第257話「陽菜の過去」
「話、ここでいいですか?一応、地下がスタジオにしてるんで、防音になってます」
話があるという一十を伴って、翔は陽菜を置いて地下のスタジオに入った。
朝方まで作業をしていたので、まだ資料がそのまま散らばっていたりするが、重要なものは既に片付けているので、そのまま入ってもらう。
中は機材と小さなボーカルブースで構成されていて、奥には作業に集中する際に引きこもれるようなミニキッチンや冷蔵庫、トイレ、シャワー室、等も充実していている。
翔は一十を中央のソファに導くと、自分もその向かいに腰掛けた。
「凄い設備だね。しかも機材も最新のものばかりだ」
「えぇ。ソロ楽曲のほとんどはこのスタジオで撮ってますから…」
「そうなんだ。今度僕のスタジオにも遊びに来るといいよ。色々面白いモノ置いてるから」
「本当ですか?秋海棠一十のプライベートスタジオは同じクリエイターとして興味があります」
「いつでもおいで。これは住所」
そう言って一十は翔に名刺を渡した。
「ありがとうございます」
「そうそう。君に話があると言ったね。何が言いたいかわかるかい?」
名刺を大事に仕舞いながら、翔は「はい」と頷く。
「陽菜の事ですよね」
「うん。今までは僕が彼女の保護者代わりをしていたからある程度把握していた事だけど、こうなった以上、君にも話しておくべきだと判じたからね」
「………」
いつも浮かべる柔和な笑顔は消えて、硬い表情の一十は翔を真っ直ぐ見つめてきた。
翔は覚悟を唾を飲み込んだ。
やはりこの人は陽菜について何か知っている。
そう確信した。
「あの子は自分の両親の事を何か君に話したかな?」
「…いえ。前に僕が彼女の両親に挨拶したいと言った時に彼女が突然震え出したので、今は踏み込むべきではないと思って止めました。彼女自身もあまり家族の仲が良くないというような事は話してくれたので、そこには無理に触れず、そっとしておこうと思いました」
「…そうか。そこまでは話せるようになったんだね。君は彼女に信頼されているよ」
「そうなんでしょうか……。もっと力になりたいのに、そこに触れさせてもらえないもどかしさがあります」
翔は少し淋しげに笑った。
それを見て一十は頷く。
「あの子はね、父親から虐待を受けて育ったんだ」
「えっ?……でもまさか」
その言葉が持つインパクトの大きさに翔は思わず拳を握った。
あのいつも明るい陽菜にそんなバックボーンがあるとは想像できなかった。
「勿論、性暴力ではないよ。ただ、彼女の実父は言葉と暴力で彼女と母親を支配していた。陽菜はそんな生活に耐えかねて、家を飛び出して様々なライブハウスを点々としていたんだ。そんな時に僕と陽菜は出会った」
「…………」
自分も十代の頃は親の圧力で辛い毎日を送っていた。
自分だけが辛いと思っていた。
だけど、世の中にはもっと辛い思いをしている人間はいる。
陽菜はそれを誰にも話さず、秘めてきた、
それはどんなに寂しくて辛い事だっただろう。
「彼女は身も心もボロボロだった。熱湯でただれた腕を懸命に振って、僕達の演奏を聴いてくれてね。僕達の音楽を聴いている間だけは最高に幸せなんだって言ってたよ。それで僕は決意したんだ。この子も東京に連れて行こうと」
「………」
「元々メジャーデビューの話はあったから、いずれ上京するつもりではいたんだ。その前に僕は彼女の両親の住む自宅を訪ねた。まぁ、行ったらもう大変でね。植木鉢は飛んでくるやら、終いにはテーブルまで投げつけようと威嚇されたりとね。とてもまともに話なんて出来る状態ではなかった」
当時の事を思い出したのか、一十は情けない笑みを浮かべた。
「で、刃物まで出されたところで流石に危機を感じて出ようとした時に、陽菜の母親が僕に言ったんだ。娘を頼みますと」
「お母さんがですか?」
「うん。多分父親に見つからないよう、必死だったんだね。母親は震えながら彼女の保険証やら通帳やら必要になる書類の束を僕に渡してきたんだ。あの子は家出のような形で僕のところへ転がり込んだと思っているけれど、ちゃんと母親の了承は得ているんだよ。今も連絡も取っているから」
「そうだったんですか…」
何となく二人が同居していた理由が見えてきた。
二人は本当に不純な動機で生活を共にしていたのではない。
一十はただ連れて行くだけではなく、しっかり裏で親にも話をつけていたのだ。
ぼんやりした風体で奇行が目立つ人だと思っていたが、翔が考えるよりずっと常識的で大人な人物なのは間違いない。
「だから僕の手を離れても、何かあれば相談して欲しい。今日僕が言いたかった事はそれだよ。彼女の口からはそれを君に伝えるのはまだ辛いと思う。でも君は知っておくべきだと思って話したんだ」
「ありがとうございます。その…驚きましたが、話を聞けて良かったと思います」
「うん。君は命を張ってまで陽菜を救ってくれた英雄だからね。もう何の憂いもなく彼女を託せるよ。これからは君が守ってあげて」
「はい。勿論です」
翔は大きく頷いた。
一十から託された思いに報いる為にも、もっと彼女を幸せにしたい。
お互い、辛い過去を忘れるくらい。
☆☆☆
翔と一十がリビングに戻ってくると、陽菜が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
翔は一十がいる事も忘れて陽菜を優しく抱きしめた。
「どうした?そんな不安そうな顔して」
翔が陽菜の顔を覗き込む。
「ううん。大丈夫。それより随分長い時間だったけど何話してたの?」
「いや、仕事の話とか…後は世間話みたいなもんだよ。別に大した事じゃねぇし」
とりあえず適当に誤魔化しておく。
それが嘘なのは彼女もわかっていると思うが、敢えて追求したい辺り、彼女もある程度察しているのかもしれない。
「あ、そういえばお腹空いたね」
その時、唐突に一十が両手を叩いて名案をひらめいたとばかりに宣言する。
「そうだ。これから回転寿司に行こう!僕ね、最近ハマってるんだよ。支倉くんは行った事あるかい?」
「ええ、何度もありますよ…」
家を出てからは何でも好きな物を食べられるようになった翔は、特にB級グルメやジャンクな食べ物の美味さに目覚め、一時期は体重の増加に方々から叱責されたくらいだ。
当然回転寿司も攻略済みである。
しかし隣の陽菜が嫌な顔をして、翔の袖を引っ張ってきた。
(蓮、一十先生と回転寿司は地獄を見るよ…)
目配せでそれを伝えたかったのに、そこまで通じ合うレベルに達していない翔は何を勘違いしたのか、少し耳を赤くして手を握ってきた。
(違う!そうじゃないよ、蓮っ!)
そんな無言の訴えも虚しく、翔は笑顔で答える。
「それなら近くに美味い回転寿司あるんで、これから行きますか?」
「本当かい?じゃあ早速行こうか♡」
「ほら、陽菜も支度して来いよ」
「蓮のバカ」
「痛っ!何だよ陽菜?」
陽菜は翔の足を思い切り踏んで、寝室へ消えていった。
翔がその理由を知るのは、一時間後になる。
酢飯が苦手だという一十が食べ残したシャリだけの寿司を二人でエンドレスに処理しなくてはならない地獄を味わうのだった。
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