第3話 変革

 レッドパンサーが。

 ぐっと体を下げ跳躍に備えるのと。

 勇者が『それ』を。

 ぐっと鼻に押し付けるのと。


 ほぼ、同時だった。



 ずどどどどっーっっっつ!!



 この世が『多層世界』であることは、疑いのない事実だろう。少なくとも、生命は生命ごとに内なる宇宙を有している。

 内なる宇宙は外なる宇宙と絶えず接合し混じり合い、これを介して内なる宇宙は共に繋がり合う。宇宙と宇宙はぶつかり合って成長し、拡散する。

 常態に於いてでさえ、宇宙と宇宙の接合は大きな力を生む。


 しかし。

 それは『圧倒的』だった。


 

 勇者の宇宙は強大なる力により白光した。

 新たな宇宙が出現する際の膨大な光量。

 鼻腔から注入されたエネルギーは真新しい宇宙を撹拌の中に誕生させ、その二つはごうごうと渦巻きながら、白く青く輝きを散じながら、ぐるぐる絡み合っていく。

 その圧倒的な光は。

 煌めく星々の間、細胞と細胞の間を見つけては、外へ外へと飛び出し拡散していった。


 外界が一瞬暗くなるぐらいの、白光。


 レッドパンサーは体を下げたままの姿で固まっている。


 聖光は収束し。勇者の姿が、再び現れた。先程とはまるで別人に、威風堂々。

 物質構成変革クラスチェンジ


 天帝の親衛隊長が身に付けるような、白金の長衣。手にした棍棒は青白く光る聖棍に変わっている。

 『聖なる服ホーリークロウズ』と『白金の棍棒プラチナメイス』。最上級の装備である。

 そしてなにより。勇者が放つ闘気オーラが全く変わっていた。先程とは比べものにならない隔絶した心身能力。

 『聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブ』。

 勇者は、物質構成変革クラスチェンジしたのだ。


 鼻腔より侵入した力が生み出した、真新しい宇宙との絡合らくごう。そこに発した化学変化が体細胞に変異を促した。


 聖光に平伏ひれふすよう。

 大地はそっと息を吐いた。

 優しい風が勇者の長衣を吹き上げ。

 そして、棚引かせた。


 まるで。伝説の先導者メシアのように。



 レッドパンサーは、石にでもなったかのように動かない。微動だにもできない。

 勇者はその姿を眺めながら、ちらりと後ろを確認した。従者は、勇者の背で怯えるように俯いていた。

 勇者は。何故だかとっても嬉しそうに朗らかな笑顔を浮かべると、また『それ』を鼻に押し当てた。恍惚漂う表情である。


―― なんたる甘やかに。

 そらを突き抜ける、爽やかな風。

 身体せかいの隅々まで充ち満ちて。

 ・・心なしか。

 しっとり、潤いを宿して。


 こは、まさに。

 濃縮された、リンちゃんの香りだ ――


 颯爽たる姿の勇者。

 しかし、挙動は実に怪しい。

 目前のレッドパンサーには目もくれず、背後の従者をちらちら確認しては手にした『それ』を器用に片手で裏返したり。

 そして。

 核心的部位を、おもむろに舐め上げた。



 キャイーンっ!!



 レッドパンサーがまるで猫のように飛び上がった。泡を食ったように遁走する。

 膨大な熱気オーラが巨大な塊のままに勇者から発散された為だろう。


―― ほう、逃げたか。

 野生の感もなかなかだな。


 し、しかし、うまいぞっ!

 ああ。

 なんたる豊かさ。

 バニラのようだっ!香しきっ! ――



 勇者は左手を口元に引き寄せ『それ』から甘い香りを吸引しつつ、しゃぶっている。

 聖なる佇まいのままに、なんだか前屈みに『くの字』となる勇者。


 生命とは。

 清と淫との混沌だ。


―― おっふぁっ・・


 い、いけないっ!

 下半身が元気溌剌じゃないかっ ――



 どくどくと脈打ち隆起する。渦巻く力は、新たな宇宙を誕生させんことを願っている。その種を放出する『楽園』を求めんと欲す。


 いや。いま欲せられても、叶いはすまい。楽園に楽園の自覚がないからだ。

 勇者は無爾無爾むにむにと呪文を唱えながら目を瞑り、怒張が治まるよう、祈る。


「勇者、さま?」

 人の気も知らず罪なまでに愛らしき、声。勇者は耐えながら、応えた。

「・・ああ、リンちゃん。・・も、もう大丈夫ですよ。魔物は去りました」

 ・・魔物とは、何であったのだろうか。


 娘は顔を上げ、ほっとした表情で勇者を見上げた。幼げに、愛くるしく。

 すわっ『楽園』発見っ!とばかりに、治まりかけた怒張はビクビクする。まだ時にあらずっ!と理性を以て懸命に抑える勇者。

 彼の複合宇宙もまた、複雑ではある。



 娘は、すっと手を差し出した。

「返してください」



―― もう少しにぎりしめていたいのに。

  もう少し、においをぎたいのに。

  できればもう一度。

  舌で丹念に、味わいたいのに ――


 勇者の苦悩を侮蔑するような冷たい目を浴びせつつ、娘は繰り返した。

「か・え・し・て・く・だ・さ・いっ!」


 勇者は逡巡する。彼のなかで様々な思いが去来する。


 魔物が来たら従者が渡す。

 魔物を排したら勇者は返す。


 これが勇者と従者のルールだ。

 しかし。

 勇者は今一度『それ』を鼻に押し付け、大きく息を吸った。


「やめてよっ!ばかっ!!」


 ばしゅんっ


 従者のこぶしが勇者の鼻にめり込む。

 しっかりと腰が入ったえぐり込むような右ストレートであった。


「うおっ!結構痛い!ツンっときた!」



 わずかとはいえ聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブに素手でダメージを与えたこの娘、『武闘家ウォーリア』の素質があるのかもしれない。

 人は、見かけに依らぬもの。自らの見かけが分からぬ己には、余計に解らぬその素質。

 果たして。

 如何なる『素地』を有するのだろうか。


 残念無念を全身から発散させながら、勇者はしぶしぶと『それ』を従者に返した。

 すると。

 途端に勇者から聖気オーラは抜け出し、ぐすぐすとくすぶるように外格フォームが崩れた。見れば元の木阿弥、元の姿。武骨な棍棒に粗末な服だ。

 聖騎士勇者ホーリーナイト・ブレイブも束の間、彼はただの変態勇者に戻っていた。



「あっちを向いていてください!」


 従者は勇者に鋭く言った。『それ』を穿くところを、従者は勇者に絶対見せようとしない。


―― 見せちゃえば楽になるのに。

 慣れちゃえば楽になるのに。

 でも。

 リンちゃんは絶対に見せはしない。

 僕は、そんなリンちゃんが大好きだ。

 慣れることなく。

 いつまでも恥じらいもだえる。

 そんなリンちゃんが大好きなのだ。

 だから。

 僕は素直に言うことを聴く。

 いや、聴くふりをしよう ――



「うん、もちろんだとも、リンちゃん。・・はい、どうぞ」


 勇者が体ごと後ろを向くと、従者はすすっと勇者から離れた。勇者は頃合いを見計みはからうようにして、ポケットからこそこそと何かを引っ張り出す。


 従者は警戒するように勇者の方を確認しながら、ちょっと『くの字』になって、片足ずつ『それ』に脚を通す。黒い服からチラリとのぞく、白く長い脚が眩しく光る。そのすべすべとした柔らかそうな肌地きじの上を、くるくる丸まった『それ』が滑っていく。

 勇者は手にしたものを、角度を変えたりしながら、何やらしている。そして、従者に背を向けながら、にやけてみたり、苦悶したり思案したりしていた。

 そんな勇者をよそに従者はさっさと『それ』を穿き、ささっと服を整えてしまった。

 勇者は慌てて何やらを、さっさとポケットにしまった。


「・・もう、いいですよ」


 従者が言うと、勇者はすぐに振り向き、何気ない素振りで従者に近寄る。

「リンちゃん、怪我とか、ない?」

 勇者はそんな言葉と共に娘の身体を触れようと企むが、娘はするりとその手を逃げる。

 そして、半歩後退しつつ笑って言った。


「もうっ。大丈夫ですよっ。・・でも、ありがとうございました」


 清廉のなかに愛嬌があった。

 爽やかながらも固い若竹のような外郭のうちには、ほころぶような柔らかい綿がある。確かに透けて見える。それがこの娘だ。

 邪険にしきれない、無視などはできない、つんつんぷりぷりと怒りながら、どこかで許し受け入れてしまう。

 それは彼女のさがか、勇者のとくか、それとも絡合らくごうの結果なのか。


 従者は。何故だかちょっともぞもぞしながら、自分の脚の付け根辺りに視線を動かす。

 それを見た勇者は、何故だか焦りの表情を浮かべた。

 従者が顔を上げると、勇者はひゃあとばかりに顔を仰け反らした。


「・・なに、してるんです?」

「えっ!?・・い、いや・・」


 従者、リンちゃんは。ちょっとだけ立ち止まったが、すぐに歩き出した。

 顔が、赤い。


「は、早く行きましょ。急がないと日が暮れます。できれば夕暮れ前にゾルドの森を抜けたいですね」

「う、うん」


 さっさと前を歩く従者の後を、思案顔した勇者が続く。

 そして。十歩程を数えたとき、勇者の顔がぱっと晴れ上がった。

 勇者は歩調を早めて従者の横に位置を取り、その顔を覗き込むようにして、言った。


「リンちゃん」

「なんです」

「僕にもあるよ、そういうこと」

「え?」

「意思とは関係なく、身体が反応しちゃう」

「・・えっ!」


「リンちゃんは全然悪くない。健全な生理現象に過ぎないんだ。男性は勃ち、女性は濡れる。些細なことでも、生じることさ」

「・・・」

「・・いつもより、佳い香りだった」

「や、やめて・・」



 真っ赤になって俯く娘。震えてすらいる。

 違う。勇者の奸計なのだ。

 『それ』が濡れているのは、自らの体液などでなく。

 勇者の、唾液である。


 いや、勇者も敢えて濡らした訳ではない。娘の香りに夢中となって、ついついしゃぶってしまったまでだ。

 故に。発覚したのかと、慌てた。


 ・・しかし、拳は飛ばなかった。


 勇者は、嗅ぎ取った。直感的に解ってしまった。自分が『それ』をしゃぶることなど、うぶな娘には想定し得なかったことを。だが『それ』は濡れていた。原因は?他には、考えようがない。

 とはいえ。

 ・・娘の誤謬を促す何かが、あった。何かが、娘に内在していたと言わざるを得ない。

 勇者はそれを嗅ぎとった。そしてそれを利用した。それが、奸計である。


 可哀想な娘は、髪からのぞく耳まで真っ赤になっている。額に汗まで浮かべていた。

 勇者の眼がきらりと光る。


「だから。たとえ『あれ』がどんな状態にあったとしても。すぐに渡して下さい。僕らの命に、関わるから」

「・・・・はい」

「リンちゃんの香りが、僕を強くする」

「・・・」


 勇者の言葉に、従者は湯気ゆげが立つほど赤くなって、そしてかすかに頷いた。

 勇者は、とても嬉しそうに続けた。


「あれは。生命力そのものだ。生命力が溢れ出たようなものだと思う。あのレッドパンサーが猫のように逃げ出したくらいだ。いつも以上の力を得たんだよ。・・だからね。今みたいな方が、僕は嬉しい」


「・・もう、言わないで・・下さいっ・・」


 消え入るような声で、勇者の言葉めを止めようとする娘。

 うら若き可憐なる娘を、言葉でいじめるなど言語道断である。

 しかし。


 いじめられる娘が匂い立つような妖艶さを滲ませるのは、・・なぜであろう。



 かほり よく

 赤らむ桃の実 うつむきて

 うぶ毛を伝う ひとすじの つゆ



 従者は。

 俯きくれないと成りて、つつと歩を進めた。

 勇者は。

 『くの字』となって、独り佇む。


 突っ張ったようだ。

(つづく)

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