第7話 嗅覚
東の森が少し明るくなる。夜明けまでもう暫くだ。勇者は棍棒を地面に投げ出し、大きく伸びをした。そのまま腕を交差し、空に向かって身体をうんと伸ばす。
筋トレ、素振り、ストレッチ。暗いうちから起き出し鍛練し、従者が起きる前にテントに潜る。従者は夜明けとともに起き出すから猶予は余りない。
ストレッチを済ませた勇者は、手早く裸になると
深まる秋。日の出前は寒いくらいだ。しかし、筋トレと素振りで熱した筋肉には、その冷水が心地良い。勇者の身体から薄く湯気が上がった。
さっと身体を拭いた勇者は、音も立てずにテントに戻る。暫くすると、隣のテントがもぞもぞと動いた。従者がお着替えを始めたのであろう。鳥たちが嬉しそうに鳴き始めた。森に光が射した。今日の日が始まり出した。勇者は、もう鼾をかいていた。
鍛練を怠らず、清潔を保つ。紳士としての最低限の作法。その所作はご婦人の目に触れさせるものでもない。それくらいは勇者も心得ている。
◇
「恐い魔物が出て来ないといいですね」
まるで麗しの森に棲む妖精みたいな顔をして、娘は愛らしい瞳をきょろきょろさせる。
「いや、じゃんじゃん出て来てほしい」
「・・でも」
「そしたら沢山嗅げますっ!」
「やめてっ!」
従者は振り返り、腰に手を当てた。
勇者は「ご、ごめんなさいっ」と頭を下げたが、すぐに続ける。
「しかしねリンちゃん、僕らは冒険者です。魔物を退治すればする程、人々の安全が確保されるわけで」
「そうだけどっ、言い方があるでしょ!」
「リンちゃんの香りを堪能すればする程」
「ばかあっ!!」
思わず、といった風に従者は勇者の顔を
「あっ!・・ごめんなさいっ・・」
自分の咄嗟の行動に狼狽し謝る従者。勇者は顔に赤い跡を付けながら、構うことなく従者の手を取った。
「リンちゃんっ!手首は大丈夫かっ!捻挫とかしてないかっ!」
勇者は従者の白く細い手首を包むように優しく掴んだ。
「だ、大丈夫よ・・」
「よかった・・念のため、冷やそうか?」
「だから大丈夫だってばっ!・・・それよりほっぺ・・冷やさないと・・」
「え?・・ああ、ありがとう!では遠慮なく手を借りるよ」
「えっ、なにっ?」
勇者は掌に包んでいた従者の手を自分の頬に運び、ぴたりと当てた。
「!」
「ああ、気持ちいい・・ヒリヒリするのが溶けていくようだよ。・・手の温度と心の温度は反比例するんだ」
「え?」
「リンちゃんは優しく心温かだ。だからね、掌はひんやりとして清涼さ。反比例なんだ」
「・・うそ。・・・・反比例なんて・・」
従者は顔を赤らめ、潤んだ瞳で睨むように勇者を見上げた。勇者は、呆けた顔して聞き返す。
「え?嘘?なんでさ?」
「・・だって・・勇者様の手、温かい・・」
「・・へ?・・」
「・・・ばかっ」
目を丸くしてぬぼうと見詰める勇者。途端に従者はぷんぷんし始め、勇者の頬から手を引き剥がした。そして、ポケットから桃色の可愛らしいハンカチを取り出し言った。
「ほら、早く
「えっ?は、はいっ」
突然のカミナリに慌てながら、勇者は
「もうっ!自業自得なんですからっ!それで冷して下さいっ!」
「あ、ありがとう!リンちゃんっ!」
「・・・早く、行きますよっ」
「リンちゃんっ!」
「・・なんです?」
「このハンカチ、とっても佳い香りだっ」
「だ、黙りなさいっ!」
「はいっ!」
この二人。仲良しで何よりだ。
「変態変態と言いますがね」
「だってそうじゃないっ」
「どうして嗅ぐのが変態だと?」
「やめて!・・嗅ぐとか、ヘンだからっ」
「・・うーむ。・・五感のうち、嗅覚だけは特別だとご存じですか?」
「・・知りませんけど」
「視覚、聴覚、味覚、触覚はね。理性を司る大脳新皮質に繋がっていてね」
「・・はあ」
「ところが嗅覚だけは、本能の脳と呼ばれる大脳辺縁系に繋がっています」
「・・・はぁ」
「つまりね、他の感覚は論理的思考の素材と成り易いのだけど、嗅覚は違う。嗅覚だけは本能の使者なのです」
「・・本能の使者?」
「嗅覚は本能に訴えかけるものであり、また本能を曝け出すもの。他の感覚は理性である程度制御可能なんだけど、嗅覚だけは本能をダイレクトに刺激するんだ」
「・・・」
「匂いはね、嘘をつかない」
「・・・」
「あとね。匂いは記憶を呼び覚ますことが往々にしてある。これは記憶機能に関係する海馬という器官が、大脳辺縁系に有るためと謂われています」
「はあ」
「記憶に関しては、まだまだ分からないことが多いのです。・・ただ。人の記憶は、人以前の生命の記憶を内在している可能性が指摘されています。爬虫類や魚類、更にそれ以前の。・・つまり、匂いはそれら太古の記憶にリンクする可能性がある」
「・・・はあ」
「匂いは。封じられた記憶を解く鍵となるかもしれないんだ。凄いでしょ?嗅ぐって」
「・・嗅ぐなんて、動物みたいで厭です」
「そこさ。まさに動物的なんだよ。人間お得意の、『理性』という誤魔化しが効かない。だからこそ、生命の真理に近い」
「・・よく分かりません」
「佳い匂い、厭な匂い。この判別は、本能に基づいている。生命の、いわば思惑だね」
「・・生命の、思惑?」
「匂いを使って導こうとしている。・・だがね、面白いことにその思惑も一枚岩じゃなくてさ。複雑的、というのかな」
「・・どういう意味?」
「うん。生命は個々の生体に命令、いや指令かな?そんなものを与えている。それが本能というわけだ。ところがその本能というものが厄介でね、なんというのか一定じゃない。相反し、矛盾を抱えていたりする」
「矛盾?」
「うーん、いや矛盾ではなく揺らぎかなあ。つまり、生命が本能という形で生体に与えるメッセージは、統一感なくばらばらだったりするんだ」
「・・・ふふっ」
「どうしたの?可笑しかった?」
「違うんです。・・母を、思い出しちゃて。うちの母、言ってるそばから真逆のことを言い出したりするの。本人は大まじめなんだけど、全然一貫してなくて。・・でも、一生懸命に良かれと思って言うから、そうなっちゃうのかしら」
「おおっ!素晴らしい喩えだね!なるほど、母たる生命も何が正しいのかは分からない。最善と思えることを提言し、ひっこめて、修正し、また言って。なるほどねえ」
「うちの母と母なる生命を一緒にするのはちょっと・・」
「いや。正鵠だ。・・ところで匂いは、恋愛対象の選別にも関わっている」
「え?・・恋愛?」
「うん。基本的に、自分とは異なる匂いを
「・・異なる匂い・・?」
「そう。異なる匂いは異なる遺伝子を保有している可能性が高い。自分と異なる遺伝子を取り込むことで、多様性が生じる。生命の最も重要な戦略だよ。・・嗅ぐことで、それが明らかになる」
「・・・」
「リンちゃん、僕に嗅がれるのは恥ずかしいですか?」
「あ、当たり前ですっ!」
「よかったっ!」
「なんでっ!」
「じゃあさ、赤ちゃんに嗅がれるとしたら?犬や猫なら?例えば、トンボがリンちゃんの『あれ』に止まったら、恥ずかしい?」
「えっ・・」
「うん。『恥ずかしさ』は性的対象を測るバロメーターなんだよ。
「・・・」
「僕ね、もしもリンちゃんにくんくんと嗅がれたら。もう恥ずかしくってドキドキだっ」
「嗅ぎませんっ!」
「先ほど言ったようにね、『匂い』は恋愛対象の選定に関わる。『羞恥心』は性的対象の
「・・・」
「僕がリンちゃんの香りを嗅ぎ、興奮と幸福を見出だすのは当然の帰結だよ」
「・・わ、私の・・香りで、興奮・・・」
「当然だっ!リンちゃんは僕の至高の存在にして僕の女神だっ!その香りが僕を爆発させるんだっ!興奮の渦のなかで、圧倒的な幸福感に包まれ真っ白に燃えて拡散するんだっ!それが、僕の
「・・・」
「・・そうか、なるほど。たしかに『変態』するわけだ。つまり、嗅ぐことは『変態』を促す行為だから、あながちリンちゃんの言うことは間違ってない。嗅ぐから変態する」
「・・はあ」
「リンちゃん。・・変態は、深化するんだ」
「深化?」
「より濃く、より深く。そして変態は、性的衝動と結び付いているものだ。性的衝動とはつまり本能だよ。変態は、本能に向かって進む力なんだ。変態の先には必ず本能がある。変態を究めれば、本能の深淵へと辿り着く」
「・・全然分かりません」
「分けるんじゃない、潜るのさ。・・本能、匂い、深化、太古の記憶。全てが、繋がる。変態こそが、鍵なんだ」
「・・・」
「僕の
「・・・」
「深化し、生命の深淵を求めることこそが我々人間の定めかもしれない。でもね、僕らにはもっと喫緊の課題もある」
「なんです?」
「level up と
「あっ!・・はいっ」
「level up については考えがあるから、また今度話そう。一方の
「えっ?・・解りませんよ」
「解っているよ、リンちゃんは。・・僕の
「えっ・・」
「答えて。大切なことなんだ」
「・・私のを、・・か・・・・匂いを」
「リンちゃんの匂いを、どうするの?」
「・・・」
「・・リンちゃん。僕らには、使命がある。強化しなければならない。ごめんね、本当に申し訳ないのだが。・・遠回りを繰り返すことは、避けなくては」
「・・・は、はいっ・・・あ、あの・・・に、匂いを、・・か、・・・嗅いで・・」
「そうだ。・・リンちゃん、恥ずかしい?」
「・・・あ、当たり前ですっ・・」
「先程、話したよね。恥ずかしさは性的対象を測るバロメーターだと」
「っ・・・」
「対象だけじゃない。恥ずかしさは性的深化のバロメーターでもあるんだ。より変態的なことは、より恥ずかしい。そうだろ?リンちゃん」
「・・・」
「どうなんだい?変態的なことは、恥ずかしい?恥ずかしくない?」
「・・恥ずかしいに、決まってますっ」
「つまり、より恥ずかしいことは、より変態的だともいえる。そして、より変態的に深化していくことで、生命の深淵へと導かれる。
「・・・」
「・・より変態的なことに身を委ね、深淵を目指すことだ。・・ならば、より変態的なこととは何にかな?答えてごらん」
「わ、分かりませんよっ」
「簡単だよ。確かに変態とは多様だから等級を付けにくい。だからね、
「・・・」
「変態である僕と、恥ずかしがり屋のリンちゃん。僕らは、最高のパートナーなんだよ。僕の変態性が推進力となり、リンちゃんの羞恥心が
「・・・」
「信じるかい?リンちゃん」
「・・わ、分かりません・・」
「ならば。『
(つづく)
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