構えているんだ」

「・・・」

「信じるかい?リンちゃん」

「・・わ、分かりません・・」


「ならば。『最初の調教ファースト・レッスン』を始めよう」


(つづく)

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