第270話「アイドルと婚前旅行」
「乙女乃怜……ね」
翔はゆっくり湯船に浸かりながら、今もリビングにいるであろう、急に訪ねて来た乙女乃怜の事を考えていた。
怜とは何度か一緒に仕事をした事もあるし、歌唱指導も担当していた時期もある。
その時は単純に仕事に対して真摯で真面目な女の子という印象しかなかった。
それくらい、仕事に対しては熱意のようなものを感じたし、アドバイスもしっかり受け止めて、すぐに吸収し改善していた。
その裏で大分私生活が荒れているようで、その噂は度々あちこちので耳にした事はあったが、仕事に影響が出ない限りは特に気にする事ではないと思っていた。
しかし先程見た怜の顔は明らかに辛そうで、深刻な様子だった。
何があったのかは大体想像はつくが、怜は陽菜を訪ねて来たのだ。
自分はそこに踏み込まない方がいい。
そう思った翔は陽菜に任せて、自分は風呂に入る事にした。
徹夜で作業していた事もあり、手っ取り早く頭をスッキリさせたかった。
「仕事にプライベートは持ち込むなってか……」
手早く身を清め、翔は浴室から出た。
昔、自分がマネージャーからよく言われていたセリフだ。
どんなに自分が辛くても、それを決して公の場では出すなと。
ステージに立てば神崎蓮ではなく、「支倉翔」を演じる役者だと思え。
そこに神崎蓮のプライベートなんて一切持ち込むな。
「アイドルやるのも辛いよなぁ」
何となく、もう止めた煙草が無性に恋しくなった。
☆☆☆
その頃、夕陽はみなみの部屋で彼女の母親と一緒に最終的な結婚式の確認をしていた。
確認といっても披露宴もなく参列者は家族だけなので、本当に小規模なものだ。
「あら、そうだ。巳波、あんた来週から仕事休みに入るでしょ?」
一通りの段取りを確認した後、母がポンと手を打って思い出したように自分のスマホのカレンダーを二人に見せた。
確かに来週からしばらくの間、結婚準備として事務所からは休むように言われている。
全て社長の計らいで、その期間はマスコミ対策やその対応も全て事務所で処理してくれるという。
「うん。そうだよ。その間にどれだけ痩せやれるかだよねー。はぁ。ダイエットつらたん」
みなみは毎日野菜スティックを齧りながら、ダイエットに励んでいる。
その成果は出ていて、何とかドレスは入るようにはなった。
しかしもう少し絞った方がいいと判断して、まだダイエットは継続中なのである。
「そんなのワンサイズ大きいのに変更したらいいのよ、どうせレンタルなんだし」
「お母さん、そんな恥ずかしい事出来ないよ。もぅ…それにレンタルって言わないで」
みなみはむくれて顔を背けた。
夕陽は困ったように笑う。
「はいはい。わかったわよ。でね、式の前にあんた達、ちょっと短い旅行にでも行って来たらどう?どうせ新婚旅行はすぐには行けないんでしょ。だったら今がチャンスじゃない」
「えー、でも発表前はあまり動くなって言われてるんだよ」
結婚報告後は旅行へ行く間もなく、すぐに新曲のPV撮影でサイパンへ行かなくてはならない。
今回は十二月から三月まで連続でデジタルシングルとして新曲が配信される予定なので忙しくなる。
夕陽も地方への出張と講習会や免許の更新等、それなりに忙しい身だ。
確かに行くならこのタイミングかもしれない。
「そうだな…顔とか隠していけば何とか行けないかな?」
「え、もしかして夕陽さん行く気満々?」
みなみは絶句したように夕陽を見て両手で口元を覆う。
「いや、確かにそうかもって思ったんだよ。最近仕事詰め込み過ぎな上、ダイエットまでして疲れてるだろ?少しゆっくりした方が緊張とかも取れて、身体だけじゃなくて、メンタル面も良くなるんじゃないか?」
「夕陽さん…珍しく優しい♡」
「珍しくは余計だな…」
夕陽は自分のスマホを出して少し考え込む。
「式までの日数を考えると、国内で三泊ってところかな。どこがいい?」
「えーと、あの……じゃあ千葉」
「いや。俺に対して親の経済状況を察して忖度する子供みたいな事言わなくていいから。国内ならどこだっていいよ。好きなトコ言ってみろ」
夕陽は呆れたように息を吐いた。
隣でみなみの母親が肩を震わせている。
いつもこんなやり取りをしていると思われたくはないが、残念な事にこれが現実である。
「いいの?んー。じゃあ北海道」
「おっ、いいな。北海道。別に俺はいいけど、お前だったらもっと暖かいところを選ぶと思ってたな」
みなみのイメージだと、沖縄とか言い出しそうだと思っていただけにそれは意外だった。
「ふふふっ。甘いなぁ。夕陽さん。私、熊本の出身だから逆にあまり行ってない北の方に行ってみたいの。ロケとかでよく行くけど、普通に観光目的の旅行なんてした事ないし」
「なるほど。そういう事か。俺も北海道は小学生の頃、家族旅行で一度行ったきりなんだよな。そう言われるとちょっと行ってみたくなってきたよ」
夕陽も北海道は久しぶりだ。
あの時は冬に行ったので、寒さよりも凍った路面が怖かった記憶がある。
あれから一度も訪れた事はないので、今ならもっと子供の頃とは別の楽しみ方が出来るかもしれない。
「あらぁ、いいじゃない。今の季節、ちょうどいいんじゃない?私もついていきたいわぁ」
「お母さんはいいよ!」
みなみは力強く断った。
ここで母親までついてこられたら大変だ。
「はぁ…笹島の事も心配だけどなぁ……」
今頃笹島はどうしているのだろう。
夕陽は楽しそうにしているみなみと母親を見て、微妙な笑みを浮かべた。
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