第281話

「……え、あんた誰だっけ?」



木屋町隼の自宅を訪れてからちょうど一週間後。

あれから立て続けに締切が重なって、仕事に追われていた鏡子だったが、ようやく取材再開の目処が立ち、彼に連絡を入れたのは3日前の事だった。


当然というべきか、やはり隼からの返信は一切なかった。

これは直接訪ねるしかないと、やって来たのだがその返しが先ほどの「あんた誰」だった。


こめかみに青筋が浮き上がるのを感じつつ、鏡子は無理やり笑顔を作る。



「週刊ダイレクトの英鏡子です。今日は取材の続きをお願いに参りました。前にもお渡ししたと思いますが名刺、どうぞ」



隼は名刺と鏡子の顔を順に見ると、大人しく部屋の中へ通してくれた。

名刺は受け取ってくれなかった。

仕方なく鏡子は名刺を再びケースにしまい、靴を脱いで中に上がった。


相変わらず物の少ない機能重視の部屋である。

おまけに掃除も行き届いている。


隼はリビングに移動し、ドカっと音を立てて腰を下ろした。



「取材って、これ以上何を話せばいいのさ。好きに書けばって言ったよね?」



「あら、木屋町さん。覚えてるじゃないですか。でもスミマセン。やっぱり迷惑ですね……」



彼の向かいに座った鏡子はいかにも迷惑そうな様子の隼を見て苦笑いを浮かべる。

しかし隼は意外な反応を示した。



「いや、それは別に迷惑じゃない」



「ええっ、どういう事?でもマスコミ関係はお嫌いなんですよね」



「嫌いだよ。でも男の記者が来るよりはいいって事。それだけ」



「なっ……」



何故か瞬間的に鏡子の顔が燃え上がるように熱くなった。

ここで女扱いされる事は本来ならばあまり愉快なものではない。


むしろ屈辱とすら言ってもいい。

自分はこれまでこの仕事で一度も女である事を武器にした事はないし、異性に対して私情は持ち込まず、マスコミとしての役割から逸脱せぬよう公私ははっきりさせてきたはずだ。


しかし何故だろう。

この男を前にするとそれが上手く出来ない。

著しくペースを乱されてしまう。


自分でも上手く制御出来ない感情を何とか抑えるため、鏡子はテーブルに置かれた水のペットボトルのキャップを引きちぎるように外すと、それを炎天下での部活時の球児並に一気に飲み干した。



「それではいくつか質問していいですか?」



「どうぞー」



いかにも投げやりな返答だが今日はそれでも応じる気はあるようでそれはありがたい。

鏡子はカバンから取り出したボイスレコーダーをオンにした。

そして筆記用具を手に持つ。



「休業を宣言された理由は病気とありましたが、病名を公表されないのは何か理由があるのでしょうか?」



「別に隠すつもりはないよ。ただこれ心因性のものらしくてさ、投薬と休息で治るようだし、あまり病名公表して大袈裟に騒がれたくなかったってのもある」



「心因性……では命に関わるものではないという事ですよね」



「まぁね。でもさ、メンタル病んでるって言ったらカッコつかないでしょ。一応元アスリートだし」



そう言って隼は少し拗ねるように横を向いた。

それを見て鏡子は新たな質問を投げかけてみる。



「そういえば今日はあまり症状は出ていないようですね」



「あぁ。この症状にはばら付きがあるんだ。でも治ったわけじゃないから、夜に出てくるかもしれないし、朝起きたら出てきたりするかもしれない。まぁ、今日はわりと調子がいい方が良い方」



「そうなんですか。では次に…」



「ねぇ」



予想外にスムーズに進む取材に内心驚きながらも鏡子は用意してきた質問を書いたノートのページを一枚捲る。


しかしその手は不意に隼によって阻まれる。


気付くと怖いくらい整った顔が間近に迫っていた。

淡い色合いの瞳が窓からの光を受けて揺れているようにも見えた。



「は…?な……に…でしょうか」



「退屈。もう飽きたんだけど」



「あ。そうですか。そういえば療養中でしたものね。では体調を考えて続きは後日にしましょうか」



「あのさ。あんた何でまたここに1人で来たの?一応さ、俺も公人ではあるけど、その前に異性なの忘れてない?まぁ、こんな家まで押しかけてくる取材自体イレギュラーなんだけど」



「それは…私としても対策はしてますよ。カバンに小型のスタンガン入ってますから」



鏡子はチラリと横に置いた自分のカバンに視線を向けた。

いつでもいざとなったら取り出せるようにしてある。



「げっ、あんたそんな物騒なモン持ってんの?マジか」



「え、木屋町さんは持ってないんですか?」




「いや普通に言ってるけど持ってねーし」



 

隼は何度もマジかと呟いては頭を掻いていた。




「ま。いいか。取材、続きすんなら次はこの部屋じゃなくてこっちに来て。あっちの方が色々撮りたいモンもあるだろうから」


「あら、ここの他にもご自宅があるんですか?」




差し出されたメモには別の住所が記載されていた。

当然ながら都内でも一等地である事に鏡子は若干顔を引き攣らせる。



「そ。ここは母親との思い出の部屋だから。プライベート中のプライベートなワケ。自宅は他に二つあったけど、一つは売却してもう一つがそこ。そっちに現役時代のトロフィーや盾とか保管してんの」



「そうなんですか……」



鏡子は改めて部屋の中を見渡す。

確かに私物がほとんどない。

それにテレビで見た数々のトロフィーもないし高級時計やスーツをしまっているクローゼットもない。


やはり彼はここに定住はしていないようだ。



「ではまた取材には……」



「次もあんた一人で来るならいいよ」



また取材を受けてくれるのかと期待を込めた鏡子だが彼はもう鏡子に興味を失ったのか、蝿を追い払うように片手をヒラヒラ振って、小説を読み始めた。



「では、また今度連絡させてもらいますね」



返事はなかったが、鏡子は深く頭を下げて彼の部屋を出た。














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