第283話「深夜の来訪者」
「はい。今日はこれで帰ってもいいですよ。検査の結果だけど、経過は良好と言えますね」
「え、本当ですか?」
その日木屋町隼は検診のため、病院にいた。
医師の永井は木屋町が現役のプロ野球選手時代だった時から診てもらっているので、気安い仲である。
消毒液の匂いが漂う診察室に、永井医師は電子カルテを眺めながら笑みを浮かべた。
「うん。とても数値がいいね。もしかしてプライベートで何かいい事でもあったかな?」
「は?別に何もないですよ。何なんですか。それは」
「いやいや。そんなムキにならなくてもいいじゃないか。この病気は心の有り様で変わってくる。だから何かあったのかなと思ってね」
「ないですから。何もない普通ですよ」
「そっかぁ。まぁ、どちらにせよ本人に自覚はないようだけど、ここ数日の間に君にとって何か心を動かす良い兆候があったようだ。それが今日の検査結果に繋がってるんだと思うよ」
永井はそう言って更に笑みを深めた。
隼はその揶揄うような笑みが昔から嫌いだった。
何でも見透かされているようでムカつく。
「ちっ……マジ何なんだよ」
***
「はー。マジ何なんだよ。心を動かす良い兆候って…」
あれからマンションに帰った隼は適当に夕飯を食べてから寝室の布団に寝そべり、手鏡を色々な角度に傾けて自分の顔を眺めていた。
まだ多少強張ってはいるが、大分表情を自分で制御出来るようになっていた。
本当にそれはここ数日にしては大きな進歩だった。
ここ数日の変化といえばと考えた瞬間、直感的に浮かんだある人物の顔が脳裏を掠め、隼は慌てて頭を振った。
「あーっ!何でそこであの記者の顔が出て来るんだよ。ありえねーから」
しかし一度浮かんだイメージは中々隼の頭から離れてくれない。
「大体連絡するっつって、あれから全然こねーし…。だったら変に思わせぶり匂わせんなよな。いやだからといって別に待ってねーし」
手探りでローテーブルの上のスマホを手に取り、メッセージアプリを起動する。
しかしあるのはマネージャーからの定期連絡ばかりで英鏡子からの連絡はなかった。
「こっちからすんのも変だしなぁ…自分から取材してくれってのもキモい通り越してマゾ過ぎるよな。いやいや。別に会いたいとか顔見たいとかじゃないし……うーん……じゃ何なんだよ」
自分は夜に一人で何を悶々としているのだろうか。
だが何故かあの記者が気になるのは確かだ。
どうしてなのかがわからないが、最近彼女の事をよく考えてしまう。
「ダメだ。表情だけじゃなくて感情までバグってきた。もう寝よう」
段々馬鹿馬鹿しくなってきた隼は、もうこのまま寝てしまおうと布団を手繰り寄せた。
その時だった。
激しくドアがノックされたのは。
それはノックというレベルではなく、ドアを破壊しかねない強さで叩かれている。
まさか強盗ではないだろうか。
一瞬そんな恐怖が過ったが、ここには何も価値のある金目のものは置いてない。
隼は一応収納に入れていた現役時代のバットを手にゆっくりとドアに近付いた。
緊張でバットを握る手に汗が染み込む。
初めてプロのマウンドに立った時よりも緊張しているかもしれない。
場合によってはすぐにマネージャーにも来てもらわないとならないなと思いながら、隼はドアに向けて声を放つ。
「……だ…誰ですか?」
我ながら何て情けない声だと思った。
しかしそのか細い声に反応して、凶暴なノックはピタリと止んだ。
「ウフフアハハ…紗里〜っ!お姉ちゃん帰ってきたよ〜!開けてよ」
「はっ?えっ?な……なんであんたがここに?」
何とドアの前には予想外の人物が立っていた。
隼は慌ててバットを放り出し、ドアチェーンを外してドアを開けた。
その瞬間、ムワッと濃厚なアルコールの匂いが鼻をついた。
「すげぇ呑んでな…だけどどうしてあんたがここに…しかも夜にヘベレケで来たんだよ。英鏡子!」
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