第5話 野営

 勇者と従者は、足止めされた。


 二人は森の中に身を潜めながら、前方に聳える橋を見詰めている。ゾルディック橋だ。ゾルドの森の東端の、石造りの立派な橋。橋自体が砦のようになっており、中央と両端に堅牢な楼閣が築かれている。川幅広く急流で名高いピィピーの川を跨ぎ、森とオーラルの町とを繋ぐ。王国の衛士が常駐し、魔物を足止めする要衝だ。このゾルディック橋を渡ってしまえば、オーラルまでは僅かな道のりとなる。


 ところが。

 橋の砦には王国軍の『赤地に金の双蛇』の旗ではなく、漆黒の旗が棚引いていた。魔軍の軍旗だ。

 勇者と従者は木陰に隠れ、ゾルディック橋を伺う。勇者はポケットから小型の遠眼鏡を取り出し覗き込む。


骸骨戦士スケルトンだ。・・橋の入口に居るのは三十体くらいだけど、砦のなかにも居そうだね」

「衛士の皆さんは、大丈夫でしょうか?」

 王国軍の衛士が中隊規模、二五〇名程度居たはずだ。従者は心配そうな声で囁く。

 勇者は遠眼鏡を覗いたまま応える。

「衛士の姿は見えないな。死体も。捨てられた旗が見える。・・逃げたの、かな」


 骸骨戦士スケルトンは、殺した者の首や身体を串刺しにして、道の両側に並べるという奇妙な行いをする。

 しかし、勇者の遠眼鏡には、どこにも串刺しは映らなかった。

 国内の要衝を守る『衛士隊』は、国外に派遣される『討伐軍』に比べ、その装備も練度も劣るという。しかし、この堅牢なゾルディック橋に立て籠れば、そう易々とは破られないはずだ。それが戦った痕跡も残さず姿を消したとあれば、余程の大軍に襲われたのか、慌てふためくような何かがあったのか。

 勇者は橋の周囲もつぶさに観察した。野営陣地は見当たらない。この橋の許容人員は、おそらく五〇〇名前後。つまり骸骨戦士スケルトンの数は、最大でもその程度ということになる。


―― 奇襲でも、受けたのか? ――


 勇者は遠眼鏡をポケットに戻した。そして従者にゆっくり後退するよう促した。


「ここは渡れません。戻りましょう」

 勇者の言葉に、従者は少し驚いたように目を見開き、そしてすぐ俯いた。俯きながら、こくりと小さく頷いた。

 勇者はその細く小ぶりな手を優しく包み、周囲を警戒しながら木立の中を西に戻った。従者は、大人しく手を引かれた。


 危険を犯すことは、できない。

 勇者の決断はそこにある。

 物質構成変革クラスチェンジすれば、level 20程度の骸骨戦士スケルトンが五〇〇体居ようが六〇〇体居ようが物の数ではない。火炎系の上位魔法を用いれば、簡単に灰塵に帰すことができよう。

 しかし。

 もしも撃ち漏らした骸骨戦士スケルトンが勇者の視界の外から従者を襲ったら。一本の鏃が運悪く従者の胸を抉ったら。


 物質構成変革クラスチェンジは万能ではない。変革後の職位である聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブは、敵の魔法を一定範囲跳ね退ける防御陣、聖光円陣ホーリー・サークルを用いることができる。しかし、これは物理攻撃に役立たない。物理攻撃には鉄壁円陣アイアン・サークルが有効だが、聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブはこれを会得していない。自身の防御力が超絶無比のためか。


 従者は俯き歩く。彼女はさとい。自分のせいで、勇者がゾルディック橋の突破を諦めたことに気づいている。

 勇者も、従者の心を痛いほど感じている。自らの言葉で娘の羞恥を引き出して、その表情に苦悶すら浮かばせようと勤しむこの男。自分以外の要因で娘が苦悩する姿は、どうやら見たくないらしい。

 勇者は前を向きながら、優しい口調で従者に言った。


「ごめんね、リンちゃん。物質構成変革クラスチェンジしても、砦の骸骨戦士スケルトンを虱潰しに潰していくのは骨が折れるから。それにしてもあの一団は、魔軍の斥候かな?こんなところまで魔軍が進軍してるなんて聞いてないよなあ?下手に刺激せず、魔物討伐組合ギルドにまず確認した方がよさそうだ」

 勇者はぺらぺら言葉を並べた。

 従者は力なく、首を横に振る。

 甘い香りが、ゆるりと漂う。


「私、・・ごめんなさい」


 重い言葉を、従者は吐き出す。

 誰かに負担を掛けている。そう思うことは、実に心苦しいことである。

 もっとも、生命界において他者の負担とならない存在など、凡そあり得ない。なるべく他者に負担させ、自らはその負担を減少させようとするのが生命の基本戦略だろう。


 しかし、従者にそんな理屈は通用しない。負担させること、依存することを自ら良しとすることは、その他者との間に特別な関係性を築く、一線を越えることだと思っている。易々とは成し得ない行為らしい。

 いや、事実その関係性は既に構築済みだろうと思われるが、娘はそう取らない。それを知覚し容認するか否かが、重要なのだ。

 ひとは、この世界の殆んどを見ることができない。視界に入っていても見えていない。見えても受け入れなければ、それを無かったことにしてしまう。知覚し容認することで、初めてその世界が内に創られる。そんな儀式を経て、ひとは世界を広げていく。


 反転させれば。勇者は是が非でも頼られたい。依存して欲しい。自分が従者の存在に依存していることを、受認して欲しい。



 そのような世界と世界の接合問題とは別に、外界に於ける立ち振舞いについても、やはり彼らには問題がある。共にlevel が低すぎるのだ。

 危機に面してそれを乗り越える行為がひとを鍛える。そのような鍛練が、ひとのlevel を上げる。具体的には魔物の討伐だ。魔物を殺すことで経験値を得て、それが積み重なることでひとはlevel up する。

 ところが。勇者と従者はこの魔物討伐を上手くこなせていない。強い魔物が現れると勇者が物質構成変革クラスチェンジする。そこで得た経験値は、聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブに貯まる。素の勇者には貯まらない。戦っていない従者にも貯まらない。弱い魔物は勇者が発する特有の気を怖れるのか、従者の聖なる高香に畏怖するのか、二人に気付くと急いで逃げる。二人も、弱い魔物を敢えて追い掛け殺しはしない。

 ・・甘ちゃんなのだ。


 一粒の雫にも微細な生命は宿る。誰しも、他者を殺さずには生きられない。

 殺掠を選別しても。それは傲慢な逃避に過ぎぬのであろう。

 生きるとは、殺して奪うことだから。

 奪った分だけ糧となり、生き永らえる。

 それが、生命だ。

 二人は。生きることへの覚悟が希薄であったと云わざるを得ない。


 眼前に展開する事象を如何にして取り込むか。その有無程度が、人生を変える。


 しかし、勇者は迷っていた。即断即決型のこの男にしては珍しい。

 なるほど。level を上げるためには戦わねばならない。弱い魔物は逃げてしまうから、強い魔物と対峙することになる。戦えばあの可憐なる柔肌が傷つきかねない。

 己のみが。あの柔肌に、愛欲の証を刻み込みたい。自分以外の爪が歯が、白く艶やかな肌を汚すことを許せない。

 


―― リンちゃんの肌を虐めてよいのは。

 僕だけなのだ ――



 まったく身勝手である。

 たが。ひとを想う気持ちの根底とは、案外そんなものかもしれない。


 従者が弱々しい眼差しで、こっそり勇者を見上げた。黙り込んでしまった勇者に不安を感じる。

 ハッと気付いた勇者は、慌てて従者に笑顔を向けた。


「リンちゃん。今夜は野宿になりますよ。その場所をね、考えていました。リンちゃん、何かアイデアありますか?」


 取り繕う言葉と分かるので、その温もりに甘えることができる。娘の表情も、自然と柔らかくなる。愛らしい声音が、今度は勇者に温もりを届けた。


「・・ありがとう。・・出来れば、川の近くだと助かりますけど。・・ちょっと、難しいですよね?」

「うーん、樹々の間を北に進めばピィピーの川があるだろうけど。支流なら良いけどね、本流は荒いからね、危険かなあ。そうそう、さっきね、プラタナスの樹を見かけたの。森の丁度中央辺りでね」


 東の『ゾルディック橋』が渡れなぬ以上、森の南の『オピニクスの石橋』を渡るしかない。そこへ至るには森の中央まで戻らねばならぬから、なるほど『丁度』都合が良い。


「えっ、プラタナスの樹を見つけてくれていたんですかっ!すごいっ!ありがとうございますっ!」

 従者は嬉しそうに微笑んだ。プラタナスの樹は、魔物が嫌う『聖なる気』を漂わせる。おそらくその樹液の成分が、魔物達の苦手な物質を含むのだろう。ひとには好ましい香りである。故に、その大樹の裾は冒険者の憩いの場となる。





 大樹の根元に、二つのテントが張られた。従者は、勇者が同じテントに入ることを許していない。

 たが、勇者の表情には余裕がある。


―― 果実は熟せば、必ず落ちる ――


 根拠のない自信とは。滑稽なようでいて、ある意味無敵かもしれぬ。自信こそが活力を生み、行動を積極にし、成就へと導く。

 根拠に基づく自信は、根拠が崩れれば共に崩れる。根拠のない自信は、阿呆である限り揺るぎない。


 勇者がテントを張っている間、従者は勇者の周りでせっせと枝や枯れ葉を集めていた。薄暗くなってきた森の中、プラタナスの樹の下といえ、勇者から離れるのは怖いようだ。

 たまに。勇者の位置から従者の胸元が覗ける。白いブラジャーがちらりと見える。えもいえぬ魅惑の谷間が引き寄せては離さない。

 只の布が身体の凹凸が、これほどまでに視線を欲して絡めとるのは何故であろう。

 もっとも。あまりに見詰めれば、意識たる従者に気付かれ隠されてしまう。勇者は共犯者たるそれから視線を引き剥がし、また絡めとられてはの繰り返しだ。

 従者が枝木や落ち葉を拾い終える前に、勇者は3つのテントを立派に張り終えた。

 

「手伝うよ、リンちゃん」

「あ、大丈夫です!あと少しですから」

「分かった。じゃあ、焚き火の準備をしておくね」

「ありがとうございますっ」


 勇者は従者が集めた枝や落ち葉の一部を抱えると、テントから少し離れた処に火を起こした。そして、背負袋バックパックの中から『黄金の盥ゴールデン・バス』と『湖の水筒レイク・ボトル』を取り出した。二つとも非常に高価な法具ほうぐである。

 勇者は手のひら大の『黄金の盥ゴールデン・バス』を洗面器大にすると、『湖の水筒レイク・ボトル』の水を注いだ。『湖の水筒レイク・ボトル』はマグカップくらいの大きさだ。注ぎ終わると『黄金の盥ゴールデン・バス』を焚き火の上の網にかけた。

 二つの法具は、従者の沐浴に欠かせない。

 『黄金の盥ゴールデン・バス』は、ある程度まで自在に大きさを変えることが出来る盥である。

 『湖の水筒レイク・ボトル』は、大量の水を入れることが出来る水筒だ。ともに『竜退治の剣ドラゴン・スレイヤー』にも匹敵する超高級品である。

 勇者の肩書きで魔物討伐組合ギルドから融資を引き出したが、その返済は楽でない。報奨金は右から左だ。

 故に、勇者の武器は棍棒なのだ。


 彼らに『沐浴』は欠かせない。その誓いを守るためにも。それ以前の問題としても。

 従者はお風呂が大好きだし、勇者は従者のお風呂が大好きなのだ。

 価値とは、主観だ。


―― うふっ 沐浴、ばんざいっ ――


 こほんっ


「はっ!リンちゃんっ!」

 惚けた顔をした勇者の後ろで、娘が咳払いをした。勇者は慌てて脳内の娘を、生まれたままの姿で盥に身を浸す娘を、どこかに仕舞い込もうとあたふたする。しかし、その妄念は少し洩れたのであろう、娘は凍てつくような眼差しで勇者を一瞥し、言った。


「焚き火、ありがとうございます。でも、煮えたぎってますよ、それ」

「え?あっ本当だっ!でも黄金の盥ゴールデン・バスは頑丈だから。しかし熱くて持てないかっ!よし、僕が持っていこうっ!」

「結構です」

「・・鍋つかみ、使う?」

「ありがとう」


 娘は勇者から渡された鍋つかみを両手に装着すると、黄金の盥ゴールデン・バスを捧げるようにして持ち上げた。そして、静静と歩みながら、いつもの言葉をいつものように発する。厳粛な儀式の始まりを、宣言するかのように。



「ぜ・っ・た・い・に。覗かないで」


 一言一言、区切って打ち込むようにして。

 儀式に於ける約束を違えれば。万物の呪いが襲い掛かるであろう。そんな宣告か。

 勇者は神妙にこくこく頷く。覗きたい気持ちは山々なれど、儀式を犯す勇気なんてこれっぽっちも有りませんと、小心者の顔つきで顔を上下する。

 娘はじろりと一瞥した。

 そして、テントと反対側。プラタナスの樹の根元に出現した、奇妙ながき向かってすすと歩く。せっせと枝や落ち葉を集める娘が、集めながらに構築した生け垣だ。野営の際には欠かさず作っている為か、なかなかの手際。

 この生け垣。

 儀式の祭壇たる盥を、陣幕のようにぐるり囲んで隠す『枝葉の円陣ハガクレのじん』なのである。


「あ、湖の水筒レイク・ボトルを持ってあげる」

「結構です。取りに来ますから置いておいて下さい」

 にべもない。何かと理由を付けて祭壇に近づこうとする勇者。きっぱり断り秘儀を守ろうとする従者。操舵は従者の手元にあり、離れることはない。

 儀式とは、古来より女人のものだ。男が触れば穢れて堕ちる。

 もっとも。堕としたいのが、男のさがだ。


 勇者は恭順を示すように頷き、不器用な手つきで野菜を切り始めた。

「ごゆっくり。晩御飯を作っておくから」

「ありがとう」

 そのときばかりはニッコリ微笑み、円陣へと消えていった。


 その姿を見送ると、勇者は猛烈な勢いで野菜を刻み始めた。こちらも野営時には欠かさず調理を担当する。かなりの手練れだ。

 従者の前では不器用そうな手つきで野菜を切ってみせ、手際が悪いよう演じていた。『所要時間』を見誤らせる、そんな策か。

 地の利、人の和、天の時。

 それらは天命に則るが。

 尽くせる人知を、尽くしきれば。

 吹き込む運も、確かに有ろう。


 刻んだ野菜を鍋に入れて蓋をして、足元に隠す。目にも止まらぬ早業。そしてジャガイモを取り出し、のっそりと皮を剥き始めた。

 そこに従者が現れ、湖の水筒レイク・ボトルを持っていく。黄金の盥ゴールデン・バスを大きくしながら湖の水筒レイク・ボトルの水を注いでいけば、熱湯が良い塩梅のお湯となる。

 勇者は、のそのそジャガイモの皮を剥きながら、従者に声を掛けた。

「そうだ、さっき舞茸を見かけたんだ。ちょっと採ってきますね」

「え?遠くには行かないで下さい」

「大丈夫だよ、すぐそこだから」

 勇者は『枝葉の円陣ハガクレのじん』とは反対側、少し先にある茂みを指差した。

「プラタナスの聖域の範囲内だから、心配はいらないさ。ただ、ご飯が出来上がるのに少し時間が掛かるかも。小一時間、みて貰ってもいいかな?」

「もちろんです、ありがとうございます」

「ゆっくりと、沐浴してね」


 従者はペコリとお礼をすると、湖の水筒レイク・ボトルを手にして『枝葉の円陣ハガクレのじん』に消えた。

 勇者の目が、キランと光る。


 勇者は従者が消えた先を見据えながら、背負袋バックパックの中を探る。・・出てきたのは大きな舞茸。そう、既に収穫済み。

 策は重ねると威力を増す。単純な策でも複合させると、途端に見破り難くなる。

 ジャガイモの皮を手早く剥いて、舞茸とともに刻み込む。不敵な笑みを浮かべた勇者は鍋を引っ張り出すと、刻んだそれらを投入し火に掛けた。

 従者が姿を隠してから、僅か五分も経っていない。

 しっかり時を、稼いだようだ。


―― 時は、よし ――


 勇者は夜空を見上げた。

 月は、雲に隠れたか。

 樹々に阻まれて、星光もまばらに。


―― 地の利、よし ――


 覗く。勇者は娘の沐浴姿を覗く。

 卑劣である。

 しかし、純なる欲求でもある。


 求め合いたい。

 だからこそ、知り尽くしたい。


 ひとがこの世界の真理を追究するのは、この世界との合一を求めるからだろう。

 知り尽くすことで彼我の境は消えていく。

 美醜を超えて、尊きに達す。

 それこそが、生命の本質だ。

 共鳴し合い、和み、消えていく。

 故に。


―― 人の和、よし ――


 とは強引なれど。しかし、未来を見据えた眼差しには、光があった。



 勇者は曇りなき眼で。

 祭壇を、見据えた。

 

 

―― いざっ

 『魅惑の観劇おたのしみタイム』の始まりだっ ――


(つづく)

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