第279話
「……もう、何だって私はこんなところにいるのよ」
夕泥む空を見上げ、鏡子は深いため息を吐いた。
小田から打診された新たな取材対象である木屋町隼と直接取材出来ないものかと、方々からアプローチをかけてみたものの、そのどれにもヒットしなかった。
所属事務所ですら連絡がつかないとの一点張りで、一番近しいマネージャーの方に至っては、最近引っ越したらしく、所在さえ把握していないという。
そんなはずはないと鏡子は思う。
多分マスコミを遠ざけるための嘘に違いない。
事務所に所属しているタレントの管理がそんな杜撰であるはずがない。
もしかしたら本当に重病でどこかの医療機関に長期で入院しているのかもしれない。
隠す理由はその病が命に関わる重病だとか。
早速行き詰った鏡子は木屋町隼と同じ事務所に所属し、友人だという俳優仲間、藍田晴之にコンタクトを取る事にした。
晴之とは以前担当していたコラムの執筆で約一年くらい一緒に誌面を作ってきた仲なので一番コンタクトを取りやすい相手でもある。
晴之は今回久しぶりに連絡してきた事で多少驚いていたが、すぐに手がかりを教えてくれた。
「隼さんなら最近タワマン売却して、小さなアパートに越したんですよ。先月飯に誘った帰り、ちょっと話があったんで隼さんちに上がらせてもらったんです」
晴之の話からすると、どうやら本当に隼と交流があるようで鏡子としては心強かった。
そこから鏡子は隼の連絡先と自宅を教えてもらった。
だが、いくら連絡を入れても彼からの反応は無かった。
事務所からの連絡さえ取れていないのだから当然かもしれないが、それならそれで余計気になる。
結局少し迷ったが、鏡子は直接彼の自宅を訪ねる事にした。
編集長の小田にも許可は取ったが、どうしても行かなくてはならない重要な仕事ではないのだから、不在だったらすぐに帰るようにと言われた。
そして二人きりにならないように誰かを連れて行くようにと。
そして今、鏡子は隼の自宅の前にいる。
小田は誰か連れて行くようにと言っていたが、人の減った部署に余分な人材がいるはずもなく、単身で乗り込む事になってしまった。
まぁ、自分もこの仕事に就いてそれなりの場数を踏んできた。
本当に危険な場面になったとしても何とか出来る自信があった。
その為に護身術も習っているので、小田の心配するような事にはならないだろう。
鏡子は大きく息を吸い込んで、隼の住まいへ一歩踏み出した。
「コーポ旭……ずいぶん古い建物ね。本当にあの人気俳優が住んでいるのかしら」
見上げる建物は二階建ての古風なアパートで、壁の一部が剥落しているような年季の入った外観が目を引いた。
一体家賃はいくらなのかと考えながら、ギシギシと歪んだ音を立てる赤錆の浮かんだ手摺を掴んだ。
隼の住む部屋は2階の右端と聞いている。
鏡子はゆっくりと外側に面した古い階段を上がっていく。
狭い通路には住人の草臥れた靴がや掃除道具が転がり、壁際には今では珍しい二層式の洗濯機が置かれている。
それらを避けながら、鏡子は何とか右端の部屋の前までやってきた。
「ふぅ…オートロックは……あるはずないわよね。大丈夫なのかしら芸能人がこんなガバガバのセキュリティで」
ドアには住人の名前の表札はなく、本人の家かはわからない。
ただ横には郵便受けがあって、夥しい数の封筒が詰め込まれていた。
その量から考えると、随分長い事留守にしているのかもしれない。
「やっぱりどこかに入院しているのかもなぁ…」
そんな事を考えながら、取り敢えずどうするか考えているところで、カンカンと靴音を響かせて誰かがこちらへ上がってくる気配がした。
一瞬、隼が帰って来たのかと期待したが、現れたのはふくよかな大柄の青年だった。
どうやら隼の部屋の隣の住人らしい。
鏡子は彼に軽く頭を下げる。
すると青年がこちらをチラリと見た。
「あの、あなたその部屋の人の知り合いですか?」
「えっ?あっ…私は……まぁ、はい」
まさか話しかけられるとは思っていなかったので咄嗟に知り合いのような返答をしてしまったがもう遅い。
しかし現段階で隼とは面識もないただの他人だ。
だが青年はそれを信じたようで、再び口を開く。
「その人、ずっと部屋から出て来ないんですよね。多分外出してないと思うし、何かヤバい事になってたらって思うと心配なんですよ。お姉さん、ちょっと俺の代わりに確認してくれませんか?」
「えっ!私が?」
青年は首を縦に振った。
どうやら本気で心配しているようで、根っからの善人なのだろう。
まだ戸惑う鏡子に青年はドアを指差す。
「そのDM、ずいぶん溜まってるし、変じゃないですか。まだ下に管理人さんいるんでお願い出来ません?」
「じゃあ…確かにそれは心配ですね。わかりました。行ってきます」
鏡子は教えられた下の管理人室へ向かった。
管理人は優しそうな年配の男性で、鏡子が事情を話すとすぐに鍵を持って来てくれた。
二階へ上がると先ほどの青年がまだいた。
彼は鏡子たちに頭を下げると気になるのか一緒についてきた。
まぁ、中で隼がどうにかなっていた場合、彼の存在は有り難い。
正直、この年配の管理人と二人ではどうにも心細かった。
「ここは……木屋町くんだっけ。ここにはね。彼のお母さんが住んでいたですよ。そのお母さんが亡くなってからは長いこと誰も入居してこなかったんだけど、つい最近ね息子さんがここに帰って来たんですよ」
「えっ、そうなんですか」
そんな事情を他人にあっさり話してもいいのかと内心思ったが、今は彼の身内と思われているのだ。
鏡子は最もらしい顔で頷いた。
やがて管理人が鍵を差し入れドアを開ける。
「さぁ、どうぞ。中を確認しましょう」
鏡子は唾を飲み込んだ。
本当にこの部屋に木屋町隼はいるのだろうか。
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