第280話「表情を失った男」

鈍い音を立てて扉が開かれる。

もしも想定していた最悪のパターンだと、ここで部屋に滞留していた異臭が流れ込むはずである。


それを覚悟してつい息を止めた鏡子だったが、管理人が何も躊躇う事なく部屋の中へ入って行ったのを見て、すぐに息を吐き出す。


幸い異臭が漂ってくる事はなかった。

逆に部屋に入っても人の生活する匂いが感じられないのが気になった。

普通はどんなに衛生的であろうと何らかの生活臭はするものである。


鏡子は靴を脱ぐと隣人の青年と一緒に奥の部屋へ入った。

玄関同様余計な物はなく、綺麗に整えられた空間が広がる。

部屋は二間のようで、管理人が声をかけているのが聞こえてきた。


鏡子もそっと奥の部屋を覗いてみた。

奥は寝室として使っているようで、簡素な寝具に若い男性が横たわっているのが見えた。


木屋町隼だった。


宣材写真よりも痩せて一回り小さくなった印象だが、間違いなくあの俳優の木屋町隼だ。


鋭角的な顎のライン、細く通った鼻梁。

乾いて色を失った薄い唇。閉じられた瞼に長いまつ毛が影を濃く落としている。

病的なまでに窶れてはいるが、整った綺麗な顔である事は間違いない。


しかしその唇から漏れる呼吸は規則正しく、単に眠っている事がわかる。

それを確認した管理人はこちらに笑顔を向けた。



「うん。大丈夫そうだね。ここに薬があるから薬で眠ってるだけじゃないかな。悪いけど一応木屋町くんが目覚めるまで診てやってくれる?何かあれば下においで」



「えっ?」



鏡子は目を見開いて管理人の顔を見上げる。

すると一緒に入ってきた青年も玄関へ向かって歩き出した。



「あぁ、良かったぁ。そこの人、夜も電気点けないし、外にも出てこないしで怪しかったんだよね。でも万一の事があったらって、めっちゃ怖くて中々確認出来なくてさ。いやぁ、マジ良かったぁ。お姉さんもありがとうね。じゃあ、俺も戻りますね」



青年は人の良さそうな笑顔でそう言うと、すぐに部屋を出てしまった。

彼はここに横たわる男が俳優の木屋町隼だとわかっているのだろうか。


今の様子だと気づいていないように思えた。

そんな鏡子の肩にポンと手が置かれる。

管理人だった。



「ウチは皆家族みたいなモンだから。金子くんも心配だったんだよ。大丈夫。木屋町くんもね。悪い子じゃないから。一緒にいたらきっと彼の優しいところがわかるよ。よろしくね」



「えっ?えっ?何の事だか全然わからないんですけど…」



金子くんとは、先程の隣人の事だと思うのだが、隼の事までよろしくされるのはどうしてだろう。


やがて管理人も膝をパンっと叩くと立ち上がり、部屋を出て行った。

ドアが閉じられて、ゆっくりと階段を降りて行く音が遠ざかっていく。



「……ちょっと」



部屋には鏡子とまだ眠り続ける隼だけになってしまった。


静まり返った部屋には隼の寝息とテーブルに置かれた加湿器の音しか聴こえない。



「………」



はっきり言って気詰まりだ。

何せ鏡子と隼にはまだ面識がない。


ここに来るまでに散々アポを取るために連絡はしてきた。

だが一度も応答してくれなかったのだから仕方ない。


改めて部屋を見渡してみる。

ライターの仕事をして、何度も芸能人と対面したり、食事会にも参加したりしてある程度の耐性はあるのだが、芸能人の自宅に入ったのはこれが初めての事だ。


それだけではない。相手は俳優で異性でもある。

意識すると妙にソワソワして落ち着かない。

こんな事でライターが動揺して情けないと、鏡子は何度も深呼吸して乱れる思考を宥める。


本当に何もない殺風景な部屋だった。

かろうじてあるテーブルの上には加湿器と眠剤のタブレット、そして缶ビール。

その横にはスマートホンが無造作に置かれていた。

多分電源が切られているのだろう。


何となく腹立たしくなってきて、鏡子は隼の寝顔を睨みつけようとした。

そして固まった。



「………だれ、あんた」



初めて発せられた声は少し掠れていた。

鏡子はビクっと背筋を伸ばしてポケットから紙片を取り出した。



「か……勝手にお邪魔して申し訳ありません!私、海童社のライターで英と申します。木屋町さんに取材の申し込みをしに参りましたところに隣室の金子さんから、こちらの部屋の様子が心配で確認して欲しいと頼まれまして、先程管理人さんに案内されたんです」



名刺を突き出し、相手が何も口を挟む隙も与えないくらい一気に捲し立てた。


その間、嫌な汗が首筋を何度も伝い、何度も噛みそうになりながら、何とか経緯を説明した。

隼はそれをただ呆然とした顔つきで眺めていた。



「そうなんだ。……目が覚めたらいきなり枕元に知らない人が座ってて、座敷童子の大人版かと思った」


「いや、それはないかと…」



何だかテレビで見た木屋町隼とは違う印象で戸惑う。

テレビで見る彼はもっと表情豊かで明るく爽やかだった。

そして彼が居るだけでその場が華やぐような印象だった。

こんな掴みどころのない虚無顔の青年ではなかったと思う。



「……しかしスゴイね。どうやってオレがココにいる事がわかったの?」



今度は今にも泣き出しそうな、とても物悲しい顔を向けてきた。

一体どんな意図があるのだろう?



「あのっ、本当にすみませんでした。ここへは藍田晴之さんから聞いて来たんです。でもお宅に上がり込んでまで押しかけるつもりはなかったんです。すぐ帰りますから。だからそんな悲しい顔しないでください」



「え、悲しい?俺が?何で?」



何でと聞かれても困るのはこちらの方だ。

目の前の彼はこの世の終わりのような顔をしているではないか。

鏡子はハンドバッグからコンパクトを取り出すと、パカっと開けて鏡を彼に向けた。



「だから、木屋町さんがです。ほら今にも泣きそうですよ」



「…あら。本当だ。参ったな。また出てきたのか」



コンパクトを受け取り、隼は何度も頬を摩っている。



「俺さ、今自分がどんな表情してるのかわからなくなってるんだよね。頭では笑顔にしようと思ってるのに全然違う表情になってしまう」



「え、何ですか。それ」



「知らないよ。そんなの。医者は何か難しい名前の病名言ってたけど。覚えてない」



そう言って隼は今度は満面の笑顔を浮かべている。

多分それも本来の表情ではないのだろう。

本人は軽く言っているが、これは相当深刻なのではないだろうか。



「それって治るんですか?もしかして休業しているのはそのせい……」



表情が自分の自由にならないというのは、俳優にとって致命的だろう。

すると隼は笑顔のままため息を吐いた。



「そういう事になるね。あんた雑誌社のモンだったよね。いいよ。書いても。好きにしなよ」



「……それは」



鏡子はそこで口籠る。

書いていいと言われたても、これはかなり深刻な話だ。

それに鏡子の「週刊ダイレクト」はゴシップやスクープ記事を前面に出すような雑誌ではない。


もっと芸能人たちの普段、知られざる意外な素の部分に迫る内容で読者の心を掴んできた雑誌だ。

藍田晴之も一年、コラムの仕事をした事で作家としての新たな魅力が開花した。

そういう誌面を目指してきたつもりだ。

だからこれをスクープ記事のように載せてしまうのは躊躇いがある。



「ちょっと考えさせてください。すぐには記事にしたりしませんから」



「別にどうでもいいよ。信用してないし。あんたら記者はそう言って簡単に裏切るのはわかってるから」



「なっ……」



カチンとくる言葉に鏡子は思わず声を荒げそうになる。

少し話してみてわかったがこの男、一々言動が子供染みているのだ。

正直言ってやり難い。

鏡子の一番苦手なタイプである。



「ま…まさか。そんな事はありませんよ。本当に記事にするには何度も上と検討しますし、木屋町さんの不利になるような記事にはしませんから」



「あのさ。そういうのもこっちも散々聞き飽きてるの。好きに書けばって言ってんだからそれでいいよね?あんたも金になればいいんでしょ?」



「お金のためじゃ……木屋町さん、そんなに記者がお嫌いなんですか?」



彼は現役の野球選手の時から常にマスコミに追われる存在だった。

以前、局アナとの熱愛報道はそれが過熱し、別れる結果になったのは有名な話だ。


なので色々とあったのだろう。

それはわかるが、それを鏡子にもぶつけないで欲しい。



「あぁ。嫌いだよ。あんたらマスコミ関係の人間は全部大嫌い」



「そんな素敵な笑顔で言われても響かないですよ」



「くっ……言うね。キミも。あ、そういえば今何時?」



そこで隼は今気付いたというように辺りを見渡した。

部屋はいつの間にか暗くなっている。

そこで鏡子は自分のスマホを取り出す。



「そろそろ19時になるかと…あ、スミマセン。長々と。あの今日は帰りますね。またお話聞かせてください」



「は、あんたまたここに来る気?」



今度は最初の虚無顔に戻った。

どうやらそれがデフォルトの表情らしい。



「ええ。まだほとんどお話してませんから」



そう言うと迷惑そうにしている隼を後目に立ち上がる。



「あんた……」



「そこに名刺渡しましたよね?あんたではないですよ。私」



隼のあんた呼びが気になった鏡子は去り際、布団の上に放置された名刺を指差した。

隼はのろのろとした動作でそれを拾い上げる。



「えい?かがみこ?何これ、名前なの?あんた何人なのさ」



「ハナブサ キョウコです!じゃあ本当にこれで失礼します」



ドアを少し乱暴に締め、鏡子はヒールをカツカツ鳴らして歩き始める。

すると背後から音がしてドアが再び開いた。



「ちょと待った」



すぐにドタドタと素足にサンダル履きの隼が追いかけてくる。



「はい?木屋町さん。何か忘れ物でもありましたか」



「送る」



「え?いやいやいいですよ。駅まではわかりますから」



「そうじゃなくて。もう暗いだろ。だから送るって言ってんの!そんな事もわかんないの?」



「いえ、言っている事はわかります。でもだからといって何で木屋町さんが送る必要が…」



すると隼はそれ以上言うなとばかりに片手を鏡子の顔の前に翳した。



「女の子だろ。あんたは。この辺りは特に暗いし危ないよ。ほら何惚けてんの。行くよ」



まさかここで、突然女の子扱いされるとは思ってなかったので思考がフリーズしてしまった。

思えば職場でも滅多に女扱いされる事はなかったので、最近は自分ですら無頓着なところもあった。


唯一小田だけは心配してくれているが、何となく女性だからというよりは親目線に近い。


それをこの初対面の、元プロ野球選手で俳優の木屋町隼にされるとは思わなかった。


そんな鏡子の脳裏に管理人の言葉が蘇った。



(あの子は悪い子じゃない)



確かに口は悪いし、態度も悪いが根の部分はそう悪くはないようだ。


鏡子は小走りで先を歩く隼に近寄った。

スポーツ選手だっただけあって彼の身長はかなり高い。

自分もそれなりに身長は高い方だが、並ぶと頭一つ分くらい差がある。


すると隼は怒りの表情でこちらを振り返った。



「ねぇ、もう少し離れて歩きなよ。あんたと連れだと思われたくないから」



「ちょっ…そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」



「別に怒ってないよ……今自分がどんな顔してるかわからないし」



「あ…」



鏡子は見た。

怒りの表情を浮かべる隼の頬や耳はほんのり赤く見えた。



「あぁ、照れているんですね」



「ぶはっ……。なワケあるか!あんた本当にウザいね」



図星だったのだろうか。

鏡子は口の端にほんのり笑みを浮かべて彼を刺激しない距離を取って一緒に歩き出した。


いつもは暗い夜道が今日は少しだけ明るく見えた。












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