第293話「蒼い記憶」
頭が鈍く痛み、ぼんやりする。
しかも呼吸は浅く息苦しい。
思い切り息を吸えなくて、肺がいつもの半分くらいのキャパになった感じだ。
その症状に隼は心当たりがあった。
また発作が起きてしまったのだ。
最近はあまり出なくなっていたので油断していた。
「……っく」
ゆっくり身体を起こすと、そこは見慣れない部屋で、ベッドがいくつか並んでいるのだが病院ではないようだ。
そこで隼は考える。
一体何故自分はこんな場所で寝かされているのかと。
確か記憶では、鏡子に会いにいったはずだ。
そこで自分は何をしたのだろうか。
「あっ。良かった。気がつきましたね」
「え、あんたは…何故?つかここどこ」
身体を起こした衣擦れ音を聞きつけて、向こう側にあるらしい隣室から鏡子が駆け寄ってきた。
「ここはウチの会社の仮眠室です。覚えてませんか?木屋町さん、あの後倒れたんですよ」
「え、マジで?」
「ええ。それで編集長に背負ってもらって、どうにかここへ運び入れてもらったんです」
「はぁ…そっか。ゴメン。取り敢えず薬飲んどくわ。ジャケットの内ポケットにあるから取ってもらえる?」
「あっ、はい。わかりました。お水も持ってきますね」
鏡子はすぐに薬と水の入ったカップをトレイに乗せて持ってきてくれた。
隼は錠剤を水で飲み下した。
「あの…差し支えなかったら聞いてもいいですか?それ、何のお薬ですか」
「パニック発作の薬」
「あぁ……」
どうやら自分はあのラブホ騒動の後、極端な感情の波に誘発されて発作を起こしたようだ。
隼は情けないよなと苦く笑った。
「実はさ。野球やめたのもこの発作のせいなんだ」
「でも怪我が原因じゃなかったんですか?」
公式サイトではそう発表されていたし、引退会見でも本人がそう言っていた。
しかし隼は首を振る。
「表向きはな。確かに怪我もしてたけどプレーには支障はないレベルだった。でも球団の方で勝手にそんなシナリオにされてたんだ」
「…………何故パニック障害に?」
「母親の死が引き金になったんだろうな。ウチは俺が小さい頃に両親が離婚していて、母親は一人で俺を育ててきた。だから早く大きくなって、母親を楽させてやりたかったんだ」
父親の事はよく覚えていない。
ただ川縁で肩車をしてもらった記憶が朧げにあるだけだ。
今頃どこで何をしているのかもわからない。
それは後に発売された彼の半生が書かれたフォトエッセイ「蒼い記憶」でも明かされている。
鏡子も彼の取材前に読んでいた。
高卒選手の中では最高年俸を更新するくらい華やかな現役時代の裏で、隼は壮絶な十代を過ごしていた。
お金がないので、母が作った手作りの道具で野球をしていたり、家賃が払えず家を出されたり、大変な少年時代を送っていたらしい。
その母親がもういないとは鏡子は知らなかった。
「これからさ、母親を幸せにしてやれるって時に病気が見つかって、そっからはあっという間だった。気付いたら一人になっててさ。恥ずかしい話だけど、俺にとっては母親が全てだったんだ。それがなくなって、生きている意味さえわからなくなった。毎日不安で一人きりになったんだって思ったら、この症状が出てきた」
「……木屋町さん」
パニック発作は誰にでも起こりうる心因性の病気だ。
肉親の死がきっかけになる事も多いと聞く。
隼は常に母親と二人三脚で頑張ってきた。
それだけに依存度も高かったのだろう。
肉体の傷よりも精神の傷の方が深い。
それを癒やすには肉体の回復よりも時間がかかるのだろう。
「今回は久しぶりに発作来たなぁ。油断してたわ」
「ごめんなさい。私…あんな事言って騒いで」
鏡子が顔を歪めて頭を下げた。
本当に申し訳なく思っているようだ。
「いや別にあんたのせいじゃないって。自分でもどんなタイミングで来るかなんてわからないんだし」
「でも……」
「じゃあさ一回俺とデートしてよ」
「はぁっ?何で私と木屋町さんが?」
「別にそのくらい、いいよね」
「でも、それは…」
さり気なく誘うつもりが予定とは違ったアプローチになってしまった。
しかしこれはチャンスとばかりに隼は強引に話を進める。
「しょうがないなぁ。じゃあ明日飯行くだけってのは?」
「それくらいなら…えぇ。わかりました。でも倒れたばかりで大丈夫なんですか?」
「よっしゃ。あぁ、大丈夫大丈夫!それより明日忘れるなよ」
「もう…わかりました」
だが、翌日隼が高熱を出したため、そのご飯デートの話は流れてしまったのだった。
「くそっ。何でこうなるんだよ……」
熱に浮かされながら、隼は何度も悔しそうに唇を噛み締めた。
「はぁ…はぁ…絶対に諦めねーからな」
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