第2話 従者

 興奮すると、ひとは赤面する。


 『生命の危機』に陥ったときに身体機能のパフォーマンスを上げるため、脳内物質を用いて高揚感や緊張感、集中力などを高めた状態。『興奮』とは、元々そのようなものだ。

 危機的状況と現状を認識した脳は、興奮状態を作り出すため大いに働こうと大量の血液を要求する。脳へ血を運ぶ血管は、血流を増やそうと膨張する。脳への通り道となる顔面は、膨張した血管が透けるため、赤くなる。


 典型的なのは怒ったときや緊張したとき。これらの興奮状態では、実際『危機的状況』に直面している場合が少なくない。脳は危機を脱しようと血を求め、結果赤面する。


 ではもうひとつの典型例、恥ずかしいときはどうだろう?

 恥ずかしいとき、ひとは赤面する。ならば恥ずかしい状況とは、生命としての『危機的状況』なのだろうか?

 ・・否。


 思うに。『恥ずかしい』とは端的に云うと『見られたくない』という心理ではないか。


 好きなひとの前で恥じらう。

 即ちこれは『見られたくない』という心理からくるのではあるまいか?

 『未熟な姿を見せたくない』『こんな姿を見られてしまったら、たぶん魅力を感じて貰えなくなる』。

 だから『見られたくない』。


 しかし裏返せば『今は見られたくないが、もしチャンスが来たら、見せたい。良い場面を見せつけて、魅入らせたい』という想い。


 つまり。その根底には『』という願望があるのだ。


 恥じらいとは、なのである。


 そしてこの『見られたくない』という状況は、捕食者に近接したときの『見つかりたくない』という脳内環境に近似する。そのため脳が誤作動し、『危機的状況』と同様に働いてしまう。だから、赤面する。



 娘は、真っ赤だ。

 先程からも紅色していたが、今や湯気が立たんばかりに真っ赤である。


 赤面している姿とは、何故なにゆえこれほどまでに官能的で美しいのだろう。

 仮に。ハッとする程に魅惑的なひとが眼前に居たとする。その人が、全裸で朗らかに笑っている姿と。服をしっかり纏いながらも、垣間見える肌を羞じらいに染め、羞恥の涙を瞳に湛える姿と。

 どちらにより、官能美エロスを感じ得るだろう。


 思うに、羞じらいとは。

 美肉を堪能させる美汁ソースだ。

 往々にして、汁は肉以上に旨い。


 そして美肉いけにえは。

 調理人シェフに仕込まれ調教ちょうりされ。

 美汁ソースを絡められ。

 旨味をにじませる。



「リンちゃん。・・貴女はそんな変態勇者に、従うと誓ったのです」


 この一言が、娘を燃えんばかりのくれないに鮮やかに染め抜いた。


 怒りか?緊張か?恥じらいなのか?

 その原因は不明だが、娘の脳は大量の血液を欲している。



「ち、違いますっ!」

「ほう?」

「わ、私はっ!私は、勇者様に誓ったのっ!あなたのような変態に誓ったわけではありませんっ!」


 娘は美しい眉をつり上げ、若者をにらんだ。普段はき通るように白い肌。今や頬はもとより首筋まで真紅。


 しっとりと艶やかに、漆黒の。

 背中まで届くストレートヘア。

 髪からのぞく愛らしい耳。

 キリリと気高い、細いまゆ

 意志の強さを示す深くて濃いひとみ

 小ぶりで高く、形の良い鼻。

 柔らかそうなふんわりした頬。

 ぷるっとしたピンク色のつやっぽい唇。


 柔で、脆そうな。

 ・・いや、さにあらず。

 

 揉めば搓むほどしなやかに。

 搾れば絞るほどに薫り高く。

 攻めれば責めるほど奥深く。

 可憐の内に妖艶を備え持ち。


 美とは。なによりも強靭だ。

 

 

 それらを以て娘は勇者と対峙する。

 娘が声を張り上げると、だぼついた服でも隠しきれない豊かな胸が、揺れた。

 実際勇者は、内心すっかり動揺した。吸い込まれるような造形美。心を奪われる躍動。吐き出される息がまた、爽やかで甘い。


―― さ、流石はリンちゃんだ。魂ごと持っていかれそうだ。ああ、剣呑剣呑。ここは、踏ん張りどころだなっ ――


 そんな思いをおくびにも出さず、勇者はしれっとした顔で言う。


「僕は勇者で変態だ。変態なる勇者です。リンちゃん、貴女は勇者であり変態でもある僕に誓ったのですよ。・・エゴの町で」


 正確には、エゴの町とイシス神殿とのほぼ中間にある『卵座らんざ園庭えんてい』で彼らは誓い合った。しかし、敢えて勇者が『エゴの町』と言ったのは、そこに『衆人環視のなかで』との意味合いを込めたかったのだろう。


 『エゴの人々が見守るなかで、リンちゃん貴女は変態勇者に従うと誓いました』と。


 勇者も。

 美の結晶を前にして、必死なのだ。


 娘の眼が。かっと大きくなる。


―― ああ。いけない。怒った姿もますます素敵だ。困惑した表情も泣顔も、苦悶する姿でさえ愛らしく僕を狂わせる。リンちゃん、君はなんと困った存在だろう ――


 勇者は一度眼を閉じると、何かを振り落とそうと長く息を吐いた。そして、いか耀かがやく美しき娘に対し、更に言葉を貼っていく。


「そう貴女は。従いますと、誓った」


「もう、やめてっ!」


 娘は。リンちゃんは。ぎゅっと眼を閉じ拳を固めて、勇者の言葉を振り払おうと懸命に叫んだ。しかし、まるで御札のようにその言葉は貼り付いて纏わり付く。


 勇者は更に御札を配す。


「貴女は。その可愛らしいお口を介し、寄り添い従いますと誓いました。変態に、ね」


「やめてってばっ!」

「いいや、やめない。リンちゃん、貴女は勘違いをしている」

「・・何よ」

「僕は、変態だ。・・だから、リンちゃん。君が選ばれた。誰より美しく純潔無垢な君だけが、変態に力を与えることが出来るのだ。イシス神は、慧眼だ。・・変態の従者にこそと、リンちゃん君は。選ばれたのだよ」


 漆黒の髪に赤いカチューシャ。

 黒のドレスから覗く紅の肌。

 清楚と妖艶とが入り混じる姿。


 熟れ弾くように震え立つその姿は、凛として毅然であると同時に、なんだか妙に不安定でもあった。


 ・・様々な姿を引き出したくなる。泣き濡れた顔さえ、観たいと思わせる。


 おそらく。そのなかには、妖艶なるモノが潜んでいる。純潔無垢ばかりじゃないモノ。どこかでそれを探り当て、戸惑いつつも自ら縛って律している。それがなんとなく分かるから、勇者は切り込む。絡み付く。

 故に。ざわつくようなさざ波を心のなかに立てられて、娘は余計に怒る。


 自分に潜む何かが。

 嗅ぎ取られて、しまいそうで。



 勇者は。

 『僕には解る』と云わんばかりに、鼻腔を広げた。


 娘は、絶叫した。


「お願いだからっ!もうやめてっ!!」




 ・・空気が、揺れた。


 娘の叫びに、まるで呼応するかのように、野太い咆哮ほうこうが響いた。



―― まずい。

 この声はレッドパンサーだっ ――


 勇者は、娘を庇うように前に立った。

 巨大な体躯を持つくせに風のように俊敏なレッドパンサーは、かなりの難敵。


「リンちゃん、急ごう」

 勇者は娘を促す。近くに川があったはず。向う岸に渡れば、難を逃れ得るかもしれぬ。

 しかし、レッドパンサーの咆哮に驚いたのか、娘は勇者の腕にしがみつく。ムニュっと柔らかな至福の弾力。


―― おふぁっ!・・いや、今はそのときにあらずっ。急いで川までっ しっかし、柔らかいっ! ――


 遅かった。

 十数メートル先。光射す開けた森の安らかな雰囲気に、まるで似合わぬその異形。牛のように大きく炎のように赤い、ごつごつと逞しい筋肉を備えたレッドパンサー。


 とても棍棒で闘える相手ではない。


 勇者は叫んだ。

「リンちゃんっ!早く『あれ』をっ!」


 勇者の声に娘は、はっとした表情で顔をあげる。


「リンちゃん!頼むっ!早く!」


 白い顔して震えていた娘は、今度は急に顔を赤らめた。


「急いでっ!早く渡してっ!」



 レッドパンサーは勇者らを警戒しているのだろうか。ずっしりずっしりと、土を踏み締めるよう、ゆっくり進んでくる。

 銀のたてがみがゆらゆら揺れる。

 あと、10メートル弱。


 勇者はレッドパンサーを睨みながら、棍棒を向けて中段に構える。

 勇者のそばで娘が、屈むようにしてもぞもぞしている。

 レッドパンサーはゆっくり近づく。


 赤黒い躯体。むっとする獣臭。

 筋肉の細かな隆起までが見て取れる。

 猫科のしなやかな筋肉に加え、レッドパンサー特有の異常に発達した肩回り。人の首など一振で転げ落とす。

 鶏冠とさかのように逆立つ銀のたてがみを煌めかせ。

 鼻にシワを寄せて、鋭い牙を見せつける。

 そして血走った、赤く光る眼。


 空気は張り詰め、ずんと重くなる。

 双方の気が飛び交うのか。ちりちりする。

 たてがみばかりじゃない。いらつくように身体中の毛を逆立てるレッドパンサー。

 

 勇者は娘を背後に庇い。ずいっと一歩前に出て、左手を伸ばしながら強く言う。


「リンちゃん、・・はやくっ」


(つづく)

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