第269話「密室での会話」

「な……何でもあんたが私の名前を知ってるの?あんたに名乗った事なんてないし、する必要もないよね」



紗里はすぐに建物から出て来ようとせず、警戒するように一歩後退りした。

まぁ、気持ちはわからなくもない。


睦月はアイドルでそこそこ顔は知られる存在ではあるが、紗里にとっては友達や知り合い等ではなく、素性も見知らぬただの他人でしかない。


そんな睦月がいきなり自分の名前を知っていたらかなり薄気味が悪い。


仕方なく睦月はパーカーのポケットから拾った紗里の生徒手帳を取り出す。




「あっ、それ私のっ!」




紗里は指をさして大きな声をあげた。

建物にその声が反響して甲高い声がわんわん響く。




「何であんたが持ってんの?めっちゃ怪しいんだけど」



ますます警戒して後ろに下がっていく紗里を見て、睦月は疲れた顔で息を吐いた。




「拾ったの。あの時これ落としたんじゃないの?」



「あ……そうなんだ。あのさ、まさか中身は見てないよね?」



「え、あぁ。良くは見なかったけど、ちょっと気になったのは広瀬カイの切り抜きが入ってんのかと思ったら、何で僕の……」



そこまで言った瞬間だった。

急に紗里が真っ赤な顔をして睦月に飛びかかってきた。



「わー、わーっ!見るなぁ!」



「えっ?うわぁ、ちょっと危なっ…」



身体に触れられたら男だとバレてしまうので、慌てて睦月が避けた瞬間扉が閉まる音が響いた。


カシャン…。


続いて施錠音が無常にも鳴り響く。




「え、まじ?」




事態に気付いた睦月は直ぐにドアノブを回すが、錆びた扉にはしっかり鍵が掛かっていた。

しばらくガチャガチャ回してみたが、全く反応がない。




「ちょっと、ねぇ、今のどういう事よ」




「……出られなくなったんじゃない?」




「冷静に言わないでよ!どうすんのよ。バカじゃないの!」




「いや、んな事言われてもそっちが急に飛びかかってきたからじゃん。あ、ほら生徒手帳。返しとく。今度は落とすなよ」



睦月は興奮する紗里の手に生徒手帳を押し付ける。



「ありがと……じゃなくて、本当にどうすんのよ。出られないじゃない」



「あー、はいはい。今人呼ぶから。ぎゃんぎゃん煩いよ」



半泣きで喚き散らす紗里を横目に睦月はスマホを取り出した。



「ちょっと、こういう場所だとスマホ通じないんじゃないの?」




「何そのミステリ特番だけに適用する特殊設定は。大丈夫。通じてるから。あ…どうも。加藤ちゃん?睦月です。あのさ、悪いんだけどちょっとトラブルがあって地図送るからここまで迎えに来てくんない?」



睦月は紗里に背を向けるとマネージャーらしき相手と連絡を取り始めた。

腰の辺りまであるサラサラで艶やかなピンクゴールドの髪が睦月が頷く度にゆらゆらと揺れている。


その髪は触れたらどんな手触りだろう。

気付けば紗里は無意識に睦月へ向けて手を伸ばしていた。



「30分か40分くらいもあれば着くっ……ん。どしたの?」



「うっ……別に…くしゅっ!」



髪に触れる寸前で通話を終えた睦月が振り返った。

片手を突き出した妙な格好で固まった紗里は慌てて手を引っ込める。


すると急に震えが走り、くしゃみが飛び出した。



「あー、そういえば何で服濡れてんの?最近のJK、川遊びがバズってんの?」



「違うわよ!地下鉄の個室トイレに入ったら、あの子達にやられたの」



「何それ。超陰湿ー。もしかしてガッコでイジメられてんの?」



「違う…よ。ちょっとね…」



「ちょっとって?」



睦月が訝しむような目を向けてくる。

紗里は居心地悪そうに目を逸らせた。



「もう睦月をイジんの止めようって言ったの…そうしたら急に……」



「………バカだね。そんなの言わせておけばいいのに。別に僕は何とも思っちゃいないし」



そう言って、睦月は自分の着ていたパーカーを脱ぐと、それを紗里に投げた。



「わっ……何よ」



「それ、丈長いから下まで隠れるよ。とりあえず濡れた制服脱いでそれ使いな。風邪ひくよりマシじゃん」



紗里はパーカーと睦月を交互に見て、小さく「ありがとう」と言うと、一気に制服のシャツを脱ぎ捨てた。



「あ、え?君、バ…バカなの?まだ僕が後ろ向いてないのにいきなり脱がないでよ」



珍しく睦月が余裕のない声を出した事に紗里は首を傾げた。



「え、別に女同士なんだから気にする事ないでしょ。それより濡れたシャツがずっと気持ち悪くて」



「いや…、後で何か色々ややこしい事になりそうだから向こう向いておくわ」



「変な人ー」



紗里は全く睦月を意識する事なく、無防備な下着姿で制服を絞っている。


JKならもっと可愛い下着を想像するものだが、彼女の下着は一切派手な装飾のないスポーツタイプのものだ。


薄い肉付きの肢体はあまり女性らしさはなく、柔らかというよりは張り詰めた草食獣のような印象である事から、あまり色気は感じない。


そこは彼女には申し訳ないがある意味、変に異性を意識せずに済むので有り難いと思った。


それでも未成年の異性である事は変わらないし、自分はアイドルという公的な立場でもある。


睦月は出来るだけ彼女から離れた場所で着替えが終わるのを待った。



「私の身体さ、全然女の子らしくないでしょ」



「え?いや…よく見なかったからわからないよ」




急に紗里が睦月の背にそんな言葉をぶつけてきた。


睦月としては非常に答えにくい話題である。

しかし紗里は自分を女の子のアイドルだと思っているのだ。

だから出来るだけ無難に答える。




「私ね、昔からずっと男みたいって言われて育ってきたんだ。年の離れたお姉ちゃんは綺麗で女らしい身体つきで、すぐ彼氏が出来た。それに引き換え私は、肌も浅黒いし胸も小さいし、お尻も太腿もガチガチで硬いしさ…」



「………あー、そっか」




睦月は天井を仰いだ。


思えば紛い物の自分も似たようなものだ。

男であるから当然、胸もないし、骨格はしっかりしているので身体に触られると大体違和感を覚えられる。


しかし彼女は本物の女の子なのだ。

その悩みはきっと自分より重く深いだろう。



「私さ、よく考えてみたら広瀬カイを好きになるより前にあんたに憧れてたみたい。あんたみたいな女の子になって、広瀬カイのような男の人と付き合いたいって」



「え、僕?」



思わず振り返ってしまったが、もう紗里はパーカーに着替えていた。


その紗里は生徒手帳を見せた。

そこには笑顔の睦月の写真が入っていた。

睦月が見てしまった写真だ。



「私、あんたになりたいよ…。あんたみたいなふわふわしていて、誰もが守ってあげたいって思うような可愛い女の子に」



「あー…いやぁ、あれは作り物だよ?芝居みたいなものだし」



ここで自分が男であるとカミングアウトするわけにはいかないのだが、どうにももどかしい。

睦月は難しい顔で腕を組んだ。



「例え作り物だとしても、現にあんたは可愛いじゃん。今もキラキラしてる」



「そうかな。僕は君の方がずっとキラキラして可愛いと思うけどな」



それは本心からの言葉だったのだが、紗里は笑った。



「何でそこで笑うのさ」




「だって、私より可愛い女の子に言われてもね〜。でも今のさ、まるで男の子に言われてるみたいだった」



(まー、ガチで男なんだけどね…)



「ははは…。早くマネ来ないかなぁ。腹減ったし」



そう言って睦月は鞄にしまっていたハンバーガーを齧った。



「食う?」



「いらない。太るもん。それよりあんたこそ大丈夫なの?そんなハイカロリーなヤツ身体に入れて」



「まだ基礎代謝高いからね。きっと三十過ぎたら腹に肉つきそうだけど、その頃には芸能人やめてると思うし、関係ないや」



そう言って睦月は大きなハンバーガーに齧り付く。



「ふーん。ねー、芸能人って儲かってんでしょ?何でそんなジャンクなの食べてんの?」



「そんな儲かってなんかないよ。君の想像する芸能人の生活出来てんのなんて一部だよ。僕なんてどんなにCD売れてもあっちこっちに天引きされてショボい財政事情だよ」



「何か夢ないね、芸能人って」




「そだね。所詮芸能界も全ては金だからね。それと事務所のパワー。ウチのとこはまぁ、今じゃトロエーのヒットでそこそこ上がっては来たけど、パワーバランス的にはまだ上の下ってところだから期待は出来ないよ」



そう言って睦月は残りのハンバーガーを食べ終えた。


すると扉の向こうが騒がしくなってきた。




「おっ、そろそろ来たんじゃない?」




「本当?」




「あぁ。良かったね」




睦月は紗里に笑いかけた。




「うん。ありがとうね。睦月」



「ん。帰ったら風呂入れよ」




こうして二人は睦月のマネージャーに無事救出されたのだった。



















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